Tokaido 東海道 28 (26/11/19) Okazaki Castle Ruins 岡崎城跡
(38) Okazaki Shuku 岡崎宿 (続き)
- 二十七曲り
- 浄瑠璃姫の墓
Okazaki Castle Ruins 岡崎城跡
- 菅生曲輪 (すごうくるわ)
- 菅生門
- 葵松庵・城南亭
- 乙川 (菅生川) 、船着き場跡
- 東隅櫓
- 風呂谷曲輪
- 龍城堀
- 神橋 (しんきょう)
- 風呂谷門
- 隠居曲輪と辰巳櫓石垣
- 坂谷曲輪、坂谷門
- 東照公産湯の井戸
- 東照公胞衣塚
- 七間門/大手門
- 二の丸
- 三河武士のやかた家康館
- 二の丸能楽堂
- 二の丸井戸跡
- 持仏堂曲輪
- 青海堀
- 廊下橋
- 本丸御門
- 本丸埋門
- 坂谷門
- 辰己櫓、巽閣
- 龍城神社、月見櫓跡
- 家康公遺言碑
- 龍の井
- 天守閣
昨日は岡崎二十七曲りも走ったのだが、27のクランクは全て見つからなかったのと、岡崎城見学は途中で終わってしまった。今日この二つをもう一度訪問する事にした。
(38) Okazaki Shuku 岡崎宿 (続き) 十七曲り
昨日良く分からず、途中で混乱してしまった二十七曲りをもう一度挑戦してみる。インターネットで27の曲がり角をマークした地図をアップしているサイトがあったのでその地図に従っていくことにする。なんとか27の曲がり角全てを通ったのだが、サイトの情報と岡崎市が設置している標識には微妙なずれがあった。
岡崎市の表示には一貫性が無かった。いろはで順に表示しているように思えたが、27個は無い。いろは表示していない所に曲り角の石標がある。このいろは表示と石標のみの所を足しても27には届かない。岡崎市の観光案内では27個残っているとは書かれているが、27個全て表示している案内板はなかった。道路の構造も変わっているから、表示できないものもあるのかも知れないが、観光ルートの一つにしていながら、中途半端で終わっている。一方、サイトの個人的に作った地図はきっかり27個あるのだが、いろは表示のもので一つ抜けているのがあり、直線道路の途中にマークがしてあった。少し疑わしい物が二つある。この人も27個を無理やり見つけたのだろう。
個人のインターネットに出ていた二十七曲がり。27の番号がつけられているが、一部は正確ではないようだ。
二十七曲がりと岡崎城との位置関係。
今日27個を通過したが、25個までは確度が高いが残りの2つは自信が無い。
東京から京都方向に
この複雑な二十七曲りを造った田中吉政の像が二十七曲りの途中にあった。更地の上に設計した道を引く訳では無く、既に民家も道もある所に道を潰し敵が通れない様にし、民家も移して行ったはず。10年はやはりかかるだろう。対徳川の防衛の為に造ったが、その徳川が天下を秀吉から継承し太平の世となり、この二十七曲りはその効力を発揮せずに終わった。吉政は秀吉没後は家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に属した。関ヶ原の戦いの直後に石田三成を捕縛する功績を挙げている。江戸時代になると筑後の柳川城32万石の城主となる。岡崎城が10万石だったので、大出世だ。柳川には九州の旅で訪れた。柳川の水路は見事だった。その時は柳川では高橋紹運の子で立花道雪の養子になった立花宗茂に意識が集中していたので、この水路が田中吉政の功績とは認識していなかった。岡崎で既に近代的な街作りの経験があった上で、この柳川の水路ができあがったのかと改めて田中吉政の街作りの才能は凄いと思った。
この二十七曲りは片道6km、迷いもし、確認もしながら、往復となり、午前中いっぱいかかって完了。昼食をとり、午後からは岡崎城に行く。
浄瑠璃姫の墓
岡崎城の大手門の手前に浄瑠璃姫の墓があった。少し混乱。昨日、誓願寺に行った際に浄瑠璃姫の墓があった。調べてみると、岡崎には瑠璃姫の墓は三つある。その他、瑠璃姫にまつわる所が数あり、瑠璃姫ツアーなるものもあるらしい。英雄の義経との恋物語は庶民にはうけただろう。特に悲劇で終わると尚更だ。この墓がある場所は岡崎城ができる前は瑠璃姫の草庵があった場所で、そこには浄瑠璃寺があった。岡崎城の三の丸の敷地になった時には浄瑠璃寺は北に移動し、そこは瑠璃姫曲輪と呼ばれた。
Okazaki Castle Ruins 岡崎城跡
昨日も岡崎城に来たのだが、時間が足りず、今日も岡崎城を巡ることにした。
岡崎は徳川家康の生誕地として知られており、この岡崎城も家康の居城だった。三河は松平氏の地盤の地ではあった。応仁の乱では松平信光が東軍に属して三河守護・細川成之と共に西軍方である畠山氏一門の畠山加賀守が拠る安祥城を奇襲しこれを奪い、岡崎城主 (1452年築城) の三河国守護代 西郷頼嗣を破り講和、五男 松平光重を西郷氏の娘婿とし、光重が岡崎城主となり大草松平家 (後に岡崎松平家と呼ばれる) が成立。その後、1526年に、松平宗家 (安祥松平家) の第七代 清康が岡崎松平家の山中城を攻撃し、西郷信貞 (松平昌安) を破り、信貞の居城の岡崎城は破棄し、現在地の龍頭山に新岡崎城を築城し、岡崎に松平氏の拠点を移した。岡崎の発展はこの清康からで、城下町を作り、岡崎五人衆・代官・小代官体制を整備した。清康は尾張に侵攻し、織田信秀の弟の信光の守る守山城を攻めた際に、家臣の阿部正豊に誅殺された。(1535年 森山崩れ 清康 享年25才) 近年では織田信秀と松平信定 (信定の妻は信秀の姉妹) が連携していたとされ、信定による陰謀でのこととされている。信定は岡崎城を占領、清康の遺児広忠は逃走し、今川家の支援を得て、信定を降伏させ岡崎城に復帰。今川氏に恭順し、後の家康となる竹千代を今川家への人質として送ることとなる。
徳川家康はこの岡崎城で生まれたが、6才の時 (1547年) に今川氏への人質として駿府へ送られることとなったが、駿府への護送の途中に田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られた。2年後に広忠が死去。岡崎城は今川家の支城となる。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって竹千代を取り戻すが、竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代により支配を受けた。今川氏の駿府での人質生活は永禄3年 (1560年) 5月、桶狭間の戦いで今川義元が戦死するまで続くこととなる。この時に、13年の歳月を経て、岡崎城に戻る。元亀元年 (1570年)、家康は本拠を遠江浜松に移し、嫡男信康を岡崎城主とする。天正7年 (1579年) に信康が自刃した後は、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代となる。天正18年 (1590年) に家康が関東に移封されると、秀吉の家臣田中吉政が城主となる。家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名が岡崎城に入っていた。
岡崎城跡は岡崎公園になっている。
菅生曲輪 (すごうくるわ)
三の丸の南側に広大な曲輪跡がある。現在は多目的広場として使用されている。菅生曲輪の向こうには東曲輪の東隅櫓が見える。現在は残っていないのだが、この菅生曲輪と東曲輪の間には内堀があり、升形となった門で繋がっていた。
菅生門
菅生曲輪から外堀にあたる乙川 (菅生川) へは門があった。現在はその面影はなくなっている。門があった付近には菅生神社が立っており、そのすぐ前は乙川が流れている。
葵松庵 城南亭
菅生曲輪は城の南側に西に長く伸びており、外堀の役割を果たした乙川 (菅生川) に囲まれている。内堀の龍城堀と乙川の間の菅生曲輪の跡地には茶室 葵松庵・城南亭がある。日本庭園があり、雰囲気の良い施設となっている。11月も終わりなのだが、まだ紅葉が紅色を保っており、この紅葉を見ながらの散策は気持ちが良い。
乙川 (菅生川) 、船着き場跡
岡崎はかなり内陸部のあるのだが、乙川のほとりに、江戸時代にあった船着き場の跡碑がある。矢作川を上り乙川に入り、ここまで船が来ていたのだ。
東隅櫓
菅生曲輪から石段を登り、切通しを進むと、かつての東曲輪に通じる。東曲輪は岡崎公園駐車場となっており、その南東角に望楼式二重櫓の東隅櫓がある。この東隅櫓は2010年3月に再建されたもの。 城の中核となる二の丸に繋がる切り通しを守る最後の砦で明治初頭まで存在していたが、東隅櫓の図面は現存しておらず、同時代に築かれた松山城の野原櫓などの形式を参考にして建設されている。
風呂谷曲輪
菅生曲輪から内堀にあたる龍城堀 (たつきぼり) の内側には別の曲輪がある。風呂谷曲輪だ。風呂谷曲輪は本丸の南側を囲むように長く伸びている。本丸の守りを固めていた。風呂谷曲輪は龍城堀 (たつきぼり) に囲まれている。
風呂谷曲輪の遊歩道
龍城堀
神橋 (しんきょう)
龍城堀にかかる橋で、本丸内にある龍城神社への参道の橋。昔から残っている城の縄張り図にはこの橋はない。龍城神社が三の丸から本丸に移設された後に造られた橋ではないだろうか? (調べてもわからなかった)
風呂谷門
風呂谷曲輪から本丸への虎口で、階段の上には風呂谷門があった。
隠居曲輪、辰巳櫓石垣
龍城堀に突き出るような隠居曲輪 (写真左上) がある。ここは出丸の様な縄張りに思える。菅生曲輪に敵が侵入して来た際は、この出丸から広角で射撃ができる様な地形になっている。ここからは本丸東に建てられた辰己櫓 (模擬櫓) が見える。現在は隠居曲輪跡には料亭が建っている。
坂谷曲輪、坂谷門
風呂谷曲輪を時計回りに堀に沿って進むと次の曲輪跡に出る。坂谷曲輪と呼ばれている
坂谷曲輪から白山曲輪に出る門の跡が残っている。坂谷門と呼ばれた門は、かつてはそこには馬出しがあった。今では、その馬出しは残ってはおらず、かつての坂谷門の両側の石垣 (写真左下) が残るのみだ。白山曲輪は現在では面影は残っておらず、住宅街となっている。
東照公産湯の井戸
坂谷曲輪には、井戸跡がある。天文11年12月26日 (1542年) に岡崎城内で竹千代 (家康) が誕生した時、産湯に使ったとされる井戸と伝わっている。
東照公胞衣塚
家康の胞衣 (えな、へその緒・胎盤) を埋めたと伝えられる塚。 昔は、へその緒を埋めて子供の成長を願ったといわれている。
坂谷曲輪は西からの敵が、白山曲輪を突破した際には本丸と二の丸を守る役割。東側に二の丸を見ながら、坂谷曲輪を更に北に進む。江戸時代には坂谷曲輪はその北にある北曲輪に通じていた。北曲輪は二の丸を北側の敵から守っていたのだが、現在は北曲輪は消滅して、オフィス街と住宅街に変わっている。更に、北曲輪の西側にはもう一つ北曲輪があったが、これも現在はなくなっている。この城は何重にも曲輪で囲まれた大きな城であったことがうかがえる。現在は二の丸の北側の堀跡と塀が残っている。そこを通って、二の丸に行く。向こう側に大きな城門が見えて来た。これで内堀を一周したことになる。
七間門/大手門
二の丸への入り口に到着。元々この場所は二の丸への七間門があった場所。観光のためなのだろうが、ここには七間門ではなく、大手門が993年に模擬復元されている。大手門はここから100m離れた現在の浄瑠璃寺の南にあった。七間門として復元すればいいのに、大手門という格にこだわったのだろうか?
二の丸
復元された大手門を入ると、そこは二の丸。ここには御殿があった。
現在は綺麗に整備された公園になっており、中心にはからくり時計が作られている。時間がくれば家康の人形が能を舞う。
三河武士のやかた家康館
この二の丸には岡崎城の歴史や徳川家康に関わる数々の展示をしている「三河武士のやかた家康館」がある。展示内容は三河岡崎の松平家、徳川家の歴史がかなり詳しく展示解説されていた。歴史好きには嬉しい内容だ。展示デザインも凝っていた。
大好きな甲冑や刀剣の展示もあった。
二の丸能楽堂
二の丸屋敷があった場所には、屋外能楽堂も建てられている。徳川家康は能を愛したと言われている。
二の丸公園内には徳川家康の像が三つある。その一つは、三方ヶ原の戦いでの敗戦直後に家康が描かせたと言われ有名なしかめ像の石像だ。一説では、この絵は後世に描かれたともあるが、決着はついていない。
もう一つの家康像。家康が松平元康と名乗っていた時代。今川義元が桶狭間で討死した後、岡崎城に帰還した時の姿を表している。更にもう一つ銅像がある。これは家康ではなく、家康の家臣で猛将と言われる本多平八郎忠勝。
二の丸井戸跡
江戸時代の岡崎城二の丸御殿の石組井戸が発見され、整備されている。二の丸御殿の絵図にも、建物の北東側に二基の井戸が表示されており、そのどちらかと考えられている。
持仏堂曲輪
いよいよ二の丸から本丸に向かうのだが、直接本丸に行けるのではなく、その間に持仏堂曲輪がある。徳川家康の阿弥陀仏を祀った堂があったことからこの名がつけられている。この曲輪を経由して本丸にたどり着ける。かなり複雑な構造をした城の造りになっている。
青海堀
持仏堂曲輪は帯曲輪になっている。ここからは天守閣がすぐのところに見えるのだが、本丸の周りには青海堀があり、この堀に沿ってぐるりと回らなければ本丸には行けない。敵がここに侵入した場合は、この持仏堂曲輪を移動する敵を本丸から射撃できる様になっている。創築者西郷頼嗣 (清海入道) の名から清海堀と呼ばれている。
廊下橋
先ほどは本丸へは青海堀を回らなければならないと書いたのだが、二の丸から持仏堂曲輪に入って、直進をすると、天守閣に直接行ける橋が架かっている。廊下橋という。直接、天守閣に接続する橋で現存しているのこの岡崎城だけだそうだ。現在はアーチ型の石橋なのだが、もともとは屋根付きの櫓がある木橋だった。いつこの木橋が造られたのかが、気になる。この橋があることによって、本丸の防備は低下して、青海堀の意味がなくなってしまう。江戸時代の太平の時期に作られたのだろうか?だた、これは城からの出撃や脱出を考えて造られたと解説にはあったが、少し納得できない部分がある。出撃や脱出であれば、天守閣ではなく、本丸の別の場所の方が自然と思う。
ここにも徳川家康の像がある。二つのベンチが並んでおり、それぞれに幼少時代の竹千代像と晩年の家康像。出世ベンチと言われているそうだ。
本丸御門
青海堀沿いを歩き、本丸への入り口に着く。ここからは本丸へ本丸御門 (写真下) と隠居曲輪へ降りる道がある。
本丸への入り口は、ここ以外にもう二つある。坂谷曲輪からの本丸埋門と風呂谷曲輪からの風呂谷門。
本丸埋門
坂谷門
辰己櫓、巽閣
本丸に入るとすぐに辰己櫓がある。隠居曲輪からこの辰巳櫓を見たのだが、この辰巳櫓も模擬櫓で実際にあったものとは異なる。櫓の横には巽閣と呼ばれている多目的設備があり、各種集会や教室・会議等を行っているそうだ。昔風に建ててはいるのだが、少し違和感が残る。
龍城神社、月見櫓跡
本丸に入ると、そこは龍城神社となっている。本なる敷地内の7割方は神社関係で、天守閣は隅に追いやられた様な感じだ。もっとも天守閣はその場所にあったのだが.... 岡崎城公園は史跡とは関係ない建物が多く立ちすぎている様に感じる。観光を意識しすぎたのだろうが、当時の雰囲気が失われてしまっていることは残念だ。本丸の南にあった月見櫓跡には鳥居が建てられている。これも少し興醒め。
立派な神社本殿。結婚式などをPRしている。龍城神社ということなので、狛犬の代わりに龍が守っている。
ようやく天守閣へ。入り口の前には家康公遺言碑と龍の井がある。
家康公遺言碑
家康が跡継ぎに遺した言葉の石碑がある。
「わが命旦夕 (たんせき) に迫るといへども、将軍斯 (か) くおはしませば、天下のこと心安し、 されども将軍の政道その理にかなわず、億兆の民艱難 (かんなん) することもあらんには、たれにても其の任に変らるべし、 天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四悔安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかも、うらみに思ふことなし 元和2 (1616 )年4月17日 家康公甍75歳 於駿府城 大樹寺57世 宏天 謹書」
とある。将軍の政道が理に適わず民が苦労しているようならば、政権は他に移るべきである。政権が他家に移っても民が幸せならば、本意であり恨みに思うことはないといった意味なのだが、これが本当に家康の遺言だっただろうか? 後に徳川家が豊臣から政権を奪ったことを正当化しているのかもしれないとも思った。
龍の井
岡崎城には龍が良く登場する。岡崎城は別名龍ヶ城とも呼ばれる。それは、家康生誕の朝、城楼上に雲を呼び風を招く金の龍が現れ、昇天したという伝説が残るっているそうだ。 龍の井は、龍神があわられ、この井戸の水が噴出し龍神に注いだと伝えられており、出世、開運、安産、厄除けにご利益があるそうだ。
天守閣
岡崎城は他の城と同様に、明治維新後、廃城令によりほとんどが破却され、石垣がの頃程度になっていた。現在の天守閣は、外観は残っている資料から、昭和34年 (1959) に、ほぼ同じ形で復元された3層5階建の復興天守。もともとは複合連結式望楼型3重3階だが、コンクート建設で内部は5階となって、展示室と展望室として使われている。
最上階から見る城跡
岡崎市もよく見える。
展示内容は家康館に比べると少し物足りない。ほとんどが家康館と重複している。ここも入場料がいるので、展望室だけではということで、資料室がある様な感じ。家康館がかなり詳細まで踏み込んでいるので、そこまではという人にはこのレベルでも良いのかもしれない。2階から4階までにそれぞれ、藩政と支配、城下町の文化と産業、城と城主のテーマごとに展示をしている。
ホログラムの展示もある
ライトアップがあると聞いたので、暗くなるまで城に残っていた。天守閣だけでなく坂上曲輪の遊歩道にもライトアップの趣向がされていた。スマートフォンでは上手く撮れなかった。なんとかしたの写真の二枚が雰囲気が感じられるもの。写真より、生で見た方が遥かに綺麗だった。
これで岡崎宿の見学は、まるまる二日使い終了。明日から東海道に戻る。