温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第30回】 井筒俊彦『イスラーム文化~その根底にあるもの~』(岩波文庫,1991年)
「コーラン」を初めて読んだのは20代後半の中国駐在のときだった。駐在が終われば今度は中東圏におもむく可能性が出始めていた。いろいろと覚悟を決めないといけないなと思いつつ、まずはしっかりとイスラムについて学ばなければと思い「コーラン」を読み込むことにした。残念なことにアラビア語ができなかったので代わりに日本語で読むことになった。
それを可能にしてくれたのが30以上の言語を使いこなし「語学の天才」と称された井筒俊彦氏(イスラーム学者、東洋思想研究者)であり、井筒氏は日本で初めて「コーラン」の原典訳をした。なお、厳密にはイスラム教では翻訳本を「コーラン」としては認めず「参考書」程度の扱いとなっている。この点は日本語の聖書も英語の聖書も同等に認めてくれるキリスト教とは異なるのだ。だが、たとえ「参考書」程度でも知るためには大変に役にたったのは事実だ。
その次に、読んだのが「イスラーム文化~その根底にあるもの」(岩波文庫)だった。この本は200ページ程度で、3回にわたった講座をもとにしてつくられており割合読みやすかった。さて、中東情勢などをある程度フォローしている人でも、イスラムについて語れる人となると日本では結構限られてくるのが実情だと思う。日本は中東地域に原油といった戦略物資を依存しているが、それでも、多くの日本人が抱く中東のイメージは広大な砂漠とそこに根付いているイスラム教といったものが一般的だろう。だが、この本の冒頭周辺は意外な書き出しから始まる。
「アラビア砂漠に視野を限ってしまいますと、イスラームを根本的に誤解することに・・イスラームを砂漠的人間の宗教思想として類型化する。・・イスラームはたしかに砂漠的宗教であるかもしれません。しかし、もう少し厳密に考えますと、・・その起源においてすら、アラビア砂漠の砂漠的人間の宗教ではなかったのであります・・」
なるほど知的関心を刺激される書き出しだ。そして、もう少し読み進むと、
「・・生活の全部が宗教なのです。・・この点においてイスラームは、教会を世俗国家からはっきり区分する聖俗二元論的キリスト教と鋭く対立します。・・「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」と言ったイエスの言葉の上に・・イスラームはこれとはまったく別の独自の道を行く。・・イスラームにおいては、宗教は人間の日常生活とは別の、何か特別な存在次元に関わる事柄ではない。人間生活のあらゆる局面が根本的、第一義的に宗教に関わってくるのです。・・」
「コーラン」の文脈が生活の隅々にまで及び、その規範とともに生きるという感覚が日本人にはなかなか肌感覚としてわかりづらく、具体的なイメージが難しいかもしれない。日本はこうした社会とはまったく対照的であり、宗教的にはある意味では無規範に近い。だから、こうした書き出しを読むと、イスラムがものすごく厳しいとの感覚にも陥るかもしれない。
ところで、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の根っこは同じということはよく知られている。無論、細部は大きく異なる。たとえば、アダムとイブが禁断の木の実を食べて神の怒りを買い、エデンの園から追放された「失楽園」の話。実のところ、ユダヤ教ではそもそもこのエピソード自体さほど重きをおいていなかった。キリスト教では、
「お前はこんなことをしたからには、他のすべての家畜や野の獣よりも呪われる」(『創世記』3章、14節)
を重視して、人間は原罪を背負ったとする。(なお、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教も『創世記』は聖典・啓典として大切にする)
イスラム教、『コーラン』ではどうなるかいえば、アダムとイブは一度追放されて、地上に落とされるもその後は許されることになる。
「しかし(後)にアーダムは主から(特別のお情けの)言葉を頂戴し、主は御心を直して彼に向かい給うた。まことに主はよく思い直し給う。主は限りなく慈悲深いお方」(『コーラン』2章、35節)
さて、こうした違いを日本語でじっくりと読み、そして理性的に考えることのできることはある意味で恵まれているといえる。ただ、同時に、別の世界からすればそれが奇異にみられることもまたわすれてはならないだろう。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。