「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」7 アンドレイ公爵③
アンドレイの成長、自己変革はアウステルリッツの戦いで重傷を負った時から始まる。有名なシーン。
「『これはどうしたのだ?おれは倒れるのか?足をすくわれたようだ』こう思いながら、彼はあおむけに倒れた。彼は、フランス兵たちと味方の砲兵たちの肉弾戦がどのような結果に終わったか、赤毛の砲兵が刺し殺されたかどうか、砲が奪取されたか、それとも救われたか、見たいと思って目を開けた。しかし彼には何も見えなかった。彼の頭上には、空のほかは、―――灰色の雲がゆるやかにわたっている。明るくはないが、やはり無限に深い、高い空のほかは、もう何も見えなかった。『なんというしずけさだろう、なんという平和だろう、なんという荘厳さだろう、おれが走っていたときとは、なんという相違だろう』とアンドレイ公爵は考えた。『おれたちが走ったり、叫んだり、戦ったりしていたときとは、なんという相違だ。フランス兵とロシア砲兵が恐怖と憎悪に顔をゆがめて洗杆の奪い合いをしていたときとは、なんという相違だ、―――あのときはこの無限に高い空をこんなふうに雲がわたってはいなかった。どうしておれはこれまでこの高い大空に気がつかなかったのか?やっとこの大空に気がついて、おれはなんという幸福だろう。そうだ!この無限の大空のほかは、すべてが空虚だ、すべてが欺瞞だ。この大空以外は、何もない、何ひとつ存在しないのだ。だが、それすらも存在しない、しずけさと平和以外は、何もない。おお、神よ、栄あれ!・・・・』」
アンドレイは、軍旗の柄をにぎりしめたまま倒れた場所に、血に染まったまま横たわっていた。そこに、2人の副官を従えたナポレオンがやってくる。アンドレイがそれまであこがれていたナポレオンは、彼を見ながら「〈見よ、あっぱれな最後だ〉」と言う。アンドレイは、それがナポレオンの声だとさとるが、その声に関心を持たなかったばかりか、心にとめもしないうちに、すぐに忘れてしまう。
「彼は頭が焼かれるように痛かった。彼は全身の血が失われてゆくのを感じた。そして自分の上に遠い、高い、永遠の蒼穹を見ていた。彼は、それが自分の憧れの英雄ナポレオンであることを、知っていた。しかしいまは、自分の魂と、はるかに流れる雲を浮かべたこの高い無限の蒼穹との間に生まれたものに比べて、ナポレオンがあまりにも小さい、無に等しい人間に思われたのだった。いまは、だれが彼のかたわらに立とうが、彼のことをどう言おうが、彼にはまったくどうでもよかった。彼はただ自分のそばにだれかが足を止めてくれたことだけがうれしかった、そしてその人々が自分を助けて、自分を生活へ―――いまこそその解釈をすっかり変えたので、限りなく美しいものに思われた生活へ―――戻してくれることだけを渇望していた。」
彼の呻き声にナポレオンが気づき、担架に乗せて病院に運ばれることになる。その途中で、再びナポレオンと会い、「気分はどうかな、きみ?」と言葉をかけられる。
「アンドレイ公爵は、・・・ひたとナポレオンの顔に目を注いだまま、黙りこくっていた・・・いまの彼には、彼がしっかり目におさめて、そして理解した、あの高い、正しい、美しい大空に比べたら、ナポレオンの心を占めているあらゆる利害が、いかにもむなしいものに思われ、このちっぽけな虚栄心と勝利の喜びに酔っている彼の憧れの英雄自身も、いかにも小さな人間に思われた、―――そのために彼は返事をすることができなかったのである。
それに、血が失われたための衰弱と、苦痛と、目前の死を待つ心が、彼の内部に目覚めさせたあの荘厳な思想に比べたら、すべてがあまりにも無益で、無価値なものに思われた。ナポレオンの目を見つめながら、アンドレイ公爵は権力のむなしさ、だれもその意義を理解しえなかった人生のむなしさ、そしてさらに生者のだれもその意義を、理解も解明もなしえなかった死の大きなむなしさを、考えていた。」
ナポレオンは返事を待たずに、丁重に扱い、侍医に傷の手当てをさせるよう指示し、「自己満足と幸福の輝き」を顔に浮かべ去っていった。
「戦争と平和」(2007年、イタリアほか合作)アンドレイ アウステルリッツの戦い
「戦争と平和」(2007年、イタリアほか合作)アンドレイ、ナターシャ、ピエール
「戦争と平和」(2007年、イタリアほか合作)アンドレイ
イリヤ・レーピン「トルストイ 1887年」トルチャコフ美術館