論語読みの論語知らず【第32回】「必ずや訴え無から使めんか」
孔子自身が本当にイタイ思いを経験して、自らを省みて、その肚から出た言葉なのではないか。論語をたびたび読み返していると、ふとそういう思いに至る言葉に出会う。その一つが次のものだ。
「子曰く、訟えを聴くは、吾猶人のごとし。必ずや訟え無から使めんか」(顔淵篇12-13)
【現代語訳】
老先生の教え。訴訟を処理する能力は、私は他人と同じだ。(もし違うとすれば)訴訟を起こすことがないように(政治を)するという点か(加地伸行訳)
たとえば、「実務能力」で仕事をしていくのか、「政治力」で仕事をしていくのか。単純にこう分けてみたい。人が仕事をしていくなかで、端境期とでも表現しようか、ふたつを入れ替えるスイッチの存在を知る人(知らされる人)と、知らないで済む人がいるのだと思う。ワード、エクセル、パワポを多彩に駆使でき、計数感覚と論理力、プレゼン力に長けて、事例と業務知識に通じ、与えられた目標・ミッションからぶれることがない。こんな人は能吏とよばれて普通は着実に出世していく。企業でいえば課長、部長、役員と順調に階段をのぼり、時勢によってはそのまま社長のポストを射止めることも不可能ではない。培われてきた「実務能力」でもって、マネジメントの要点をうまく押さえれば在任中を大過なく終え、身を引くことは可能かもしれない。この場合、それが当人にとって幸運かどうかはさておき、「政治力」を知らないで済む。一方で、同じく実務能力に精通していても、政治力とのスイッチを知る(知らされる)とはどのような場合だろうか。ひとつは、組織などに従来から受け継がれて来た目的やミッションとは別に、新たにそれらを生み出す側に立ったときにそれは起きるのかもしれない。
孔子は50歳を過ぎて母国の「魯」で「大司寇」(法務大臣や最高裁長官相当)というポストに就いた。このポストに引き上げられたのは、孔子の実務能力が高く、それをもってして隣国である「斉」との外交交渉を成功させるという功績を評価されたからだった。大司寇の地位についた孔子は、君主である定公の君権を強化し、理想とする政治を行うための大改革を目的として掲げた。一方、当時、魯の定公は、三桓氏と呼ばれる孟孫氏、叔孫氏、季孫氏に有力貴族によって下克上の圧迫をつねに受け続ける弱い存在でもあった。孔子はこれを仁義に反するとし、三桓の勢力を弱めて粛清をしようとするも、最後は三桓の抵抗で失敗し、その地位を追われ失脚する。孔子は、掲げた高邁な目的、定公の器量、三桓の実力の三つ巴の戦いに苦しんだものと思う。
実際に大改革を始めてみれば、それは三桓の既得権益を害すことになり、面従腹背、サボタージュ、そして、反逆へと帰結していく。思い知らされたのは、人には、高邁な理念に賛同する部分、自分の利益に固執する部分の狭間で常に揺らぐことと、そして、それらを陰に陽にといかに巧に調整するかの政治力の必要性だろう。こういうとなにやら権謀術数を駆使しつつ権益配分への配慮することだけが政治力のように聞こえる。それも一つの定義かもしれない。
ただ、政治が政・祭事(まつりごと)に遡ることを考えればもっと深遠さがあってもよい。ただそれがどこまで共有できるかは、「お仕え」する相手、「お使い」する相手の器量次第。それを見極めて、手を差し伸べるか、共に手を握り合うべきか、己の手を合わせ祈ることだけで素通りするかの分岐点がある。孔子はイタイ失脚を機にこんな感覚を鋭敏に秘め、人とのコンフリクトを治めたように思うのだ。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。