©関愛子

ガチャむらやⅡ という箱の前で。

2019.11.24 03:00


「本当にそうなのでございましょうか?」


そうきかれると「YES」の一言さえ言い切れない。

たとえ、それが、自分の口から出た言葉を発端とする問いだったのだとしても。


世界は、そんなことばかりかもしれない。


自分が普段、いかに、曖昧な領域に曖昧な言葉で折り合いをつけながら、やりすごしているか。


目の前のことを穏便に進める目的を遂行するためだけに、

受け入れ切れていない矛盾にもYESを出し続けているのは、自分だ。


決して、相対している、この装置のせいではない。


妥協をして、楽をして、インスタントに得られる何かで、

満たせるスペースは、自分の中にもあるとして、

それは、どれほどの大きさだろうか。


突き詰めてこだわって、苦しみながら、持ちうるリソースを多く掛けて、

得たものは、自らのなかの大部分を占拠する。

それは、幸せなのだろうか。


どちらかはYESでどちらかはNOである、と

断言できる自分は、いつのまにか、いなくなってしまった。


自然を美しく感じるのは、自分の領域を侵食しないから。

人の子供が可愛く見えるのも、自分に背負うべき責任がないときに限る。


机の上にあるものは、角を整えるだけで、きれいに見え、

載っているものが何ひとつ変わっていなくても、並びがカオスであるだけで、心がざわつく。


その矛盾のYESとNOの境界を決めるのは、自分だ。


これは、人生のバランスゲーム。


だからこそ、ルールに縛られる「ゲーム」を求めるのかもしれない。

自分で決めずとも、YESとNOの境界は、ルールにそってはっきりと決まっている。

「私」とは別の主軸で、美しく展開していくその光景を見て、

「私」は、常に選択しつづける苦しみを免れる。

さらに、それを、お金というまた別のルールに縛られながら、

気持ちよく、感じにいくのかもしれない。


速攻で温まるレンチンものは、すぐに冷えて固くなる。

じわじわゆっくりあたる炭の火は、長くずっと温い。


そんな言葉の羅列の中にさえ、いくつもの矛盾を孕みながらも、

私はそんな言葉のいくつもをこの口で指で目で脳で生み出しつづける。


生み出し続ける先にあるものは、進化か、それとも愛か。