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田の神祭り

2019.11.23 06:29

https://www.pmiyazaki.com/kagura/ikime_jinjya/8.htm     より

"神楽終盤に姉さん被りに赤着物を着た舞手と、裁着袴(たっつけばかま)、赤布で頬被りした舞手二人が登場する「杵舞」がある。

女は箕、男二人は杵をもち、正面に座る女の箕を男が杵で突き、暗に夫婦和合を表す。

次に、男は向かい合って立ち杵を肩に渡しその上に女が立ち箕を振る。 子孫繁栄と豊穣を祈念する舞である。

つづいて「田の神舞」で、腰カゴからいろいろな作物を取り出し面白く謂れな どいい、豊作であることを告げて退場する。”

(みやざきの神楽ガイド/みやざきの神楽魅力発信委員会編 より一部引用)

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説   より

田の神   たのかみ

稲の生育を助け、豊穣(ほうじょう)をもたらしてくれる神の総称。古くから水稲耕作の行われたわが国では、豊作を祈願し、収穫を感謝して田の神を祀(まつ)ってきた。古典に現れる倉稲魂(うかのみたま)や保食神(うけもちのかみ)はその一種と考えられ、また、古代以来、宮廷の神事として行われてきた祈年祭や新嘗祭(にいなめさい)は、田の神祭りと密接にかかわるものである。現在、民間での田の神の名称は各地各様で、田の神とよぶほか、作神(さくがみ)、農神(のうがみ)、作り神とよばれたり、他の信仰と習合して、亥(い)の神、えびす、大黒(だいこく)、稲荷(いなり)、地神(じがみ)、かまど神、荒神(こうじん)、お社日(しゃにち)さま、お丑(うし)さまなどを田の神と認めている所もある。

 その祭りには、稲作の実作業に応じてそのつど行われるものと、毎年一定の月日を決めて営まれるものとがある。前者としては、農耕儀礼の多くがこれに相当する。種籾(たねもみ)を播(ま)いたあと、苗代(なわしろ)田の一部にカヤ・ヤナギなどの自然木を立てて田の神の依代(よりしろ)とし、これに焼き米などを供えて祀ったり、田植開始時や田植終了時に、田の水口(みなくち)や屋内の一定場所(荒神棚や神棚など)に苗三把を据え、餅(もち)・神酒(みき)などを供えて祀る例が多い。とくに中国地方山地で最近まで広く行われていた大田植は、田植が田の神を迎えて行う重要な神事であったことをうかがわせるものである。また収穫の際には、初めに数束の稲を刈り取って田の一隅に掛けたり家に持ち帰って祀ってから稲刈りにとりかかる穂掛けの儀礼があり、続いて収穫後には刈上げの祭りをするが、祭祀(さいし)対象はいずれも田の神である。これらの農耕儀礼の背景には稲霊(いなだま)の再生・成長の観念がうかがえ、各儀礼は密接に関連しあっている。祭場には定まった田があてられることが多く、屋外での祭祀は古風を伝えるものと考えられる。

 一方、暦日に組み込まれて毎年一定の祭日をもつものには、東日本の3月と10月の16日、2月と10月の10日、西日本の2月と10月の亥の日の田の神祭りや、奥能登(のと)のアエノコト(1月9日と11月5日)、九州北西部の丑の日祭り(2月と11月の丑の日)などがある。春秋の社日の所もあり、正月を挟んで期日が対称的に存在するのが特徴で、宮中の祈年祭や新嘗祭との関連をうかがわせる。これらには、神が春に山から降りてきて田の神として稲作を守り、秋の収穫後には田からあがって山の神になるという神去来(かみきょらい)の伝承を伴うものが多い(家と田との去来を説くものもある)。

 また、正月には種籾俵やかますを祭壇にする所が各地にあり、正月も田の神祭祀の重要な機会で、年神と田の神との結合がみられる。このように、田の神には稲作を守り育てる守護神としてのほかに、穀霊的性格も認められ、各地の田の神祭りにはこの二つの面が表れている。また、祖霊的性格をみることも可能であり、さらには耳や目の不自由な神とする伝承もまつわりついており、田の神の性格やその祭祀には、なかなか複雑なものがある。

 また南九州(薩摩(さつま)、大隅(おおすみ)、日向(ひゅうが)南部)では、杓子(しゃくし)やすりこ木を持った田の神(タノカンサア)の石像を田のほとりや小道などに祀ることで知られる。なかには後ろ姿を陽物に模したものがある。

https://www.ensenji.or.jp/blog/3350/  山の神田の神 より

境内の妙見堂階段下に山の神(やまのかみ)の社があります。元々は近くの林の中に祀られていました。

飯能ゴルフが出来るに事により、現在の場所に移築されました。

お寺の社でなく、地元の物と言われていました。長いこと放置されていましたが、あまりにも傷みが酷くなり、寺役員、自治会に諮り、修築いたしました。

「人は亡くなると山に帰り、山の神となる。春は山の神が、田の神として山から下りてくる。刈り入れが終わると、また山に帰る」と言われ、仏教と異なる古くからの山中他界(来世)観がありました。

田の神になるのは、稲作が大陸から渡ってきてからのことだと思います。

山の神は各地にありますが、元々は地元の方々の氏神、ご先祖様なのです。

ご先祖様は、いつも近くにいるとする考えです。。

関東では筑波山が一番知られています。奈良の三輪山、高野山、朝熊山も先祖の集まる山の神だったと思います。

それ以上に高い富士山は、霊山とは言われていなかったと聞いたことがあります。

山の神Wikipedia

しかし、一つの他界観しか認めない立場の人もいます。

おそらく浄土真宗寺院の檀家さんのようですが、血相を変えて抗議した人もいました。極楽浄土だけが一番素晴らしい世界だと信じているようでした。

浄土真宗では、盆迎え、盆送りをしないようですが、他の宗旨で盆迎え、盆送りをするのは、比較的近くにご先祖様が、いらっしゃるとする考えがあったからでしょう。

他の宗旨宗派、宗教の立場も尊重し合うことが必要です。

宗教、宗旨、時代により異なる他界観があります。

一部に信仰する宗教以外一切認めない人もいます。

平気で「他の宗旨では成仏できない」と言う方もいました。

お釈迦様の教えは来世に成仏する事を重視するのでなく、その前にこの世に善き人であれとお説きになっているのです。

各地の氏神は、後々に有力な諏訪、春日、八幡、山王などの神々が勧請されると、それらの神々が氏神となり、古くからある氏神は合祀されて、忘れ去られてしまうことが多かったようです。

山の神、田の神は、ほとんど意識されなくなっていますが、古い歴史を持つ大事なお社なのです。

https://www.nihon-kankou.or.jp/ishikawa/174637/detail/17424ba2210026831 

あえのこと より  行・祭事  石川県|鳳珠郡能登町

「田の神様」への感謝を表わす神事。12月5日、田の神様を迎え、入浴や食事でもてなし、一年の労をねぎらう。翌年2月9日になると、田の神様を送り出す。平成21年にユネスコの無形文化遺産に登録。 あえのことの実演は柳田植物公園内、合鹿庵にて実演が行われる。


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説  あえのこと

奥能登(のと)で顕著にみられる農耕儀礼。戸主が旧暦11月5日(現在は12月5日)と旧暦正月9日(現在は2月9日)に田の神を饗応(きょうおう)する家ごとの行事である。アエノコトとかタノカミサマともよばれる。「あえ」は饗することだといわれている。田の神の多くは片方の目もしくは両方の目が不自由で、夫婦(めおと)神であると伝えられている。

 家ごとの行事だけに、諸相があるが、そうしたなかから一つの事例を次にみてみる。当日は朝から準備に入る。種籾(たねもみ)俵を床の間や神棚の下に積み、そこに山で切ってきた榊(さかき)などの木を立てる。この俵が春の「あえのこと」まで田の神として意識される。夕刻に裃(かみしも)姿の戸主が、苗代田で迎えの口上を述べて稲株を打ち起こし、扇を手に家まで案内する。目が不自由だということで、溝(みぞ)などに心を配る。玄関先で家族に声をかけ、一同が出迎えるなかを炉端の横座につく。それから風呂場(ふろば)へ案内する。湯加減を案じて声をかける。風呂から戻ると、小豆(あずき)飯、みそ汁、煮しめ、メバルの尾頭付きなどを盛り付けた膳(ぜん)を一つ一つ説明しながらすすめる。甘酒も供える。夫婦神ということで2膳用意する。男神の膳の前には葉付きの一本大根、女神には二股(ふたまた)大根をつける。家族は下座(しもざ)で各自の膳について、供え物と同じ料理を食す。

 2月9日の春の「あえのこと」は田の神を送るということであるが、湯浴(ゆあみ)や饗膳(きょうぜん)など同様の方式である。淡路島北部のヤマドッサンや九州北部の丑(うし)の日祭など他地域の収穫祭や予祝祭との関連性が注目される。「奥能登のあえのこと」として、国の重要無形民俗文化財に指定されている。[佐々木勝]

 また、同名称で2009年(平成21)ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に登録された。[編集部]

https://umiyamabusi.hatenadiary.org/entry/20051225/1200651504  

田の神様・「あえのこと(アエノコト)」画像の謎  より

神さまの画像は、柳田国男が田の神様の画像があることを知っていたのに用いずそれがあちこちで引用されているのはなぜなのか?という問題提起。

『奥能登のあえのこと』の巻頭にその写真が載る。

キャプションには「両度のアエノコトに、この絵像の前に種籾俵を供えて饗応する」とあり、本文には「 」…あれ…?画像の前であえのことを営む梶家が載っていない。

『神々の原影』では、「稲の神々ー日本人の労働観ー」「稲荷信仰の普及」のところにこの画像が載っている。

この書で、それまでに紹介されている画像は、若い神(稲荷神)が前後に稲藁を担いでいるものが多く、この画像は老人である点での違いはあるが基本構造は同じである。

『神々の原影』[本文の引用]

三橋(健):先生=西田長男=のお話しのように、今まで見てきた「稲荷神影」と全くおなじものなのですが、「田の神様」と呼ばれています。

西田:どこの「田の神さま」ですか。

三橋:いずれも奥能登の「田の神まつり」であるアエノコトにかけるものです。

※以下、三橋氏は小倉学氏の教示によって、絵像を掛けてアエノコトを行う輪島市里町梶家のアエノコトを見てきたこと。

行事の様子を語り、「このアエノコトに掛けられる「田の神さまの絵像」が、前にもいったように、老翁系の稲荷と全く同じものであることは注目すべきだと思うのです。」と結んでいる。ここに見られるように、梶家では、いつからか田の神様として「あえのこと」には飾ってきた。

そして田の神の具象イメージというと、この老神が浮かぶくらい広く知られるようになり、

「あえのこと」を知る人のかなりが思い浮かべる画像となっている。

ここまでが、私たちが知ることの出来るこの画像の全てである。

この写真を最初に報告した四柳嘉孝氏のお子さん嘉章家には、どのような新たな資料が待ち受けていたのであろうか…。

四柳家に、嘉孝氏が調査した時に手に入れたこれと同じ写真があり、その裏に、嘉孝氏の字で次のように記してある。

宮城県岩沼郡竹駒稲荷神社(東北における本江)いなり彦の神南志見村字里梶氏所蔵

昭和二十六年十月十一日 わじま 松下写真館

 

全てはこれで判明する。

宮城の神社から、「田の神」と聞いて手に入れた稲荷神影を、梶家では「あえのこと(アエノコト)」の折に飾っていた。柳田は、元々能登のものではないので、あえて取り上げなかった。それだけのことなのだ。と、さりげなく書いたが、この写真の裏に書いてある文字群を見たときに走った衝撃はすごかった。

始めは、東北の稲荷神なのか、ぐらいのことだったのだろう。それが、いつの間にかすごく重要な画像となって一人歩きし出した。

なのに、誰も事実に触れることがないまま、稲荷神と同じですね…とか、目に見えないはずの田の神が祀られていた、とかいうようになっていった…。

祀られているものを裏返してみることもなされなかったろうし、梶家の画像に、手に入れた由来がかかれているのかどうかもわからない。

そうだったのだ、こんなこともあるのだ…呆然とするほど衝撃だった。

この、有名になった画像は現在どうなっているのだろうか?

梶家ではアエノコトは…?

そして、宮城には、同じ画像が各地にあるのだろうか?新たなロマンが広がっていく…。