温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第12回】 マルクス・アウレーリウス『自省録』(岩波文庫,2007年)
辞任の仕方でも話題となったアメリカの国防長官(第26代)のジェームス・マティス。軍人として数々の実戦を指揮し、海兵隊大将となり中央軍司令官をつとめた。結婚はせずに独身を貫き、読書家としてその知性を知られ、戦略・戦史の研究に勤しむ姿から「戦う修道士」との異名もとった。マティスの愛読書の一つがマルクス・アウレーリウスの「自省録」とのことだ。ローマ帝国の五賢帝の一人、マルクス・アウレーリウスは、個人的には平和的文化的な指向を好むも、皇帝在位中のほとんどは絶え間なく戦乱が続き、その指揮を余儀なくされた。幼いときから優れた気質をみせ、誠実に文学、音楽、歌、舞踊、絵画を学び、一方で肉体も鍛錬し、後に哲学にもっとも関心を示した。
ただ、マルクス・アウレーリウスは学者のように研究と思索だけの生活は許されず、体系的になにかを書き記すことはできなかった。「自省録」とは、当人があくまでも自分自身のために書き残したもので、それを後世の人間が纏めたものだ。ゆえに、全体の構成も文章も必ずしも整ってはいないが、これがまたこの書物の魅力でもある。語録集のように気に入ったところを読み返す。そんな読み方があっているように思うのだ。いくつか好きな言葉を引いてみたい。
「もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ」(6-6)
「名誉を愛する者は自分の幸福は他人の行為の中にあると思い、享楽を愛する者は自分の感情の中にあると思うが、もののわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである」(6-51)
「明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果たすために私は起きるのだ。」自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具のなかにもぐりこんで身を温めているために創られたのか。「だってこのほうが心地よいもの。」では君は心地よい思いをするために生まれたのか、いったい全体君は物事を受身に経験するために生まれたのか、それとも行動するために生まれたのか。小さな草木や小鳥や蟻や蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自己の分を果たして宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか。しかるに君は人間のつとめをするのがいやなのか。自然にかなった君の仕事を果すために馳せ参じないのか。「しかし休息もしなくてはならない。」それは私もそう思う。しかし自然はこのことにも限度をおいた。同様に食べたり飲んだりすることにも限度をおいた。ところが君はその限度を越え、適度を過ごすのだ。しかも行動においてはそうではなく、できるだけのことをしていない。結局君は自分自身を愛していないのだ。もしそうでなかったならば君はきっと自己の(内なる)自然とその意志を愛したであろう。・・」(5-1)
マルクス・アウレーリウスが学んだ哲学はストア哲学であり、物理学、論理学、倫理学の三部にわかれる。今日の学問的見地からその価値を云々いうのは「哲学」の一つだろう。あるいはストア哲学と「自省録」の内容を精査し、体系知を称してペラペラと人前で話すのも「哲学者」の一つかもしれない。
だが、静かに「自省録」と向かい、自分の生き方を真摯に問い、己の中から湧き立つ一句をしっかりと吐くこともまた「哲学」だと思うのだ。もし、「自省録」と向き合っても本当のところ何も湧き立たず、ただ要約して終えるならば読む必要もない。
それ以前に何かを失っているのだろう。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。