論語読みの論語知らず【第29回】「小人の過つや 必ずかざる」
人が第三者を率いて何かしらの物事やプロジェクトを行うとき、成功の鍵の一つは「論理」と「情理」のバランスをうまく保つことにあると思う。どちらかに過度に偏るとだいたいが失敗におわるか、どうにか終えたとしても、そこに至るまで多くの紆余曲折をみることになる。「論理」に過度に偏れば、それが鋭いナイフの如きシャープなものであるほどに、「理屈っぽい!」として拒否され、「情理」に過度に偏れば、「いまどき義理人情ですか?」と揶揄されるのはよくあることだ。適度に中庸を保つことができればよいがこれがなかなか難しく、失敗に直面したものは弁明もしくは言い訳に終始させられることがある。論語に「言い訳」を巡ってこんな言葉がある。
「子夏曰く、小人の過つや、必ず文(かざ)る」(子張篇19-8)
【現代語訳】
子夏のことば。知識人は過失があると、必ず言いわけをする(加地伸行訳)
「言い訳ばかりして」とか「言い訳なんか聞きたくないね」というセリフは巷でよく行き交う。筆者は年齢を重ねるにつれていつの頃からか、言い訳をするよりも、言い訳をされることのほうが多くなった。いまは、なるべく「そんなの言い訳だ!」と一言でバッサリ終わらせるようなことはしないことにしている。じっくり「言い訳」を聞くスタイルで、その妥当性をどのくらい割り引くかの判断は意外と辛抱が要求される。
「論理」と「情理」を常にバランスよく中庸を保てる人がそうそういるわけでもなく、たいていの人がどちらかのほうに程度の差こそあれ傾く。論理に強い人間の言い訳は、多くはコトバが巧で、文章も上手で論理的だから、聞く側として「言い訳」の論点整理自体は楽ができる。だが、言い訳の論理が巧であるからといってそれが全体を語っているわけでもない。むしろ「言い訳」モデルのなかで捨象され、そもそも根本的に語られてないこと、触れられてないことを炙り出す作業を、筆者は弁明を聞きながら頭のなかで並行して行っている。あくまでも筆者の経験知の範囲だが、語られてないこと、触れられてないことのなかに言い訳の核心がある、そんなことが多いように感じている。
一方で、「情理」に傾く人の「言い訳」は弁明が進むにつれて感情的になることも多く、必ずしも論理的にならないことがある。こんなときは無理に論点整理する作業はしないで、むしろ「言い訳」のなかで鍵となる言葉を探すようにしている。そして、このキーワードが本人も意識せずして深いところでは拗らせていることもよくあるようだ。
たとえば「私は皆のことを思ってこうしたんです」が、実のところ、「自分のことをカッコよく見せたかったんです」と正反対になっている場合もある。ただ、聞く側がこれに気づいて、それをバッサリ、はっきりと指摘して解決するかといえばなかなかそうもいかないのが世の常だ。相手を慮るからこそ対処の仕方は時と場合によって変わってしまう。それこそ智恵の働かせどころなのだ。
結局、「言い訳」に終始するのは過度な自尊心によるところに原因の一つだとは思う。カタチの上で「僕が間違っておりました」「私が悪うございました」を言えても、心からそれを言うことが年齢や立場とともに難しくなるものだなどと知った風なことは言いたくない。ただ、「過つや 必ず文(かざ)る」のは他者にしているようで、結局は自分に対して言い訳を積み続けることになる。自分に積み続けるその負荷を負荷として感じることができるうちに道を改められることが出来たならまだ間に合うと思うのだ。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。