HakoniWa戯言Vol.22HakoniWa的社会の考察ーあるものを観よー
前回↓
「公」と「私」がともにあり、ともに充実してこそ、お互いの豊かさが実現されるのではないかと考える。
「公」と「私」をともに、楽しむ、愉しむことが大切であるな、と思うのです。
同じ楽しむ、愉しむと表現しても「公」と「私」に対するものでは、その考え方、捉え方、方法はそれぞれに全く別ものになるとは思いますが。
とした。
もう少し補足的に
楽しむ、愉しむ、というのは主観的であり、どこまでいっても私自身がそう感じるかどうか、という話である。
その「私自身」という存在を観た時に、ヒトは完全に「私」的要素だけでは存在していないということが観れる。
ヒトの営みにとって空気のように存在するのが「社会」である。
ヒトの営みあるところに「社会」は存在する。
ということは、「私個人」という存在を観た時に、極めて「私」的な部分と「公的」な部分があって初めて一個の「私」を形成していると観ることができる。
社会と個人において、それぞれが対峙しているのではなく、社会というもの自体
私たちの「公」的部分の重なりが形成している。
まさに、一心同体のものである。一蓮托生というほうが表現としては良いのかも知れない。
イメージ図
このイメージ図を例にとると、個人の存在の集合(またはその蓄積)そのものが社会を形成している。
その個人は「私」的部分と「公」的部分で構成されており、それぞれの「公」的部分の重なり、結合によって社会を形成している。
「公」的部分はその「私」的部分の緩衝材的な役割をしているとも観れる。
実際、「公」をないがしろにして、「私」を主張すれば、他人を傷つけてしまう、また自分自身も傷つけてしまうことがあることは容易に想像できる。
この私の中の「公」的部分というのは、新しい概念というのではなく、そう存在しているもの、あるものである。
つまり、「あるものを楽しもう」とするコンセプトHakoniWa的に、その対象としたいものであると考える。
今まで、ないがしろにしていた、あること/あるものをあると認め、認識すること。
それらを拒否するのではなく、受け入れて、いかに楽しむかっていうところが大切であると考える。
こういった視点で物事を見ること、またはそういう視点を一つ増やすことで、社会や
そのあり方、または人生やそのあり方を豊かに捉えなすことができるのではないかと考える。
今日はこのあたりで
お粗末さまでした…