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向井潤吉アトリエ~世田谷美術館『田沼武能展』へ

2019.11.26 13:36

 2019年、春ー。

 お花見がてら、世田谷美術館分館の向井潤吉アトリエと、世田谷美術館で開催されている『田沼武能展』へ行ってきました!

 向井潤吉は、1901年、京都市下京区に誕生、父母共に宮大工の家系であった事から、物心つく頃には、ものづくりや芸術事への関心が自然と育まれていたのであろう。1914年、京都市立美術工芸学校に入学、更に、1917年、フランス留学から帰国した浅井忠が設立、発展させ、後の日本洋画壇を牽引することになる著名な画家たちを多く輩出した、関西美術院の門下生となる。1927年から1930年には、パリへ渡仏し、フォービズムやキュビズム、シュールリアリズムやエコール・ド・パリ、等々、20年代のパリという、百花繚乱たる芸術の都の息吹を学ぶ。帰国後、1933年に建てた住居兼アトリエが、この、世田谷区弦巻の家であり、1993年に、向井潤吉アトリエ館が、世田谷美術館の分館として開館した。


 向井潤吉といえば、戦争記録画家として従軍した後に、生涯のモチーフとして従事することとなる田園風景や古民家のある風景画が、まず思い出される。この日も、埼玉や京都の古民家の絵画が、多数、展示されていた。

 入り口付近。

 日が燦燦と入り、伸びをして良い空気を吸いたくなるような木漏れ日の間ながら、同時に、ふっと瞑想に入り込めそうなストイックさも併せ持つ。


 木造2階建てになっており、床には、油絵具が飛び散った後などがそのまま残されていて、氏の力強いエネルギーと、筆づかいの痕跡が思い偲ばれる。


 個人的には、田園風景や古民家を数多く描くからか、田舎に身を置く穏やかな画家というイメージがあったが、戦争の傷跡が癒えぬうちに、戦後の高度成長期に入り、過度なスピードで変化してゆく都会とは相反するかのように求めた結果の画業だったと知り、又、初めて本物を目にすると、なんと油絵具の筆づかいやタッチの荒々しく、強く、激しさを秘めた事か、改めて考えさせられた。きっと、古民家のある風景といっても、のどかで温和なだけではなかったのかもしれない。行く先々で、地元の人々に、まずは土地売買に関わる測量士や販売士と疑われ、いぶかし気な視線で扱われた事も多々あり、その度に、絵のモチーフにしたいと説得した上で腰を据えて筆を運び、地元に分け入っていったというエピソードなど、氏の真実の姿が垣間見られるような解説等も、わかりやすく陳列やパネル展示などされており、非常にイメージが変わった。平穏だけではない、荒々しいギスギスとした田園暮らしや自然の移り変わりまでも描きぬこうともがいた跡を感じられた気がした。


 さて、向井潤吉アトリエを後にして、次は桜が満開に咲く世田谷公園の一角にある世田谷美術館へ。

 子供写真家の第一人者である田沼武能展が行われていました!


 偶然だが、私が大学時代に博物館学芸員資格を取得した際に、課題として『生活の美』というテーマのもと模擬企画展案をまとめたのだが、私がフォーカスを当てたのが、この田沼武能氏。当時、氏の『地球星の子供達』という写真集を一目で気に入り、その写真集を元にした展覧会の案を企画させて頂いた。(宜しければ、ブログ別項目を参照して頂ければ幸いです。当時の企画案をそのまま掲載させて頂いております・・・)

 そのような訳で、ちょっと特別な思い入れを込めて拝見させて頂いた今回の写真展。戦後の、主に東京は下町に生きる子供達を撮影した作品群が並ぶものだった。

 そこには、お正月で賑わう神社の賽銭箱の中をものほしそうにのぞき込む子供たちの様子や、逃げないようにか電柱に体を縛り付けられたまま、泣きながら靴磨きをさせられる少年の姿などがあり、これもまた(向井潤吉同様)、先述の写真集『地球星の子供達』のように夢やユーモア溢れる愉快な子供達ばかり、という世界観とはイメージが一変。その上、戦後の子供達という、似たような主題で今まで見てきたような写真や映像とはまた違う、より一歩踏み込んだ、路上での生活の実態に分け入り、当時の子供達一人一人が、実際に直面していた厳しい、過酷な現実を淡々と、しかしまざまざと突き付けてくる作品も少なくなく、また考えさせられた。


 私は、先述した大学の課題において、「生活の美 -喜ぶ、驚く、怒る・・・などなど、といった感動する心というものは、子供に一番表れて見て取れるだろう。」というような主旨の内容の文章を書いた。しかし、今回の田沼氏の写真は、いわゆる、ありきたりで固定観念の『美』という価値観からは遠くかけ離れた作品ばかりで、『感動』というか、『感情』・・・今回の場合、無条件でもう憎しみや苦しみ、悲しみ、卑屈、卑下、屈辱、等々が当たり前に染みついてしまったような、子供達の表情、更にモノクロでもあったため、カラーの『地球星の子供達』と全く同じ写真家による作品とは一瞬、信じ難い程だった。どのような表情でも、射抜いて画面上に再現させ、時を止めて、或いは、時を越えて、観る者に迫る氏の力に見入った。


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 ここで余談かもしれないが・・・

 

 『戦後の子供』といえば、2014年に神奈川から埼玉へ移り住んだ際、『欧米』に対して、人や場所が変われば、様々な違う視点が存在するのだなという現実に今更ながら直面、考えさせられた事を思い出す。単に主人の実家と私の実家の間で、西洋への思い入れに関して大いに違いがあり、それが、なんとなくそのままなんだか神奈川と埼玉の気風を表しているように当時思えたので、(勿論、それは大袈裟な勘違いで、様々な住人がいるものなのだが。)内輪話しのようで本当に申し訳ないが・・・

 埼玉に移り住んだのは、結婚して、川越市の主人の家に入ったからなのだが、主人の父は、埼玉県の郊外出身。戦争中まだ幼かった義父は、アメリカ兵が操縦する飛行機にいたずらに低空飛行で追い回されるという、恐ろしい目に会ったらしい、と、主人は話す。そんな主人は、そのような話しの影響か、さほど欧米には興味関心を持たないまま、逆に、大の日本びいきで、現在を迎えている。一方、私の川崎市の実家は、元々、福島県出身の祖父母が東京勤務となって建てた、今となってはベッドタウンの最初の数軒のうちの1軒。それ以前にも、祖母は、終戦後の上野に、福島から何度か汽車で来ていたらしいが、そこの劣悪な環境極まりない地下道に暮らすしかない戦争孤児の子供達を、何度福島に連れて帰ろうかと思ったらしい。少し学校で教えていた経験もある祖母は、当時、福島の貧しい子供達に、満州を新天地として紹介してしまった、と、後になって話していた事もある。そのような訳で、日本の暗い歴史から逃れるように、祖父はハイカラで新しいもの好き、祖母は讃美歌に救いを求め(クリスチャンではない)、二人とも、後に生まれた私が、素直に80年代の潮流に抗う事なくアメリカやいわゆるインターナショナルな空気にミーハー心で夢中になっても、「なんでもやってみる姿勢が好きだ」と、褒めては一番の良き理解者となってくれたものだ。結果、私は留学までさせてもらい、芸術を始め、大いに欧米文化を吸収しながらすくすくと育ってきたのだ。

 そのような訳で、結婚する時も、勿論、私は、埼玉では義父のような事実があったとも露知らず、日本人なら皆が欧米好きなのかと思っていたと言っても過言ではない。・・・ましてや一都三県と言われる神奈川と埼玉で、文化の違いなどさほどあるわけがないだろう、と。むろん、欧米が抱える現代の矛盾や問題は、私だってニュースや映画程度の知識はあるし、神奈川にだって田舎や田園地帯はあるので義父のような経験をした農家の人々もいたのかもしれない。ましてや、神奈川は横浜の赤線地帯を考えれば、『ミス・サイゴン』のような悲劇だって沢山あっただろう。例えば『浜のメリーさん』。戦後、アメリカ人の妻となるが、その夫はアメリカへ帰国してしまい、以後、一生日本には戻らなかった夫を待ち続けながら、誇り高い娼婦を続けたメリーさんの話しだが、夏になると新聞の神奈川版に、毎年必ず、浜のメリーさんを主題にした演劇の特集が載るものなので、逆に、私の主人がメリーさんを知らなくて、私はびっくりさせられたのも事実である。

 しかし、恥ずかしながら私の中では、大抵の人が欧米とは憧れるものだ、という意識のもと、昭和、平成、と成長してきてしまっていた。かたや主人の実家は、大の昭和歌謡、演歌好みだというのに・・・。

 ・・・このように(?)、価値観に一人一人の違いはある。実際問題、埼玉と神奈川という近距離の県同士でさえ、歴史を紐解けばそれぞれに全く違う立場というものがあり、そのまま進み紡がれ、現代になって大かれ少なかれ、価値観のすれ違いを生んでいる部分もあるのだから、これが西日本と東日本、とか、ましてや日本と西洋、などとなったら、その差異は到底計り知れないものだ。戦闘機の中で空からしか人を見られなかったアメリカ人兵、それに侮辱の悔しさを忘れられなかった義父、その義父を想い、西洋に対していまいち懸念のある主人、一方で、アメリカを始めとする西洋文化に夢と希望を抱いた私や私の祖父母・・・などなど・・・本当に、価値は、真実は、わからないものだ。何が善で何が悪か、何が人の尊厳で何がその尊厳を守るのか、なぜ、その尊厳を破ろうとするのか・・・

 と、個人的な、非常に小規模な例えのみで考察してしまい、何も私と主人が神奈川県と埼玉県を代表する訳でもこれっぽっちもない、大変馬鹿げた、恥ずかしい比較検討とも言えるが、どうぞご了承頂きたい。

 要は、物の価値観、価値基準とは、個人個人であまりにも簡単に違いは生まれ、だからこそ個性的な人間らしさがそこにあるとも言えるのだが、その違いは、ともするとあっという間に大きなすれ違いの溝と発展し、それが戦争という、人間の最大にして最悪の業の発端になる時もある・・・という事実。臭い物には蓋をせず、私達は、その事実を認め、反省しながら、日々、精いっぱい前進してゆかなければならない。


 ただ、最近、子供を産んでわかる事がある。なんであれ、子供を見ればわかる、と、言えるのかもしれない。子供が健やかにくったくなく笑ってくれている時、幸せはある、とー。

 だからこそ、今回の田沼武能展に見られるような、不幸にあえいで泣きじゃくる、それどころか泣くのも忘れて、もはや“不幸に見える状態”が当然の自然で、心を失いながら盲目的に生きようとする子供達ばかりの写真は、あまりに悲劇で、胸に痛く響き、いたたまれなかった。


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 外は、満開の桜・・・



 向井潤吉と、田沼武能・・・偶然、同時に見た二人の作家・・・。

 時代こそ違うが、ひょっとしたら昭和という激動の社会を目の当たりにして突き動かされたモチベーションは、共通しているかもしれない。

「向井潤吉が生きた日本に焦点をあてて概観すれば、明治期の西欧文化の移入と、その影響を多大に受けつつ、そして他国との戦争を幾度も経験し、さらに戦後社会の高度経済成長期を経て、現在に至る道程の有様が浮かび上がってくる。そして、向井潤吉の画家としての足跡をたどれば、明治期から移入が本格化する油彩画の魅力の惹かれ、25歳で単身渡欧しルーブル美術館で模写を重ね、さらに30歳の半ばから終戦までは従軍画家として作戦記録画の制作に従事し、その後は、めまぐるしく生まれる新たな表現が渦巻く美術界のなかで、草屋根の民家を無二の題材と定め、一人の画家としての道をまっとうしたということになる。社会的な状況も、文化をとりまく状況も、これほどに激しく、せわしなく動いた100年間を、かつて日本は経験したことがあろうか。」

 -『向井潤吉 風景へのまなざし』橋本善八著 より。


 桜は、はらはらと散り、満開の風景で私達を出迎え、包み込んでくれた。ああ、そういえば、この桜も、この桜こそ、日本人がまた「散り際の美学」などとシンボル化している美しさだっけ・・・この日は、どこまでも何かしらに関連して考え込む作業が続くなあ・・・。      

 それにしても、桜の、薄白くパールに輝きを放つ淡いピンクが含む空気感というようなものは、毎年毎年、繰り返し繰り返し、なんとも言えず居心地が良く、心を浄化してくれるようだ。桜は、今年も変わらず、そこにあり、ただ、そこで咲いて、人々を迎えてくれる。もはや言葉もなく、ただ、涙が出そうな程の美しい桜吹雪に圧倒され、包まれ、見とれてしまうお花見となりました。


*参考文献

・世田谷美術館コレクション選集 向井潤吉 風景へのまなざし

発行者:世田谷美術館、世田谷美術館分館 向井潤吉アトリエ館

発行日:2017年