絶対不変の法則───因果律
古代霊は語る
第二章 絶対不変の法則───因果律
前章ではシルバー・バーチと名告る高級霊を中心とする霊団が神界からの使命を受けて、霊媒モーリス・バーバネル氏の口を借りて神の摂理を説くに至った経緯を述べました。
その準備のためにシルバー・バーチはバーバネル氏の出生以前、それも母体に宿る瞬間から面倒をみたと言います。もちろんこれは霊言霊媒にふさわしい人間に育てるための面倒をみたという意味であって、私の推察では母体に宿る以前のバーバネル氏も実はシルバー・バーチ霊団の一人であって、使命達成について十分な打ち合わせを行った上で母体に宿ったに違いありません。一種の再生です。
果たせるかな、氏にとって最後の記事となった一九八一年八月号の Two Worlds 誌の遺稿の冒頭で、次のように告白しております。
『私と心霊とのかかわり合いは前世にまでさかのぼると聞いている。もちろん私には前世の記憶はない。エステル・ロバーツ女史の支配霊であるレッド・クラウドは私にとっては死後存続の決定的証拠をみせつけてくれた恩人であり、
その交霊会においてサイキック・ニューズ紙出版の決定が為されたのであるが、そのレッド・クラウドの話によると、私は「こんど生まれたらスピリチュアリズムの普及に生涯をささげる」と約束したのだそうである。』
(巻末〝バーバネル氏の遺稿〟参照)
約束どおり氏は十八歳から七十九歳までのほぼ六十年間をスピリチュアリズムひと筋に尽くしました。中でも特筆すべきことはサイキック・ニューズ社の社長を無報酬で務めたことです。正に奉仕の生涯であったわけです。
再生については別に章を設けて詳しく取り扱いますので、ここでは難しいことは述べませんが、こうした滅私奉公の大役を担った人物は例外なく高級霊の再生とみてよいようです。
もっとも、それでも尚かつ、うぬぼれや見栄、肉欲などのいわゆる〝人間的煩悩〟に迷わされて、使命の道から脱線していくケースが多いのです。とりもなおさず肉体というやっかいな欲望の媒体に宿っているからこそでしょう。
オリバー・ロッジ Sir Oliver Lodge の著書に Phantom Walls (幻の壁)という、あまり知られていない随筆調の論文集があります。幻の壁とはつまりは肉体の五感を意味し、これが幻にすぎない存在であるといっているのですが、言ってみれば仏教の色即是空の思想と相通じるものがあります。
オリバー・ロッジはもともと物理学者ですが、後年は心霊科学者となり、さらに、単なる心霊科学からいち早くスピリチュアリズム的思想に転換し、晩年は哲人を思わせる洗練された心霊思想を説いています。それを如実に物語るのが右の書で、その中に次のような箇所があります。
『われわれはよく「肉体の死後も生き続けるのだろうか」という疑問を抱く。が一体その死後というのはどういう意味であろうか。もちろんこの肉体と結合している五、七十年の人生の終ったあとのことに違いないのであるが、私に言わせれば、こうした疑問は実に本末を転倒した思考から出る疑問にすぎない。
というのは、こうして物質をまとってこの地上に生きていること自体が驚異なのである。これは実に特殊な現象というべきである。私はよく 「死は冒険であるが、楽しく待ち望むべき冒険である」 と言ってきた。
確かにそうに違いないのだが、実は真に冒険というべきはこの地上生活そのものなのである。地上生活というのは実に奇妙で珍しい現象である。こうして肉体に宿って地上に出て来たこと自体が奇蹟なのだ。失敗する霊がいくらもいるのである。
霊界から見れば、肉体の死後にも生命があるのは極めて当り前のことであろう。言ってみれば地上の生命などは朝露のようなもので、日の出とともに蒸発してしまうはかない存在なのである。とは言え、生きているかぎり肉体というのは実にやっかいなシロモノである。
地上生活の困難の大部分は肉体の扱いにくさから生じているといってよい。肉体をまとっていくこと自体がまずやっかいである。そして、死ぬ時もまたやっかいである。その生から死への間もずっと手入れがやっかいである。が肉体がわれわれではない。少しの間───ホンのちょっとの間だけ使用する道具にすぎないのである。』
古今東西の宗教が例外なく肉体的欲望を罪悪の根源とみなし、節制を説き、肉体を超越する修業の必要性を力説するのもむべなるかなと思われますが、それに関連してもう一つやっかいなことは、そうした重大なる使命の達成を妨げよう、挫折させようとする霊界の一方の勢力が鵜の目鷹の目で見張っているということです。
そうした霊は人間のちょっとした心のスキ───よく魔がさすと言いますが、そうしたちょっとした邪念につけ入って、ズルズルと深みへと引きずり込んでいきます。
はじめの頃は純粋で謙虚で誠心誠意の人だった霊能者が、いつしか自分は神である、仏である、と言い出し、本来の使命を忘れて宗教としての勢力の拡大に躍起になり、権謀術数をめぐらすようになっていきます。
中国の古い言葉に「聡明叡智、これを守るに愚をもってす」というのがありますが、その点バーバネル氏やテスター氏のように愚直なまでに寡欲で謙虚であることが、宗教家や霊能者としての第一条件なのでしょう。
シルバー・バーチに言わせれば、地上の宗教は既成、新興の別なくことごとく落第だそうです。つまり人間的欲望というアカがこびりついて宗教としての本来の意義を失ってしまっている。そこでそのアカを洗い落とし、本来の神の摂理を改めて説き明かすのが自分たち霊団の使命だというのです。
そこで本章ではその神の摂理とは何かという点に焦点を絞ってみましょう。シルバー・バーチはこれを「恒久不変の自然法則」Eternal Natural Laws と呼んだり「神的叡智」 Divine Wisdom と呼んだりしていますが、これをつきつめれば「原因と結果の法則」、いわゆる因果律 The Law of Cause and Effect に収約されるようです。
こう言うと「なんだ、要するに因縁のことだろう」とおっしゃる方がおられると思います。その通りです。しかしシルバー・バーチはこれに人間の霊的向上進化という目的を付加します。単なる因果応報の機械的なくり返しではなく、その因果律の背後に人間を向上せしめんとする神の配慮があると説くのです。
それがある時はよろこびとして感じられ、ある時は苦しみとして感じられたりします。人間の真情として、不幸や貧乏、病気、災害といったものが無いことを希望しますが、それは今という刹那しか意識できない人間の狭い量見から出るわがままであって、過去、現在、未来の三世を見通した神の目から見れば、当人の成長にとってはそれが最上であり必須のものであるわけです。
そうなると、いわゆる「因縁を切る」ということのもつ重大性を痛感せずにはおれません。切ることが大切だと言っているのではありません。はたして因縁を切ることが正しいことなのかどうか、イヤその前に、一体因縁は人為的に切ることが出来るものなのかどうかを真剣に考えなくてはならないということです。
この「因縁を切る」という観念は、私の知るかぎりでは世界でも日本人だけのもののようです。そして、これは非常に広い意味、いろんな意味で使用されており、まずその整理から始めなくてはならないようです。
たとえば何代にもわたって長男が自殺するという家系があるとします。「怨みの因縁だろう」──だれしもそう考えます。そしてそれは多分当っているでしょう。そこでその因縁を切るための手段を講じます。
手段にもいろいろありますが、要するところ長男を自殺に追いやる霊魂、いわゆる因縁霊をつかまえて諭すなり供養するなりして改心させることになります。そしてそれがうまく行けば、大ていこれで「因縁が切れた」と思いがちです。
がここまでの段階は因縁霊との縁が切れたということであって、その奥の因縁そのものが消えたとはいえません。もしかしたらその時期がちょうど因縁の消滅する時期だったかも知れませんから、それならば本当の意味で「因縁が切れた」ということになりますが、因縁霊もあくまで因縁という法則に便乗して動くコマのような存在にすぎないのですから、因縁霊だけを人為的に引き離しても、それだけで因縁そのものが切れたということにはなりません。
では因縁そのものが自然消滅するまで手段を講ずべきでないということになるかというと、そうとも言えません。病気と同じで、生命の危険もあるほどの大病の場合は手術もやむを得ないことがあるように、人為的に因縁霊を引き離す術、いわゆる除霊の必要な場合もありましょう。
ただ、それだけで事足れりとする考えは過りであることを私は指摘しているのです。その奥の因縁そのものが残っているかぎり、また別の形で不幸や災厄が起こってきます。
次に、自分に何のかかわりもない遠い祖先の残した因縁になぜ自分が苦しまねばならないのかという疑問が生じます。一見もっとものような疑問ですが、これはスピリチュアリズムの真髄を知らない人の抱く疑問といえそうです。
自分とかかわりがないという考えそのものが根拠のない考えであって、実際は深い深い因縁の糸によってつながっているのです。
これは生まれ変わり、つまり再生の問題に関わってくる大問題で、これは次章でくわしく取り扱うことにして、ここでは要するに、縁のないものとの係わりあいは絶対にない、と述べるに留めておきましょう。シルバー・バーチはそれを次のように表現しています。
『そのうちあなた方も肉体の束縛から開放されて曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。そうすれば紆余曲折した、一見とりとめのない出来ごとの絡み合いの中で、その一つ一つがちゃんとした意味をもち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解するはずです。』
これは人生が有目的の因果律によって支配されていることを物語っているのですが、その「有目的」というところに注目していただきたいのです。
つまり宇宙人生が魂の向上進化という至上目的のために経綸されているということです。この点が従来の因果律の思想と本質的に異る点といえましょう。ではこれからシルバー・バーチにその点をくわしく説いてもらいましょう。
『あなたがたがスピリチュアリズムと呼んでいるものも神の法則の一部です。神は宇宙を法則によって統一し、法則を通じてその意志を表現しているのです。宇宙のどこをさがしても、法則の支配しない場所など一箇所もありません。
人間がこれまでに知り得た範囲に限りません。それよりはるかに大きい、人智の及ばないところまでも、完全に神の法則が支配しております。
自然界の法則はいわば神の定めた法則です。およそ人間界の法律といわれるものには変化(改正)がつきものです。不完全であり、全てを尽くすことができないからですが、神の法律は全てを尽くし、至らざるところはありません。
偶然とか偶発というものは絶対にあり得ません。すべてが規制され、すべてが計算されているのです。あなたがたは肉体を具えていますが、これは一種の機械です。つまり肉体という機械をあやつりながら自己を表現しているわけです。
かりに悩みを抱いたとしますと、それは水門を閉ざすのと同じで、生気の通るチャンネルを失うことになります。つまりエネルギーの供給がカットされ、不健康の要因ができあがります。あなたがたがそのことに気づくまで、肉体は悩みと病気の悪循環を繰り返します。
また悩みは肉体の霊的大気ともいえるオーラにも悪影響を及ぼし、それが心霊的バイブレーションを乱します。
悩みを取り除かないかぎり、心霊的エネルギーは流れを阻害され病気の要因となります。悩みや恐怖心を超越する──言いかえると自我のコントロールが出来るようになるには、長い年月と厳しい修養がいります。
それも実は神の無限の愛と叡智から出た法則なのです。その悩みに費されるエネルギーを建設的な思考に切りかえれば、決して病いは生じません。神の法則は完璧です。
そして、あなたがたはその中の無くてはならない存在なのです。向上進化という至上目的のために必要な勉強のチャンスは、日常生活の中にいくらでも見出せるのです。
私が法則を変えるわけにはいきません。原因と結果の法則は絶対であり、私がその間に入ってどうこうするということは許されないのです。ただ、そういう法則の存在を教え、そんな心構えでいては病気になりますヨという警告をしてあげることは出来ます。肉体は機械ですから、それなりの手入れが必要です。
手入れを怠ると働きが悪くなります。ですから時には休息させて回復のチャンスを与え、その本来の働きを取り戻すように配慮してやらなくてはいけません。神の法則はごまかしがきかないのです。
人間は肉体という機械を通して自分を表現しています。その機械にもエネルギーの限界があり、バッテリーに充電してやらなくてはならない時期が来ます。
それを知ってそれなりの手段を講じるのはあなた自身の責任であり義務なのです。なぜなら地上生活を生きる上で欠かすことのできない大切な道具だからです。
私がいかにあなた方のしあわせを願っているとはいえ、あなた方に代ってその責任と義務を遂行してあげるわけにはいかないのです。心に思うこと、口に出す言葉、そして実際の行動、このいずれにも責任をとらされます。あくまで自分が責任を負うのです。
が、そのいずれも地上生活においては結局肉体という機械を通じて表現するわけですから、その機械が正常に働いてくれるように、ふだんから健康管理に気を配らなくてはいけません。肉体は実に驚嘆に値するすばらしい器官です。
地上でこれ以上の入り組んだ器官をこしらえることはまずできないでしょう。正に驚異といってよいものですが、やはりそれなりの手入れは必要なのです。
もちろん法則と調和した生活を送っておれば病気も不快も苦痛も生じないでしょう。病気とか不快とか苦痛とかは自然法則との不調和の信号にほかならないからです。法を犯してその代償を払うか、法を守って健康を維持するか、そのいずれかになるわけです。
人間の思想・言動において動機というものが大きなポイントになることは確かですが、法則を犯したこと自体はやはりそれなりの代償を払わねばなりません。動機さえ正しければ何やってもかまわないというわけにはいかないということです。
肉体を犠牲にしてまで精神的な目標を成就すべきかどうかは、その人の進化の程度によって判断が異ってくる問題ですが、ただ地上に生を享けた以上は、それなりの寿命というものが与えられているのですから、それを勝手に縮めることは神の意志に反します。
たとえば人類愛に燃えた崇高な人物がいると仮定しましょう。その人が博愛事業のために肉体を犠牲にすることが果たして許されるかとなると、それはその人個人の問題であって一概に断定はできませんが、ただ残念なのは、得てしてそういう人の動機がはたからみるほど純粋ではないということです。
その腹の底にはオレは偉い人物だといううぬぼれがどこかに潜んでいるものです。それが無理な行動に自分を駆りたてる結果となっていることに気づかないのです。
ひと口に法則といっても、肉体を支配する法則もあれば、精神を支配する法則もあり、霊的な法則もあり、それらが絡み合った法則もあります。
そうした法則を人間はもうダメだというギリギリの段階に至るまで気がつかないからやっかいなのです。なぜでしょう。人間と宇宙の真実の相(スガタ)を知らないからにほかなりません。要するにこの世はすべて〝物〟と〝金〟と考えているからです。
が、そうした苦しみの末に、いつかは真実に目覚める時がやってまいります。自我の意識が芽生え、内在する神性が目覚めはじめます。これも実は神の因果律の働きの結果なのです。つまり苦しみが大きければ大きいほど、それだけ目覚める知識も大きいということです。
別の言い方をすれば、神は宇宙の一ばん優秀な会計係と考えればいいでしょう。収支のバランスをきちんと合わせ、使途の配分に一銭の狂いもありません。あなたは受け取るに値するだけを受け取り、多すぎもせず、少なすぎることもありません。
その価値判断はあなたの霊的進化の程度を考慮した上で行われます。地上でごまかしやお目こぼしがきくようですが、霊的なことに関するかぎりそれは絶対に有り得ません。
大自然の法則は完璧です。その背後には神の無限の愛と叡智が働いております。私たちがこしらえたのではありません。私たちはただその働きを知っているだけです。
原因があれば結果があり、その結果が新らしい原因となってまた次の結果を生んでいくという法則です。その間に何者も介入することを許されません。偶然もありません。幸運もありません。ただ法則があるだけです。
法則が撤廃されるなどということも絶対にありません。執行の猶予も保留も妨害もありません。絶え間なく機能し、変化することも無く、また人為的に変えることも出来ません。法則の中から都合のいいものを選ぶことも出来ません。
絶対なのです。神とはすなわち法の極致であり、法の粋であり、いかなる力、いかなる情実をもってしても動かすことは出来ません。』