論語読みの論語知らず【第33回】「言義におよばず」
あるカフェで男子大学生とおぼしき二人が向き合って座り、チョコレートたっぷりの飲み物を片手に持ち、スマホを器用にいじりながらおしゃべりをしていた。その日、私は長年使い込んだ携帯音楽プレイヤーが壊れてしまっており、しかたなく音楽なしでコーヒーを飲み、彼らの隣の席で読書をしていた。人様の会話に側耳たてる趣味などまったくない。それでも勝手に耳に入ってくるトピックは仮想通貨でいかに儲けたか、今後はどの金融商品が狙い目であるか・・・彼らは真剣に談義していた。およそ2時間の滞在時間、真面目に聞いていたわけではないから確信はもてないが、話題は一度、就職活動をバカらしいと揶揄する以外、おおむね金儲け周辺を循環していたように思う。論語にこんな一文がある。
「子曰く、羣居(ぐんきょ)すること終日、言 義に及ばず、好んで小慧(しょうけい)を行う。難いかな」(衛霊公篇15-17)
【現代語訳】
老先生の批判。群れて一日中(雑談し)、話す中身に道徳論(義)はなく、小才をめぐらす話ばかりに熱中している。(これでは教養人になるのは)難しいな(加地伸行訳)
ネット社会はいろいろなハードルを下げたことだけは間違いないかもしれない。私が大学生のときにはすでに携帯はあったが、まだ通話とメールが主たる機能で、携帯でできることは限られていた。いまはスマホがあれば、年代に関係なく求める情報や知識へのアクセス、市場への参加などはかなり自由にできてしまう。卑近な例だろうが、少し前のウィキペディアがなかった時代、何かを知りたければ、物知り顔の大人に多少面倒でも礼儀を守って知識を聞き出すか、図書館に行ってかび臭くも権威張った百科事典を紐解くくらいしかなかった。だがいまではある程度の知識は数秒で検索できる。
過去に存在した「手続き」が効率化されたおかげで、若年層は知識を得て、それをもとに自らが欲するアクションをおこすことに、過去の世代が体験した苦労は求められない。一方の熟年層、一般的に、スマホやPCを巧みに素早く使いこなし、知識を得て行動に移していくことついては若年層に比べて旗色が悪い。ところで冒頭の大学生の2人組だが、「00コインが云々」と一生懸命金儲けに話に熱心だったが、儲けたお金を何につかうのかという話には一切発展しなかったように思う。お金を儲ける目的とは何か・・・ウィキペディアは答えてくれない。
さてここらで「知識」ではなく、「智恵」の登場となってくる。「智恵」は熟年層の専売特許?で今度こそは、「乃公出でずんば」と思いきや、いたずらに摩擦や炎上を忌避してなのか、はたまた慎み深いのか、そうした流れが主流にはならない。話は文字通り思い切り飛ぶが、「天文」を学べば宇宙が絶妙なバランスで成り立っていることを知る。ただ、そのバランスも静止しているわけではなく、常に「寄り添う」力と「突き放す」力が作用して動き続けている。牽強付会かもしれないが、熟年層と若年層、寄り添いと突き放しが適度に働いてこそ良いような気がするが、いまは突き放しあう力が妙に強い時期なのだろうか。
さて、こんなことを書く私は、どちらの世代に入るかをそろそろきちんと自覚して、宇宙の片隅のさらに片隅で小さく行動しなければと思う。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。