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株式会社 陽雄

温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第3回】 『大鏡』一芝居の裏側に・・

2018.10.26 08:00

「ダイコンミズマシ」、「オオイマミズガマシタ」、この暗号電報の如きものを覚えている方もいるだろう。「大鏡」「今鏡」「水鏡」「増鏡」いわゆる鏡物とよばれる歴史文学の成立順のゴロ合わせだ。今日これらが読まれているかといえば、正直なところ「源氏物語」などに比較するとランク圏外になってしまうかもしれない。「源氏物語」が平安時代の女流文学の最高峰とすれば、「大鏡」などは同時代の男性文学最高峰と位置付ける人もいる。前者が王朝の後宮における女たちの愛の渇望と諍い描くところに特徴があるとすれば、後者は、王朝で生きる男たちが権力の高みを目指しての葛藤と争いを描いている。

190歳の大宅世継(おおやけのよつぎ)、180歳の夏山繁樹(なつやまのしげき)が人々の前で藤原氏の栄華の昔話をするという少し滑稽な態で歴史が語られていくが、読み進めていくと作者が意図したわけでもない側面を感じることがある。なお、「大鏡」は誰が書いたものなのかよくわかっていないのだ。筆者が面白いと思ったエピソードの一つを抜粋したい。


「・・・醍醐天皇が社会の風紀をお取り締まりになったが、当時の法外なぜいたくを、うまく押さえかねていらっしゃいましたところ、そのころ、この時平公が、禁制を破った法外に立派なご装束を身につけて参内され、殿上の間に控えておられましたのを、天皇がのぞき窓からご覧になって、たいそうご機嫌が険悪におなりなって、当番の蔵人をお呼びになって

『世間一般の過度のぜいたくに対する禁制の厳しい際に、左大臣が、いくら臣下最高の位にあるとはいえ、法外な美しい服装で参内したことは、不都合である。早速退出いたすよう申し伝えよ』とおっしゃいましたので、その勅命を承った職事も、いかに勅命でも、左大臣にこんなことを伝えたら、どんなことになるだろうかと、恐ろしく思われましたけれども、しかたなく、左大臣のところに参って、わなわなふるえながら、「天皇からこうこういうお言葉でございます」と、申し上げたところ、時平公はひどくびっくりなされ、恐れかしこんで勅命をお受けして、御随身(舎人)が先払いを申すのもおさしとめになって、急いで退出されましたので、御前駆(先導)の者どもも不審に思っていました。こうして時平公は、お邸の本院の御門を一カ月ほど閉じさせて母屋で謹慎し、御簾の外へもお出ましにならず、人など訪問しましても、『帝の御とがめが重いことだから』とおっしゃって、ご面会もなさらぬありさまでした。かようでありましたからこそ、世間のぜいたくの風もおさまったのでした・・・」(第2巻時平―12より)


実のところこれは、醍醐天皇と時平公が一芝居打ったものであると最後には種明かしされて、時平公を礼賛するかたちになっている。読み流せばそれまでだが、天皇と左大臣の間にたってわなわな震えていた蔵人の存在が示唆することは深い。天皇の権威権力が左大臣のそれを大きく引き離していれば、このようなこと起きないが拮抗していたのであろう。

人はカタチにあらわれ肉眼でわかる権威権力に屈しやすい。一方で、カタチにあらわれにくく、心眼で感ずるくらいしかない御所の御簾(みす)の向こう側にあるはずの誠意への尊重が衰えていた時代だったのだろう。まあ、このような解釈は、大鏡の作者が企図したことではないかもしれないが・・・


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。