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株式会社 陽雄

温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第20回】 横山紘一『唯識の思想』(講談社学術文庫,2016年)

2019.06.21 08:00

ある世代と年齢層に共通してあてはまる事象だとは思うが、私は子供の頃、「三蔵法師」とはてっきり女性であるとばかり思い込んでいた。ドラマ「西遊記」(原作は明時代の伝奇小説)、堺正章の孫悟空、岸部シローの沙悟浄、西田敏行の猪八戒・・・そして、夏目雅子が演ずる三蔵法師。記憶がおぼろげながら、合掌しつつ「天竺にありがたいお経をもらいにいく旅の途中・・」とセリフをはいた夏目雅子の姿を覚えている。

本物の「三蔵法師」は、玄奘三蔵として実在の人物で男性。玄奘が17年にわたってインドで学び、中国に持ち帰ったサンスクリット語の経典を、亡くなるまでの20年間で膨大な量を翻訳したが、なかでも「唯識」(ゆいしき)の思想にまつわる経典を多く訳した。仏教は大雑把に書けば、原始仏教、部派仏教(小乗仏教)、大乗仏教という順で歩みを進めてきた。原始仏教とはお釈迦様の生きていた時代のもので、お釈迦様自身によって説かれた教えを中心としたもの。その後、解釈をめぐり教団や弟子たちは四分五裂したのが部派仏教(小乗仏教)。

この部派仏教は、お釈迦様の説いた内容を難解用語で教理を説き、自分一人の悟りを目指す「自利行」(じりぎょう)に専念する傾向が生じた。これに対するアンチとして、自分の悟りよりも、他人の救済を目指して生まれてきたのが大乗仏教。この大乗仏教では「般若経」をベースにする「空」(くう)の思想が生まれ、それに続いて「解深密教」(げじんみっきょう)などをベースとする「唯識」の思想が生まれた。


「空」の思想を曲解すれば、一切はまったく存在しないというただの虚無主義に陥りがちで、これを回避するために「識」(しき)、すなわち、心だけは存在するという「唯識」の考えが起こった。この唯識の思想の中核にあるのが、末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)といった概念だ。「自分らしく」といったフレーズは現代では一般的で、今日ではそれを担保する自由を最大限にするのが一つのテーマでもあり、それがいろいろなものを生み出していく原動力になってはいる。

一方で、それがまたいろいろな苦しみの原因になることを人々は知ってもいる。自分の体、自分の心、自分の家族、自分の財産、自分の会社・・・自分という枕詞がつき、ここから逃れることは難しいが、唯識の思想では、この深層には末那識という自我の執着心が働いているとする。寝ても覚めても自分を中心に思い続けるエゴ的な心をみつけて、それを末那識とした。そして、末那識よりももっと深く、一切を生み出す力を有した根本的な心をみつけて、それを阿頼耶識とした。

この阿頼耶識は過去の一切の業(ごう)を貯蔵する機能を有しているといわれる。たとえば、ある人を憎み続けたことの因果のすべてがそこに植え付けられる。一方で、一切を生じる力を持っているともされ、故に、現在、未来を生じさせる力を持っているとする。


さて、この唯識の考えがベースになっているのが、宗派でいえば「法相宗」。多分ピンと来る人のほうがマイナー。その代表的なのは奈良の興福寺だが、これでもピンこなければ、五重塔や阿修羅像のあるお寺といえばイメージが湧くかもしれない。この興福寺は一般的な葬儀などは執り行わないのだ。そして、死者に触れることを穢れとして避ける。これは一つのカタチの在り方だからとやかく言うことでもない。ただ、僧衣をまとわれた方々がこの「唯識」に対いてどのくらい真摯であるかを、いつか縁あれば聞いてみたいことなのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。