論語読みの論語知らず【第19回】「徳 孤ならず」
アメリカの高視聴率ドラマ「ウォーキングデッド」。原因不明のウィルスに感染して、本能のままに生きた人間の肉を貪る圧倒的多数のゾンビ VS まだ生きている少数の人類という単純明快な構図だ。そこでは文明や国家は崩壊しており、わずかに残っている人類コミュニティは互いに協力し合いながら和気あいあい・・・とはまったくいかないのだ。外部にゾンビという脅威にさらされながらも、人類コミュニティは互いに敵対して陰惨な戦いを繰り返す。(ゾンビはゾンビ、人類は人類でそれぞれが別々に幸せにくらしました、ではドラマにならない)秩序や倫理がどこかへと吹っ飛んだ世界、わかりやすい弱肉強食がルールとなる。こんな状態では一人の人間が人徳を持っていたところで、ただの無力のお人好しですぐに食いものにされて意味をなさないのか。論語にこんな一文がある。
「子曰く、徳 孤ならず、必ず隣有り」(里仁篇4-25)
【現代語訳】
老先生の教え。人格のすぐれている人(徳)は、決してひとりではない。必ず(その人を慕ってそのまわりに)人が集まってくる。
ウォーキングデッドの世界ほど陰惨ではないにしても、孔子が生きた時代もまた波乱続きであった。王朝は衰退無視され、諸侯は覇権をめざして戦争が絶えず、弱肉強食の論理のもと小国は大国に次々と併呑されていった。孔子はこの時勢にあって、徳をもって立ち、秩序を復旧することを目指し教化につとめた。その歩みはこれまでものコラムでも何度か触れたが、目に見える政治的実績としては中途で挫折することになった。
人徳をもって立ち、その人が優れた人物だと噂をきいて人が慕って集まってくる。それが少数のうちはきわめて親密な付き合いが可能で、尊敬と信頼が作用して純度が高い状態でコミュニティの運営が可能だろう。それが次第に大人数になってくるとき、どうしても純度が下がり、秩序を保つために組織化を迫られることになる。集まってくる者たちも、純粋にその人を慕う者、その人を慕うことで何かメリットや利益を期待する者たちなど幅広くなる。
事実、孔子のもとには「史記」に名をのこしたような常に師である孔子とともに道を求め続けた弟子がいたのと同時に、孔子の下で知識を学び、それでもってどこかの国で官職につくことを期待する弟子たちが数多いたのも事実だ。「本心から徳を求める者」、「徳を求めつつ、利を求めるもの」、「本心では利のみを強く求める者」のなかで、孔子はかなり苦しんだと思っている。そして、その苦しみは一学団(私塾)を率いた教育者としての立場でいるときよりも、魯国の大臣という立場にいたときのほうがより一層きつかったことだろう。私塾では去りたいものは去ればよいというスタイルで運営できても、まさか国政でそんなことはいえない。政(まつりごと)を安定させるために、人々の欲に配慮した実利をもたらすことは必要で、次第に道徳的妥協を強いられる。
たとえそんな毎日でも、「徳孤ならず必ず隣あり」とした所以は、有徳の者は、有徳となりえる人と隣り合って生きて、その手本とならねばならないと自らに喝破した信念の言葉なのだろう。徳を求めることを失えば、人はただの生きた屍となる。生きた屍が蠢く世にあっても、有徳を志す者は連携し、たとえ小さくともそれらを照らすトモシビたれという力強い一文のように思うのだ。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。