再生──生まれ変わり──
古代霊は語る
第三章 再生 ──生まれ変わり──
因果律と切っても切れない関係にあるのが再生の問題です。つまり他界後あるいは期間をおいて再びこの地上(時には他の天体)へ生まれ出て、必要な体験を積み、あるいは前世の償いをするという説です。
シルバー・バーチはこの再生を全面的に肯定するスピリットの一人ですが、そのシルバー・バーチの霊媒をつとめていたバーバネル氏が永い間この説に反対していたという事実は、シルバー・バーチとバーバネル氏が別人である───
言いかえればシルバー・バーチはバーバネル氏の潜在意識ではない、ということを示す有力な証拠として、今なお有名な語り草になっています。
さて、ひと口に再生といっても、同じ人間がそっくりそのまま生まれ変わるのだという説、いわゆる全部的再生説、未浄化の部分だけが生まれてくるのだという説、いわゆる部分的再生説、全部でも一部でも無い、
ちょうど人間が子ダネを宿すように、守護霊(となるべきスピリット)が霊的なタネを母体の胎児に宿すだけだという説、いわゆる創造的再生説、等々があります。
同じスピリチュアリズムの中にあって何故こんなに説が分かれるのか。その点をまずシルバー・バーチに説明してもらいましょう。
『知識と体験の多い少ないの差がそうした諸説を生むのです。再生の原理を全面的に理解するには大変な年月と体験が必要です。霊界に何百年何千年いても、再生の事実を全く知らない者がいます。
なぜか。それは、死後の世界が地上のように平面的でなく、段階的な内面の世界だからです。その段階は霊格によって決まります。その霊的段階を一段また一段と上がっていくと、再生というものが厳然と存在することを知るようになります。もっともその原理はあなた方が考えるような単純なものではありませんが・・・・・・』
霊界にしてこの有様ですから、地上の人間に至っては尚更のことで、太古より世界各地にさまざまな再生にまつわる信仰がありました。
単に人間としての再生だけでなく、動物への生まれ変わりを説くものもあります。ただ機械的に何回も何回も、それこそ無限に再生をくり返すと説く宗教もあります。
では再生の真相はどうなのか。そしてその目的は何なのか、これをシルバー・バーチに説いてもらうことにしますが、その前に、再生問題を扱うに当たって大切な課題の一つに、用語の整理があります。
中でも一ばん中心的な用語となるのは「自我」「意識」「個人的存在」などで、これらを正しく理解していないと再生の真相は理解できません。
浅野和三郎氏の名訳にマイヤースの『永遠の大道』と『個人的存在の彼方』の二冊がありますが、前者の原題は The Road to Immortality となっていて、これを文字通りに訳せば「永遠不滅への道程」ということで、
結局後者の『個人的存在の彼方』 Beyond Human Personality と同一の内容を意味していることになります。つまり個人的存在を超えた大我こそが真に永遠不滅の存在だというのです。
(私の師で浅野氏の弟子であった間部詮敦氏の話によりますと、浅野氏は人間味とか人間らしさというものを大切にされた方だったそうで、その著書や訳書の題名にどこか文学的色彩や風味を感じさせるのはそのせいでしょう。私もこれは非常に大切なことだと思います。「永遠の大道」を、内容にこだわって「永遠への大道」とすると味が損われるような気がします。)
さて今私たちが〝自分〟として意識しているものは実は絶対的な個人的存在ではなく、真の自我である大きな意識体の一部又は一面にすぎない。その個人的存在の彼方にある大我へ回帰していく過程がとりもなおさず人生であるというわけです。
その個人的存在を超えた意識の集団をマイヤースは Group Soul と呼び、これを浅野氏は 「類魂」 と訳しました。達意の名訳というべきで、これよりほかにいい訳語が思い当たりませんが、問題はその正しい理解です。マイヤースの通信を読んでみましょう。まず The Road to Immortality から───
『類魂は見方によっては単数でもあり複数でもある。一個のスピリットが複数の類魂を一つにまとめているのである。脳の中に幾つかの中枢があるように、心霊的生活においても一個のスピリットによって結ばれた一団の霊魂があり、それが霊的養分を右のスピリットから貰うのである。
私はさきに帰幽者を大別して「霊の人」「魂の人」「肉の人」の三つに分けたが、その中の「魂の人」となると大部分は再び地上生活に戻りたいとは思わない。
が彼らを統一しているスピリットは幾度でも地上生活を求める。そしてそのスピリットが類魂同士の強いきずなとなって、進化向上の過程において互いに反応し合い刺激し合うのである。
従って私が霊的祖先というとき、それは肉体的祖先のことではなく、そうした一個のスピリットによって私と結びつけられた類魂の先輩たちのことを言うのである。
一個のスピリットの内に含まれる魂の数は二十の場合もあれば百の場合もあり、また千の場合もあり、その数は一定しない。ただ仏教でいうところの業(カルマ)は確かに前世から背負ってくるのであるが、それは往々にして私自身の前世の業ではなくて、
私よりずっと以前に地上生活を送った類魂の一つが残していった型(パターン)のことをさすことがある。同様に私も自分が送った地上生活によって類魂の他の一人に型を残すことになる。
かくして吾々はいずれも独立した存在でありながら、同時に又、いろいろな界で生活している他の霊的仲間たちからの影響を受け合うのである。
そしてこの死後の世界に来て霊的に向上していくにつれて、われわれは次第にこの類魂の存在を自覚するようになる。そしてついには個人的存在に別れを告げてその類魂の中に没入し、仲間たちの経験までもわがものとしてしまう。
ということは、結局人間の存在には二つの面があるということである。すなわち一つは形態の世界における存在であり、もう一つは類魂の一員としての主観的存在である。
地上の人たちは私のこの類魂説をすぐには受け入れようとしないかも知れない。たぶん彼らは死後において不変の独立性にあこがれるか、あるいは神の大生命の中に一種の精神的気絶を遂げたいと思うであろう。が私の類魂説の中には実はその二つの要素が見事に含まれているのである。
すなわちわれわれは立派な個性をもつ独立した存在であると同時に、また全体の中の不可欠の一部分でもあるのである。私のいう第四界(色彩界)、とくに第五界(光焔界)まで進んでくると、全体としての内面的な協調の生活がいかに素晴らしく、また美しいかがしみじみとわかってくる。
存在の意義がここに来て一段と深まり、そして強くなる。又ここに来てはじめて地上生活では免れない自己中心性、すなわち自己の物質的生命を維持するために絶え間なく他の物質的表現を破壊していかねばならないという、地上的必要悪から完全に解脱する。』
以上は浅野氏訳の「類魂」の章の主要部分を原書に照らしながら読み易く書き改めたものです。私が浅野氏の訳に出会ったのは高校三年の時、ある先輩の心霊家の家を訪れた際に勝手に書棚をあさっているうちに、昭和初期の『心霊と人生』という月刊誌(浅野氏が主筆)が出てきて、その中に連載されていたのを読んだのが最初でした。
残念ながらその家には全部は揃っておりませんでした。しかし題名の魅力もさることながら、その内容にただならぬものを感じた私は、大学へ進学してからも何とかしてこの全篇を読みたいという気持ちを持ち続けました。
そして浅野氏のあとを引きついで『心霊と人生』を発行し続けている脇長生氏の主催する都内数ヵ所の心霊の集いに毎週のように出席して、該書をもっている人を探し求めました。
そしてついに探し出して、後日それをお借りして徹夜でザラ紙のノートに写しました。いま私が参照しているのもそのノートです。
その後私はこの『永遠の大道』の原書をバーバネル氏の心霊出版社から取り寄せて、浅野氏の訳と照らし合わせながら読み耽ったものですが、右の「類魂」の章まで読み来った時、宇宙の壮大でしかもロマンチックな大機構に触れる思いがして、思わず感激し、しばし随喜の涙にくれたことはすでに述べました。
マイヤースは同書の別のところで、宇宙の創造主は多分大数学者ではなくて大芸術家だろうと述べています。
その意味は、宇宙の法則はシルバー・バーチも言っている通り寸分の狂いもなく数学的正確さをもって機能していますが、しかし同時にそこにうまみがあり、美しさがあり、ロマンがあるというのです。私にもそれがわかるような気がします。
さてマイヤースのもう一つの霊界通信に『個人的存在の彼方』があります。これも『永遠の大道』と同じく浅野氏が絶讃し翻訳しています。
これも私はノートにコピーしたものを所有していますが、原書を読んでみると、通信は三部から構成されていて、浅野氏の訳はその第二部を訳出したものにすぎないことがわかりました。
確かにこの第二部は圧巻であり、褒めることの滅多になかった浅野氏が絶讃したのも肯ける内容であることに間違いないのですが (余談ですが、浅野先生が 「読んでも損はない」 と言った時は非常にいい本だということであり、「ちょっといい」と言った時はもう絶讃したことになったということを間部先生から聞かされました)、
第一部および第三部にも珠玉のような内容のものが散見されます。その一つがこれから紹介する 「再生」 Reincarnation の項で、『永遠の大道』の「類魂」の章の足らざる部分を補うような形になっています。むしろ、これを読んで初めて類魂というものが全体的に理解できるのではないかと思われます。
『地上で動物的本能の赴くままに生きた人間が、こんどは知的ないし情緒的生活を体験するために再び地上に戻ってくることは、これはまぎれもない事実である。言いかえれば、私のいう 「肉の人」はまず間違いなく再生する。
私のいう「魂の人」の中にも再生という手段を選ぶ者がいないわけではない。が、いわゆる輪廻転生というのは機械的な再生の繰り返しではない。一つの霊が機械が回転するように生と死を繰り返したという例証を私は知らない。百回も二百回も地上に戻るなどということはまず考えられない。
その説は明らかに間違っている。もちろん原始的人間の中には向上心つまり動物的段階から抜け出ようとする欲求がなかなか芽生えない者がいるだろうし、そういう人間は例外的に何度も何度も再生を繰り返すかも知れない。が、
まず大部分の人間は二回から三回、ないしせいぜい四回くらいなものである。もっとも中には特殊な使命または因縁があって八回も九回も地上に戻ってくる場合もないではない。
従っていい加減な数字を言うわけにはいかないが、断言できることは、人間という形態で五十回も百回も、あるいはそれ以上も地上をうろつきまわるようなことは絶対にないということである。
たった二回や三回の地上生活では十分な経験は得られないのではないか、こうおっしゃる方がいるのかも知れない。がその不足を補うための配慮がちゃんと用意されているのである。
乞食、道化師、王様、詩人、母親、軍人、以上は無数にある生活形態の中から種類と性質のまったく異なるものを無雑作に拾い上げてみたのであるが、注目すべきことは、この六人とも五感を使っている
(不幸にしてそのうちの一つないし二つを失えば別だが)という点では全く同じであること、言いかえれば人間生活の基本である喜怒哀楽の体験においては全く同じ条件下にあり、ただ肉体器官の特徴とリズムがその表現を変えているにすぎない、ということである。
そうは言っても、彼らが地上生活を六回送っても、人間的体験全体からみればホンの一部分しか体験できないことは確かである。苦労したといっても多寡が知れている。
人間性の機微に触れたといっても、あるいは豁然大悟したといっても、その程度は知れたものである。人間の意識の全範囲、人間的感覚のすべてに通暁するなどということはまず出来ない相談だといっていい。
それなのに私は、地上生活の体験を十分に身につけるまでは(特殊な例外を除いては)、死後において高級界に住むことは望めない、とあえて言うのである。
その矛盾をとくのが私のいう類魂の原理である。われわれはそうした無数の地上的体験と知識を身につけるために、わざわざ地上に戻ってくる必要はない。他の類魂が集積した体験と知識をわがものとすることが可能なのである。
誰れにでも大勢の仲間がおり、それらが旅した過去があり、いま旅している現在があり、そしてこれから旅する未来がある。類魂の人生はまさしく「旅」である。
私自身はかつて一度も黄色人種としての地上体験をもたないが、私の属する類魂の中には東洋で生活した者が何人かおり、私はその生活の中の行為と喜怒哀楽を実際と同じように体験することが出来るのである。
その中には仏教の僧侶だった者もいれば、アメリカ人の商人だった者もおり、イタリア人の画家だった者もいる。その仲間たちの体験を私がうまく吸収すれば、わざわざ地上におりて生活する必要はないのである。
こうした類魂という〝より大きな自分〟の中に入ってみると、意志と精神と感性とがいかにその偉力を増すものであるかが分かる。自意識と根本的性格は少しも失われていない。それでいて性格と霊力が飛躍的に大きくなっている。
幾世紀にもわたる先人の叡智を、肉体という牢獄の中における〝疾風怒涛〟の地上生活によってではなく、肌の色こそ違え、同じ地上で生活した霊的仲間たちの体験の中から、愛という吸引力によってわがものとすることが出来るのである。
仮りに不幸にして不具の肉体を持って地上に生まれたとすれば、それは前世において何らかの重大な過ちを犯し、それを償うには、そうした身体に宿るのが一ばん効果的であるという判断があったと解釈すべきである。
たとえば白痴に生まれついた者は、それなりの知能で地上生活を実感し、それなりの地上的教訓を吸収することを余儀なくさせられる。地上で暴君とか残忍な宗教裁判官だった者は、白痴とか精神薄弱児として再生することがよくある。
つまり他界後彼らは自分の犠牲者たちの苦しみをみて深く反省し、良心の苛責を感じるようになる。時にはその苛責があまりに大きくて、精神的中枢が分裂することがある。そしてその状態のまま地上の肉体に生まれ変わる。
言いかえれば地上時代の罪悪の記憶に追い回され、悪夢にうなされ、さらには犠牲者たちが自分に復しゅうしようとしているという妄想によって、それが一段と強烈になっていき、ついには精神的分裂症になったまま再生するのである。
再生には定まった型というものはない。一人一人みな異なる。死後の生活においては、だれしも地上生活を振り返り、その意義を深く吟味する時期がかならず来る。
原始的人間であれば、それが知性でなく本能によって、つまり一種の情感的思考によって行われ、魂の深奥が鼓舞される。その時、類魂を統一しているスピリットが再び地上に戻る考えを吹き込む。
といって、決して強制はしない。あくまで本人に選択の自由が残されている。が、スピリットは進化にとって最も効果的な道を示唆し、個々の類魂も大ていの場合その指示に従うことになる。
初めて地上に生まれてくる霊の場合は特別な守護が必要なので、類魂との霊的なつながりが特に密接となり、その結果その直接の守護に当たる霊のカルマが強く作用することになる。
守護霊は多分三回ないし四回の地上生活を体験しているであろうが、まだ完全に浄化しきってはいない。言いかえると、霊的進化にとって必要な物的体験をすべて吸収しきってはいない。
そこでその不足を補うのに次の二つの方法が考えられる。一つは、さきほど紹介した類魂の記憶の中に入っていく方法と、もう一つは地上に生まれた若い類魂の守護霊となり、自分の残したカルマの中でもう一度その類魂と共に間接に地上生活を送る方法である。
後者の場合、地上の類魂はいわば創造的再生の産物である。言ってみれば自分の前世の生き証人であり、これによって霊的に一段と成長する。
霊魂とは創造的理解力の中枢である。が、中にはその力が乏しくてどうしても創造主の心の中に入り込むことが出来ない者がいる。そんな時、類魂を統一するスピリットは、永遠不滅の超越界に入る資格なしとみて、いま一度始めからのやり直しを命じる。
私が前著を The Road to Immortality (永遠への道程)と呼び The Road of Immortality (永遠なる道程)としなかったのはそのためである。
中途で落伍する者がいるということである。が、それまでの旅路で得たものは何一つ無駄にならないし、何一つ失われることはない。すべての記憶、すべての体験は類魂の中にあずけられ、仲間の活用に供せられるのである。
私は確信をもって言うが、私のいう〝霊の人〟のうちのある者は、たった一回きりしか物質界を体験しない。また私の考えでは、イエス・キリストはエリアの再生ではない。他の何者の再生でもない。イエスは神の直接の表現、すなわちことばが肉となったのである。
イエスはたった一度だけ地上に降りて、そして一気に父なる神のもとに帰っていった。イエスにとって途中の段階的進化の旅は無用であった。そこにイエス・キリストの神性の秘密が存在する。』
エリアというのは旧約聖書に出てくる紀元前九世紀ごろのヘブライの預言者のことです。キリスト教界ではイエスはエリアの再来であると説く人がいるためにこんなことをマイヤースも言うわけです。
余談になりますが、シルバー・バーチがキリスト教について語っている中に「今もしイエスが地上に再来し同じ教説を説いたら、真っ先に石を投げつけるのは現在のキリスト教徒たちでしょう」
というくだりがあります。言うまでもなく、現在のキリスト教が二千年前にイエスが説いた教えとはすっかり違ったものになっていることを言っているわけですが、同じことが仏教をはじめとして他の既成宗教のすべてに言えるのではないでしょうか。だからこそ改めて霊的真理を説くためにやってきたのだとシルバー・バーチは言うのです。
余談はさておき、以上のマイヤースの説明で、類魂というものが概略だけでもおわかりいただけたと思います。そして又、再生というものがその類魂の進化という大目的のために行われるものであることも理解いただけたと思います。
再生の哲理をこの類魂の原理で説いたのは、私の知るかぎりではマイヤースが初めてですが、哲理の内容そのものは、シルバー・バーチが説くところやアラン・カルデックの 『霊の書』 に見られる複数の霊からの自動書記通信と完全に符節を合してしております。
特にシルバー・バーチの場合は、「それはマイヤースのいう類魂と同じものですか」という問いに対して「まったく同じです」と断言しており、非常に興味を覚えます。
これからそのシルバー・バーチの説くところを紹介していくわけですが、この再生問題に関するかぎりシルバー・バーチは一方的にしゃべるということをせず、質疑応答の形に終始しております。
これはカルデックの『霊の書』でも同じで、察するところ、霊的なことには地上的用語で説明できないことがあり、中でも再生の原理はその最たるものであり、人間側からの質問の範囲に留めるということになったのでしょう。その証拠に、シルバー・バーチはこんなことを言っているのです。
『宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、われわれ霊界の者から見れば、それは実在のかすかなるカゲを見たにすぎません。
鈍重なる物質によってその表現が制限されているあなたがたに、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのか、といった問いにどうして答えられましょう。
私の苦労を察して下さい。譬えるものがちゃんとあれば、どんなにか楽でしょうが、地上にはそれがない。あなた方にはせいぜい光と闇、日なたと日かげの比較ぐらいしか出来ません。
虹の色は確かに美しい。ですが、地上の言語で説明の出来ないほどの美しい色を虹に譬えてみても、美しいものだという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです。』
そういう次第でシルバー・バーチには再生に関する長文の叙述はなく、細かい質疑応答から成っております。それはそれなりに非常にわかりやすく、いわゆる痒いところに手の届く利点があります。
が私の察するところでは、いい意味で人間には秘密にされている部分もあるようです。つまり宇宙の内奥に関するものには人間には絶対に理解できないものがあるらしいのです。それは右の引用文からも察せられますが、再生の大体の概念、基本的原理に関する限りでは、シルバー・バーチとカルデックとマイヤースは完全に同じことを説いております。
私はこれが再生に関する真相───少なくとも人間に理解できる範囲での真相であるとみて差支えないと信じます。マイヤースの類魂説を冒頭にもってきたのも、それがシルバー・バーチの説くところと完全に符節を合し、再生の基本概念を伝える論説として適切であるとみたからです。
これを細かく敷衍(フエン)する目的で、これからシルバー・バーチと列席者との一問一答を紹介してまいりましょう。