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Kazu Bike Journey

Tokaido 東海道 27 (25/11/19) Okazaki Shuku 岡崎宿

2019.11.25 14:34

(38) Okazaki Shuku 岡崎宿

昨日は岡崎宿の手前で日没となり岡崎宿は見る事が出来なかった。昨日、暗くて見れなかった時点まで戻り、再出発。今日は一日かけてゆっくりと岡崎の街並みを見るつもりだ。

(38) Okazaki Shuku 岡崎宿

岡崎宿は東海道38番の宿場で藤川宿から 1里25町 (6.7km) の距離。本陣3、脇本陣3、家数 1,565、旅籠112、宿場 人口6,494人。岡崎城の城下町として発展し、宿場町の規模は駿河国府中宿に次いで大きかった。

上の安藤広重の浮世絵は矢作橋。今日通るので、コメントはその時に。

常夜燈

岡崎宿が近くなって来て、例の如く、常夜燈が設置されていた。

岡崎二十七曲

徳川家康が江戸に移封された後にはここに秀吉の家臣の田中吉政が入封し、それまで直線だった東海道を岡崎城に引き入れる際に防備上、多くの曲がり角を設けて外敵が侵入した際に岡崎城には簡単に近づけ無い仕組みになっている。直線距離で3kmを道を曲げて曲げて6kmにまでしてしまった。今まで東海道を見てきたが、大体は宿の入り口に枡形などを設ける比較的簡単な防備対策しか無かったが、ここはかなり凝っている。当時の事情から家康が江戸から西に攻めて来ないとも限らない。これを10年もかけて造った田中吉政が慎重なのかこの様になっている。(秀吉の指示だったかも知れない)インターネットにこの岡崎二十七曲が岡崎城とどういう位置関係だったかの地図があった。良くこれを作ったものだ。感謝。

冠木門の所に岡崎二十七曲の記念碑が建っており、ここの角から二十七曲が始まる。

本当に27の角を曲がるのか半信半疑でスタート。いろはで順番に表示版があり次の曲がり角までの距離が書いてある。そこまでは直線なので、これに沿っていけば簡単だ。と思っていたら、いろはの「ろ」が見つからない。いろはの次が2個先の角になっていたり、何故か不規則な表示だ。結局今日は27の角全ては見つからなかった。後でインターネットで調べると全部見つけた人が地図を作っていた。27あるのだ。明日再度、挑戦してみる。

円頓寺

街道から見えたお寺。ちょっと変わっている。正保2年 (1645年) 岡崎藩主 水野忠善が母のために創建。その後、岡崎藩主 本多政朝が正室の浄光院のために建立した成就寺を合併した。

随念寺

東海道から三重塔が見えてきた。興味をそそられ、行ってみる。徳川家康が祖父の松平清康とその妹の久姫を弔うために建てた寺院だそうだ。二代将軍の秀忠が本堂、山門を寄進している。お寺は立派だ。徳川の葵の紋が使われている。

尾張を攻略しようと守山に陣を構えていた松平清康は1535年 (天文4年) 家臣阿部正豊に斬られ即死した。(森山崩れ) 家康は祖父の清康の墓塔をここに建てた。家康の生母於大と生別以来養育してきた清康の妹・久姫が1561年 (永禄4年) に岡崎城中で没し、その墓を清康の墓の隣に建てた。

この寺の紅葉は一段と鮮やかだった。

専福寺

ここは板屋町にあった遊郭の投げ込み寺だった。境内の墓地の奥に大量の無縁墓があるのだが、そこに遊女の墓が混じっているそうだ。寺ではあるのだが、高い鼓楼がある。これは敵が押し寄せてき時の防備の為であった。

本陣/脇本陣/問屋跡

都市開発でこの一帯は街道の名残は全く残っていないのだが、

この通りには東海道の宿場町を説明したモニュメントが道の両側に並んでいる。

この通りには江戸時代から続く老舗がいくつかある。モニュメントでも紹介していたあわ雪の菓子を売っている店もある。

旧商工会議所

大正6年、岡崎銀行本店として建てられた赤レンガと花崗岩の組みあわせによるルネッサンス風の建物。戦後、商工会議所として使われていたが、現在は、岡崎信用金庫資料館になっている。現在改装中で休館中。

八丁蔵通

岡崎と言えば八丁味噌。好物の一つだ。昨夜は味噌かつ定食を食した。濃厚なそして甘い味噌とカツは絶妙。とんかつソースで食べるよりも美味しい。その味噌造りの老舗がここに集まっている。ここは矢作豆という良質の豆の産地で戦国時代にはこの八丁味噌は保存が効き、携帯に便利な事から三河武士の必需食だった。

ここは朝ドラの純情きらりの舞台でもあった。岡崎の史跡案内板は「岡崎観光きらり百選」のタイトルになっている。朝ドラが町の観光に一役かっているようだ。キャストの手形が通りに飾られている。

矢作川/矢作橋

当時東海道では最も長い橋が架かっていた。長さは374mもあり、現在の矢作橋の270mより100mも長かった。当時の技術力は凄いものがある。

出合乃像 (蜂須賀小六と日吉丸の像)

矢作橋を渡り切った所に蜂須賀小六と日吉丸がこの矢作橋で出会ったことを示す像があった。これはのちの創作のようだ。戦国時代にはまだここには橋がかかっていなかった。ただ、蜂須賀小六はまだ秀吉が木下藤吉郎の早い時期から共に働いていた。秀吉の出世を支えた一人であることは間違いない。

勝蓮寺

矢作川のほとりにこの勝蓮寺がある。徳川家康の長男の信康と関係が深い寺との事で信康の肖像画など遺品が残されている。

誓願寺 (浄瑠璃姫墓)

源義経が若き時に奥州の藤原秀衡のもとに赴く際にここ岡崎矢作の里の長者宅に暫く滞在した際に長者の娘の浄瑠璃姫と知り合った。義経が立ち去った後、浄瑠璃姫は義経の事が忘れられず後を追うが叶わず、川に身を投げた。この寺に浄瑠璃姫の墓がある。後に小野のお通がこの話を音曲にして織田信長の前で披露。これが浄瑠璃の始まりと言われている。誓願寺は保育園をしているようで、境内全面が遊具で埋め尽くされている。保育園の中に寺があるようだ。境内という広い土地があるから保育園をしているのだろうが、寺とは何なのかを考えて欲しい。この地域にはこんな寺がいっぱいある。

大友皇子丸藪之館跡

壬申の乱で大海人皇子 (天智天皇の弟・後の天武天皇) に敗れた大友皇子が逃避行の末にたどり着いたのがこの地で、館を建てて住んでいたと伝わっている。一般では戦いの後、近江で自刃したと言われているのだが、ここでは生存していたことになっている。館跡には神社がある。

大友皇子御陵遺跡

館跡のすぐ近くに皇子の陵の跡があるのだが、今は住宅街で整地され面影は無くなっている。石碑のみがそれを伝えている。

岡崎城

時間がまだあるので、岡崎城にも足を運んだ。思っていた以上に見たいところが多く、半分も見れなかった。明日もう一度来て、じっくりと見てまわる。今日みた城址跡のレポートは明日に含める。