神仙思想
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
神仙思想
しんせんしそう
中国の周(しゅう)の末ごろ(前3世紀前後)に、燕(えん)(河北省)や斉(せい)(山東省)の方(術)士たちが説いたもので、僊人(せんにん)(仙人)にあこがれて現世を超越し、不老不死の薬を得て天地とともに終始し、空を飛ぶなど自己の思うがままの行動や生活の実現を願う思想をいう。僊人とは、昇天する人のことをいうのであるが、名山との関係も深くて、仙人とも書かれる。[宮澤正順]
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『史記』(始皇本紀(ほんぎ)、封禅書(ほうぜんしょ)、天官書)に、斉の北東の海浜で行われた八神を祀(まつ)る巫祝(ふしゅく)の信仰や登州(山東半島最北端)の海市(かいし)(蜃気楼(しんきろう))のことが記されていて、渤海(ぼっかい)湾には人間の住む世界とは異なった仙境が想像されたらしい。また、斉の宣王のころに鄒衍(すうえん)が、陰陽消長五行転移の理論、および中国の外に9倍の未知の世界があるという大九州説(地理説)を考え出したことなども、神仙伝説を助長した。『史記』によると、三神山とは蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)であり、風波が荒く近づきにくい所である。そこには仙人が住み、不死の薬がある。そこの物はみな白く、宮殿は黄金や銀でつくられている。燕の昭王や斉の威王、宣王や秦(しん)の始皇帝や漢の武帝は、とくにそれに心をひかれたらしい。始皇帝は、徐(じょふつ)(徐福)らの方士に童男童女数千人を伴わせて蓬莱山へ不死の薬を求めに行かせた。漢の武帝は、李少君(りしょうくん)の言に従って竈(かまど)を祀り、鬼神を信じ、丹砂(たんしゃ)(硫化水銀)その他の薬剤によって黄金の飲食器をつくって長生を図り、蓬莱の仙人に会って不死の薬を得ようとした。[宮澤正順]
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三神山のような仙境および人間と神との中間的存在である仙人が考え出された背景には、『史記』よりも古い『荘子(そうじ)』逍遙遊篇(しょうようゆうへん)の藐姑射之山(はこやのやま)神人の記録とか、『列子』黄帝篇のユートピア華胥氏之国(かしょしのくに)の物語とか、『楚辞(そじ)』9章篇の屈原天界遊行の歌謡などが注目される。『荘子』には、藐(はるかとお)い姑射の山に処女のように約(しゃくやく)とした神人がおり、五穀を食せず、雲気や竜に乗って四海の外に遊ぶ、とある。神人は、神通力を獲得して、融通無礙(むげ)の世界に遊ぶ者である。宇宙の精神と合一したこのような人物は、真人、至人などともよばれる。『列子』には、政治に心身を労した黄帝が夢のなかでみた華胥氏之国は、国王もいないのによく治まり、人民は水に入ってもおぼれないし、火にも焼けず、雲気に乗じて空中を飛ぶ、と記されている。また『楚辞』では、失意の屈原が、天界に昇り、西方の想像の山崑崙(こんろん)に至り、玉英(ぎょくえい)(宝石)を食べて天地と寿を同じくし、日月と光を等しくしよう、と歌っている。なお『列子』の湯問(とうもん)篇には、渤海の東、幾万里もの遠くに、岱輿(たいよ)、員(いんきょう)、方壺(ほうこ)(方丈)、瀛州、蓬莱の五山があり、そこには、不死の食べ物があり、不老不死の仙人が空を飛んでその間を往来している、とある。『史記』の孝武本紀には、武帝が中国の五岳を祷祠(とうし)した記録があり、後漢(ごかん)になると、崑崙山には西王母(せいおうぼ)という仙女が住むという伝説が成立する。これらのことは、渤海方面に発生した三神山の神仙思想が、中国の内部にだんだんと広がっていったことを示す例とも、あるいは、仙人や仙境が早くから中国の各地にあったことを示す例とも考えられている。[宮澤正順]
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神仙を愛好した漢の武帝も、董仲舒(とうちゅうじょ)の進言をいれて儒教中心の政治を行うようになって、道家神仙の徒は、高祖劉邦(りゅうほう)の孫で武帝の諸父淮南(わいなん)王劉安(りゅうあん)のもとに集まった。そこで撰述(せんじゅつ)された書物は、淮南王が討伐されたときに亡逸したが、葛洪(かっこう)作の『抱朴子(ほうぼくし)』の内篇に引かれている『八公黄白経』『枕中(ちんちゅう)黄白経』『鴻宝(こうほう)経』『鄒生延命(すうせいえんめい)経』などがそれと関係があるらしい。後漢末には、国政も乱れて、儒教にかわって老荘思想が盛んになった。原始道教教団とよばれる張陵の五斗米道(ごとべいどう)や、干吉(かんきつ)と張角の太平道などもおこった。神仙説を取り入れたこれらの教団は、老子を尊び、符水(御札(おふだ)と神に供えた水)と鬼道による治病を主とする教法によって多くの民衆を集めた。その後、張陵の孫魯(ろ)に至って魏(ぎ)の曹操(そうそう)と和解し、権力と妥協して天師道として広まった。『抱朴子』のなかに『甲乙(こういつ)経』『太平経』『天師神器経』『鶴鳴(かくめい)記』と記されている経巻は、これらの教法に関係があるものであろう。これらのことから、西晋(せいしん)の葛洪が神仙思想の集大成者といわれるのも当然である。彼の『抱朴子』内篇には、仙を求める人は、忠孝和順仁信を本として、善行を積んで身中の三尸虫(さんしちゅう)や竈(かまど)の神が罪を天帝に報告しないようにすることのほか、胎息(たいそく)(呼吸法)、房中(ぼうちゅう)(保精術)、服薬のことなどが説かれている。葛洪は、動植物のなかから、鶴や亀や菌(きのこ)などを、長生に役だつものとして紹介している。しかし、丹砂を材料とした錬金術によって還丹金液(せんたんきんえき)の大薬が完成すれば、他の薬物や仙術を用いないでも昇天できるとする。彼は、仙人についても、白日昇天する天仙や、地上の名山に遊ぶ地仙や、死後に仙を得る尸解(しかい)仙がある、という。『抱朴子』は『日本国見在書目録』に記されていて、宇多(うだ)天皇のときにはわが国にあったことが知られる。神仙思想は、日本だけではなく、朝鮮や東アジアの諸国にも伝えられており、中国におけるのと同じように、それぞれの国の文学や美術のなかに表現されている。[宮澤正順]
『武内義雄著『神僊説』(『岩波講座 東洋思潮11』所収・1935・岩波書店) ▽『神僊思想の研究』(『津田左右吉全集 第10巻』所収・1964・岩波書店) ▽『支那小説の溯源と神仙説』(『青木正児全集 第2巻』所収・1970・春秋社) ▽窪徳忠著『世界宗教史叢書9 道教史』(1977・山川出版社)』
[参照項目] | 仙人 | 道教 | 不老不死
http://juroujinn.la.coocan.jp/sinnsenn.htm 神仙思想 より
養生・錬丹・方術といったいわゆる神仙術により神人・仙人になることを目指す思想。
その究極の目的は不老長生であり、それゆえのちに道教の中心的思想となった。
神仙思想が山と結びつけられる理由は、気に満ち幽玄な環境をもつ山が修行に適していたことや、鉱物や薬草が豊富であったことであると考えられる。
歴史
当初、神仙は神に近いもので、人間がなることはできないものと考えられていたため、人々はなんとかして渤海中の三神山(蓬莱、方丈、瀛州えいしゅう)に住むという神仙に会い、長寿の薬をもらおうとした。しかし秦代(BC221~BC206)ころからは、修行をすれば人間でも神仙になれるという思想が生まれたため、それ以降は、様々な神仙術が生み出されることとなった。
不老長生は古くから中国人の夢であった。多くの皇帝がこの夢を追い求め、手っ取り早い手段として丹薬を得ようとした。なかでも秦の始皇帝(BC259~BC210)や漢の武帝(BC156~BC87)の丹薬狂いは有名である。その背景にはペテン師まがいの方法により皇帝たちを扇動した方士たちの存在があった。
晋代(265~419)の葛洪(283~343頃)が著した『抱朴子(内篇)』には、当時の神仙思想の状況が記されている。なお、葛洪自身は役人であり、その外篇では儒教思想を扱っている (→道教、→医学)。
唐代(618~907)には、道教が優遇されたことを反映し、皇帝や側近のみならず、士人に至るまで神仙思想が広く浸透した。
思想
養生術
養生術は、辟穀(へきこく、穀断ち)、服餌(ふくじ、服薬法)、調息(呼吸法)、導引(柔軟体操)、房中(性技法)に分類される。
煉丹術
煉丹術とは丹薬(仙薬・金丹)という不老長生の薬を得ようとするものである。いわゆる錬金術も、その目的は煉丹であった。
最も古い煉丹術の書物は、後漢末期に魏伯陽が著したとされる『周易参同契』である。
丹薬は、水銀や砒素を含んだ有毒なものであったため、それが原因で命を落とすものが少なくなかった。そのため、次第に丹薬服用による外丹術の人気は低下し、唐代(618~907)には、精神修養によって気を体内にとり入れ体内に丹薬を作り出すという内丹術に変わっていった。
方術
方術とは禁呪(呪禁 じゅごん)、符籙 (ふろく)(神符)、齋醮 (さいしょう)・科儀といった、神仙になるための技術・手続きである。それぞれ禁呪は「呪文」、符籙は「お札」、齋醮・科儀は「祈祷」により災難を逃れ、結果的に長生きしようというものである。
方術には、自分のためだけでなく、呪いや鬼神の駆使により他人に悪影響を与える目的で使用される可能性もあった。
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index187.htm
187.神仙思想(方術・道術) 高橋俊隆
http://ikaebitakosuika.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/75341941-b754.html
◆方士とは方術を行う人である。方術とは、医経・経方・房中・神仙の四科に分かれ…平凡社,『東洋歴史大辞典』,第7巻,534頁,(1941年)◆