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株式会社 陽雄

論語よみの論語知らず【第2回】「太廟に入りて」

2018.03.27 08:00

「役不足」と「役者不足」という言葉はよく誤用される。前者は、能力に対して立場や役割が軽すぎること、後者は、与えられた役割に対して能力が足りないという意味で使われることが多い。そして基本この二つは両立しない。もっとも、意味の違いを正しく理解していたとしても、言葉の使い手が人の器量をみぬけなければ正しく使えるとは限らない。ただ、どの視点でみるかで矛盾するようなこの二つが並立することもときにあるだろう。論語にそれを感じさせるものがある。

 

「子 太廟に入りて、事毎に問う。或ひと曰く、たれか鄹(すう)人の子 礼を知ると謂えるか。太廟に入りて、事毎に問う、と。子 これを聞きて曰く、是れ礼なり、と」(八佾篇3-15)


【現代語訳】

老先生は太廟での祭式において、事ごとに長上の経験者にたずねられた。これを見て、ある人がこう譏った。「あの鄹(すう・孔子の出身地)の野郎、礼の先生と誰が言ったのよ。大廟ではなんでもかんでも人に聞いてたぜ」と。この話が老先生に伝わると、こうおっしゃった。「(知っていても過ちのないように確かめる。)それが礼なのである」と

 

この一文は、孔子が30代くらいで魯国の祭礼担当の下級役人にすぎなかったときのものらしい。ここでは、知っていることでもあえて確かめる孔子の慎重さと謙虚さを前提として訳している。一方で、民間の原儒(シャーマン)出身の孔子は個人的儀礼などの「小礼」などは独学で身に着けていたが、国家的儀礼などの「大礼」などは知っていたはずがなく、本当に太廟での振る舞いを知らなかったという解釈に寄る訳もあり、議論がわかれる。

私としては、たぶん不知であったと思うが、「知・不知」は実際たいした問題ではなく、訳の違いも些末なことだ。大切なことは、孔子のこころの奥に秘めた志が、小礼から大礼までの儀典細目に通暁した知識人になることにあるか、それとも礼の目的を知り、その実践者になることにあるかだと思う。前者は歩く辞書、ウォーキングディクショナリーを目指すもので、後者は、全身全霊でもって礼を体現し、その目的とするところの完成を目指す道だ。無論、孔子は後者を志して生涯を歩んだ人だ。つまりは、この太廟での孔子の在り方、知識人としては「役者不足」としてレッテルを貼られても、実践者としてみれば所詮は「役不足」ともいえるだろう。

 

その後、時が過ぎて孔子が魯国でそれなりの地位についた50代の頃、たびたび戦をおこなってきた魯国と斉国が国境において和平の礼(外交交渉)を行うことになった。孔子はその礼の実践者となり、魯の君主に同行を命じられた。このとき斉国は、交渉をうまく運ぶために蛮勇を弄し一発脅かしてやろうと、武器をもった踊り人を外交式典の場に呼び込む無礼を働いた。しかし、孔子は一切動じず、ビビらず、礼を保ちつつも一喝して斉国の目論見を砕いたのだった。もし孔子のそれまでの歩みがただの“ウォーキングディクショナリー”であったならば、肚も決まらぬその一喝の演技はそれこそ役者不足となり逆に退場させられたかもしれない。

 

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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。