Tokaido 東海道 29 (27/11/19) Anjo Castle Ruins 安祥城跡
岡崎宿から池鯉鮒宿への街道
- 薬王寺
- 聖善寺
- 熊野神社
- 永安寺
- 明治用水路
- 明治川神社
- 豊田安城サイクリングロード
- 元禄の道標
- 来迎寺一里塚
- 知立松並木 (11/28に記載)
- 馬市之碑 (11/28に記載)
- 慈眼寺 (11/28に記載)
安祥城
- 大乗寺
- 東尾八幡社
- 東条塚
- 千人塚
- 姫塚
- 富士塚
- 善恵坊の碑
- 勢井畷 (清畷)
- 本多忠豊墓碑
- 山崎城
- 本多忠高墓碑
- 筒井泉跡
- 保科正直邸址
今日はこの三河の大名家であった松平氏が岡崎城に居城を移すまで本拠地としていた安城祥城を訪れる。時間があれば、池鯉鮒宿まで見れればと思っている。
薬王寺
宇頭大塚古墳の前方後円墳の後円部の上に建っている寺で、薬王寺派と呼ばれる三河の刀工発祥の地。
聖善寺
冬なので見れないのだが、ここのしだれ桜は評判だそうだ。春はこんなに綺麗に桜が咲く。
国道1号線から旧東海道に入ると直ぐに松並木が始まる。100mも無いのだが、国道1号線でほとんど面影が無くなっているなか、数少ない昔を偲べる場所。
熊野神社
ここには第二次世界大戦の終わりの時期に若い戦闘機パイロット育成の為に予科練が置かれた。ここで訓練を終え各地に配属された。終戦まで1年3ヶ月の短い期間に6000人の訓練生を輩出したそうだ。ここにその碑が立っている。
永安寺
永安寺には雲竜の松と呼ばれている立派な松が境内にある。この松と共にこの永安寺建立の経緯が書かれてあった。村のために死と引き換えに過酷な刈谷藩の助郷役を明治まで免除されたという。
ここで75才の男性と出会う。千葉さんは69才からマウンテンバイクで東海道、中山道、甲州街道、日光街道を走破したと話してくれた。甲州街道以外は走っているので、宿場の風景がどうだったとか、どこがきつかったとか、色々と話しが弾んだ。今度は北国街道に挑戦するそうだ。75でも気持ちさえ前向きであれば、体の方は何とかなるのだと勇気付けられた。
明治用水路
ここ安城市は大正時代には、農業王国として、「日本デンマーク」と呼ばれたそうだ。それに大いに寄与したのが明治用水。これにより収穫は10万石以上であったという。当時、岡崎藩が5万石であった事からも大成功と言えるだろう。碧海台地に矢作川の水を引いて新田開発を行うというこの計画は、江戸時代文化・文政期に豪農である都築弥厚が発案し、1822年から4年にわたる測量の後幕府勘定奉行に提出し許可をえる。測量を開始して11年目であったが、都築弥厚はこの年に亡くなり、計画は頓挫する。その後、後継者が幾度となく計画書を提出し、ようやく明治時代の1879年に工事が始まり1891年に完成に完成して明治用水と命名された。発案から約70年後のことである。本流、西井筋、中井筋、東井筋の幹線と支線から成り、幹線は88km、支線は342kmにも及んでいる。記念碑が建っている所は暗渠になっており、自転車専用道路になっている。自転車道路だけでも約40キロもある。走ってみたい誘惑。
明治川神社
記念碑が建つ場所には明治川神社がこの用水完成の時に建てられ水神を祀っている。
行きたいが悩む時は、作った旅のルールがある。悩んだ時は後で後悔しない為にで行く事。それが決めたルール。それに従って、先程発見した豊田安城サイクリングロードを走る事にした。先には徳川家所縁の城があるので、そこも訪問する事にする。今日の泊まりは、ここからそれ程遠く無い所なので、途中で日没になっても難なく辿り着ける。
豊田安城サイクリングロード
さすが農業王国と呼ばれただけある。一面農地でその中を走り、安城市中心部に近づくと住宅街を走る。このサイクリングロードは豊田市と安城市を結ぶ明治用水の暗渠ルートで総延長36.3kmにもなる。このルートだけでなく明治用水の支線にもサイクリングロードがあり、自転車乗りにはもってこいの地域。全部は走る訳にいかないので、途中まで行き引き返し旧東海道に戻ることにしよう。
サイクリングロードを途中で抜けて、安祥城に向かう。
安祥城
徳川家の前身の松平家の居城だった。松平八代の第三代当主の信光が、元々この城を築き居城としていた和田氏を謀略を用いて無血落城させ、この城に入る。それ以降、第七代の清康 (徳川家康の祖父) が、森山崩れで逝去するまで、安祥松平家 (徳川本家) の本拠地となった。
城跡の三の丸は城址公園になっており、早い次期に廃城となったせいか、城の遺構はほとんど残っていない。公園には歴史博物館 (改修中で休館) や埋蔵文化財センターがあり、そのほか本丸と二の丸の城跡には大乗寺と八幡社が建っている。
大乗寺
ここは本丸跡になる。第三代当主 信光の嫡男の松平親忠が1489年頃に家督を継ぎ、第四代当主として安祥城主となる。親忠は城の鬼門除けとして了雲院を開創し、その了雲院が1792年に既に廃城 (永禄5年 1562年には廃城) となっていた安祥城跡に了雲院大乗寺として移転してきた。寺の前方には土塁と堀の一部を復元している。
東尾八幡社
二の丸跡に建てられた東尾八幡社。文明11年 (1479年) に当時の城主 第三代 信光が鎮守として創建。
安城市の観光案内板では織田家と松平家の間でのこの城の争奪戦であった安城合戦の史跡中心に紹介されてあった。このうち幾つかを訪れてみた。
この城の争奪戦を追いながら史跡を紹介する。
俗に安祥城合戦と呼ばれている戦いは織田氏と松平氏・今川氏が西三河南部の領有を巡って、天文9年 (1540年) から天文18年 (1549年) まで、3回、計9年に渡って行われた。
背景としては第七代当主の松平清康が天文4 (1535) 年に名古屋の守山城で「守山崩れ」と呼ばれるお家騒動で、家臣により殺害された。
跡を継いだ、家康の父 第八代の広忠が岡崎城へ居城を移すと、尾張の織田信秀 (信長の父) が安祥城に侵攻。安祥城を三河攻略の足がかりとしようとしていた。
第一次合戦
① 天文9 (1540) 年2月9日、松平家の当主 松平広忠が尾張・鳴海付近を攻め、織田信秀に先制攻撃をかける。 ② 信秀は6月6日、三河に侵入して安祥城を包囲。 守将・安城左馬助長家は、広忠から派遣された援軍と共に開門して戦うも討ち死。 安祥城は、西三河における織田氏の拠点となった。
東条塚
この第一次合戦で戦死した兵士を弔った塚が城の直ぐ近くにある。これ以外にも多くの塚が造られた。
千人塚
姫塚
この戦いで亡くなった多くの女性を弔った塚が三の丸にある。
富士塚
天文11年 (1542) 8月10日、織田信秀は安祥城から進軍、小豆坂で今川氏と対戦。 当初は今川氏が優勢。しかし、信秀の配下で後に「小豆坂七本槍」と呼ばれた七人の活躍で、信秀の辛勝に終わる。
第二次合戦
天文14年 (1545) 9月、松平広忠は安祥城の奪還で安祥城を攻めるが、織田信秀の救援によって撤退。
善恵坊の碑
敵中に一人打って出て狙撃され戦死した法師の碑が三の丸に建っている。
勢井畷 (清畷)
戦いは安祥城の近くの勢井畷 (清畷) と呼ばれていた所が中心であった。
本多忠豊墓碑
この戦闘で本多忠勝の祖父の本多忠豊が劣勢の中、松平広忠の馬印を掲げ敵陣に乗り込み戦死。松平広忠はその間に落ち延びた。
天文16年 (1547) 信長の初陣。那古野城を発った信長は吉良大浜を攻め、所々に放火し、翌日帰城した。
第三次合戦
天文17年 (1548) 3月、今川義元は安祥城奪還の為、太原崇孚率いる大軍を三河に送り、織田氏の出城である山崎砦を落とす。 織田信秀は安祥城救援のため、17日に出兵。 19日に、小豆坂で今川軍と激突し敗北。 安祥城に息子の織田信広を残して尾張に撤退。
山崎城
織田方についた松平信孝が第一次合戦の後に岡崎城からの守りの為に築いた城。第三次合戦で今川・松平連合軍に攻められ落城。城跡には山崎神明社が建っている。神社の周りに土塁と堀らしき物がある。当時からあるのかどうかは不明。
天文18 (1549) 年3月、広忠が岡崎城で家臣によって暗殺される。松平氏を傘下にしていた今川義元が松平氏の完全掌握を目的として、松平軍との連合軍で織田信広の守る安祥城を太原崇孚率いる今川軍が包囲。信広は9ヶ月も粘ったが11月9日に落城。今川・松平連合軍の勝利となる。
本多忠高墓碑
この戦いで本多忠勝の父、忠高が戦死。本丸跡にある大乗寺の墓地に墓碑が建てられている。
この戦いで、安祥城の城主の織田信広 (信長の庶兄) が捕われ、織田の人質であった松平竹千代 (後の徳川家康) と人質交換となり、竹千代は今川の駿府城へ人質として移された。安城にある秋葉公園でこの人質交換が行われたと伝えられている場所がある。
西野 秋葉公園
この池の辺りで竹千代 (後の徳川家康) との人質交換がなされたと言われている。ここは通ったのだが、写真を撮るのを忘れてしまった。写真はインターネットから借用。
筒井泉跡
人質交換の後、竹千代が岡崎城へ帰還の途中でここで休み、この井戸の水を飲んだと伝わっている。
その後、1560年に今川義元が桶狭間で戦死し、織田氏と松平氏は同盟を結び、安祥城は廃城になった。
保科正直邸址
安祥城合戦とは関係は無いのだが、武田、北条の家臣だった保科正直が後に家康に仕え、ここに館を構えていた。今は寺になっている。
この安祥城で当主であった松平家で上で掲載しなかった人物も参考に載せておく。
安城の見学を終え、旧東海道に戻る。安城で雨が強くなり、昼食も含め1時間程雨宿りをしたので、日没まであまり時間か無い。次の宿場まで見学を済ます事は難しそうだ。見れない所は明日もう一度訪問すれば良い。
元禄の道標
元禄時代に建てられた道標。在原業平所縁の地への道を示している。
来迎寺一里塚
東海道84番目の一里塚。綺麗な塚に松が生えている。これは昔から残っているもの。両方揃って現存しているものは少ない。
この後、知立に入り3ヶ所訪れた時点で日没。結局、池鯉鮒宿までは見れなかった。今日見た三つの史跡については明日訪れる池鯉鮒宿のレポートに含める事にする。