温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第27回】 世阿弥 市村宏 全訳注『風姿花伝』(講談社学術文庫,2011年)
「4G」から「5G」の時代が間もなくやって来る。通信速度が100倍にもなれば、これまで以上に動画で何かを発信することが当たり前の時代となるだろう。一般論として、動画が有する、わかりやすさ、楽、イージー、といった性質に否定的なことをいうつもりはない。だが、クリエイターがつくった動画が当たり前になって溢れるほどに、それらを与えられ、100%受動的に消費することに飽きがくる人も増えるかもしれない。
人間はもともと個体差といったものがあるにせよ想像力を有しており、それを使うこと、使うことを迫られることで、暇つぶしができるような機能を有している。動画は観る側に想像力をさほど駆使させないとすれば、その一方で、観る側にそれを駆使することを求めるエンタメの一つは「能」だと思っている。
敷居が高いと思われがちの能では、演者側もそれを楽しんでもらおうと色々と工夫はするが、所詮「謡」(うたい・セリフ)はわかりにくいし、能舞台の舞台装置は650年もの間「松の絵」が描かれただけで、照明で派手な演出もないからできることは限られている。つまりは、観る側が能動的に演者へと歩み寄る努力をしなければ楽しめないのだ。
あらゆる最新のエンタメを堪能しつくしたら、能を観るのは有意義な「暇つぶし」として持ってこいかもしれない。そんな「能」のことを語った能楽論で一番有名なのは、「初心を忘るべからず」の言葉で有名な世阿弥の「風姿花伝」。
もともと、世間で読まれることを想定しておらず、家を継ぐべき者に稽古や演技の仕方、芸の道の奥義を伝える目的で書かれたものだ。能は知っての通り幽玄の世界を扱い演じる。そのなかで「鬼」などが出てくるが、もともと鬼なのではなく、執着が人を鬼の姿に変えたものだ。それを演ずるための心得として次のような論を展開している。
「そもそも鬼の物まね、大きなる大事あり。よくせんにつけて、面白からまじき道理あり。されば鬼の面白きところあらん為手は、窮めてるたる上手とも申すべきか。さりながらそれも、鬼ばかりをよくせん者は、ことさら花を知らぬ為手なるべし。鬼ばかりよくせん者は、鬼も面白かるまじき道理あるべきか。詳しく習ふべし。ただ鬼の面白からんたしなみ、巌に花の咲かんがごとし。怒れる風体にせん時は、柔らかなる心を忘るべからず。これ、いかに怒るとも、荒かるまじき手だてなり。怒れるに、柔らかなる心を持つこと、珍しき理なり。また、幽玄の物まね、強き理を忘るべからず。これ、一切、舞、はらたき、物まね、あらゆることに住せぬ理なり」(第七別紙口伝)
【現代語訳】
そもそも鬼の物真似には難題がある。上手に演じるほど面白くなくなることである。だから、鬼を面白く演じることができる役者は奥義を究めた役者ということができるだろう。しかし、それにしても、鬼の能ばかりが得意だというのは、花というものを知らない役者であろう。鬼ばかり上手な役者は、その鬼も面白くないという道理があるようだ。よくよく考えなければならない。鬼を面白く演じるということは、たとえば巌に花が咲いたようなものである。強く怒った風体に演じようとする時は、柔らかい心でいることを忘れてはならない。これはどのように怒っても、荒くならないための方法である。激しいわざをする時に、心を柔らかく持つことが珍しさを生む。また優美なものの物真似には強い心をもつ法則を忘れてはならない。これは、舞、所作、演技などのすべてにおいて新鮮さを失わないための法則である。
怖いもの見たさは世の常で、「鬼」が出る演目は古来人気がある。一座としても集客をしなければならない以上は自然そうしたものを扱うことになる。現代でいうところのホラー映画やヤクザ映画などが一定の人気を持つのと同じ理屈かもしれない。だが、それらの役を演ずるとき、人間が踏み留まらなければならない一線があり、それを越えてしまえば戻れなくなる境界線がある。境界線を越えて完全に鬼と同化すれば、それは能舞台で演ずるフィクションではなくなる。世阿弥の一文は、一点だけでも心に人間らしさを持ち続けながら演ずることで、闇に完全に飲み込まれることを回避するための安全装置としての機能を行間に込めたのだろうか。確かに、完全に鬼と化してしまえばそれはもう人ではなく、観る側との間の橋掛かりに何一つ共通項がなくなれば、そこにはエイリアンに遭遇するような違和感はあっても、もはや共感は呼ばないのかもいしれない。
なお「初心を忘るべからず」とは、意外と誤解されている。「何かに初めて取り組んだときの初々しい真っすぐな心を忘れずに務め行く」という意味ではなく、この初心とは「己の技術技量の未熟さ」を忘れるなというのが世阿弥の主旨とのことだ。何事につけて文字どおり初心(うぶ)だった頃の持ち味はあるものだが、初心(うぶ)だった頃に出せた持ち味をそのまま持ち続けることはできない。
ただこれを当人が知ることは難しく、それは芸能芸道に限ったことでないのだろう。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。