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Kazu Bike Journey

Tokaido 東海道 31 (29/11/19) Narumi Shuku 鳴海宿/桶狭間合戦

2019.11.29 15:13

桶狭間合戦

(40) Narumi Shuku 鳴海宿

今日は桶狭間の古戦場を訪問し鳴海宿を通り名古屋の南まで進む予定。東海道の史跡と桶狭間合戦の史跡を分けて記載する事にする。

桶狭間合戦

永禄3年5月19日 (1560年6月12日) に尾張国桶狭間で行われた合戦。2万5千人の大軍を率いて尾張東部に侵攻した駿河の今川義元に対し、尾張の織田信長が少数の軍勢 (総勢で3千-5千と言われている) で本陣を奇襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた。これにより織田信長の天下取りが始まる。

戦人塚

いよいよここから桶狭間合戦の史跡巡りが始まる。ここは豊明市仙人という場所にある。桶狭間合戦場の一部と伝えられている。この合戦で亡くなった今川軍兵士2500人をこの近くにある曹源寺の住職が塚を造り弔った説と織田信長が今川軍の死者の遺骸をここに埋めた説がある。

戦人が地名としては仙人に変わっている。どのような経緯があるのだろう。

ここから桶狭間方面を見る。

桶狭間古戦場伝説地

ここが桶狭間古戦場と伝わっている所。昭和12年に文化庁が、江戸時代から今川義元本陣跡と戦死場所と伝わるこの地をを調査し、古文書・古地図等を検討の上、国指定史跡に指定したという。ただ、伝説地とあるので完全に検証はまだされていないのであろう。

桶狭七石表

この古戦場跡には桶狭七石表なる物がある。今川義元やその家臣が討死した地点に石標が建っている。これ程詳しく、どうやって知り得たのか不思議ではあるが、明和8年 (1771) に尾張藩士の人見弥衛門と林孫七郎により建立されたというからかなり古い。桶狭間合戦が1560 年なので、約200年を経て建てられている。何故建てたのかその動機に興味があるが、調べても出てこなかった。石標は全部で7つある。それぞれに番号が振られており、1号は今川義元が討たれた場所。2号は松井八郎塚云五郎八のもので高徳院の墓地にある。3号から7号までは氏名不明。これも少し気になる。この戦いで今川勢は2500人もの戦死者を出している。その中で何故名前不詳の5名の碑を建てたのか?義元が討たれた場所に五人だけいたとは考えられない。場所まで特定している。200年前の事。少し違和感ある。

1号 今川義元討死地

2号 松井宗信の碑と墓

3号から7号は「士隊将塚」と書かれ、名は無い。

今川義元の墓碑

ここに今川義元の墓がある。討ち取られた義元の首は今川方の鳴海城 城主の岡部元信が開城との引き換えに義元の首を受け取り駿河に帰った事になっている。誰がこの墓を建てたのであろうか? 案内板によると300年も経った明治9年 (1876) に有松の住人 山口正義が建立したとある。遺骨も何もない墓だろう。だから墓碑となっている。墓の横に「駒つなぎのねず」 (写真左下) がある。この木に馬をつなぎ、酒宴を催していた。その時に豪雨、豪雷となり信長の奇襲を受ける事になった。

今川義元仏式の墓

ここにもう一つ義元の墓がある。これも義元300回忌で建てられたと書いてある。記念碑の様なものだ。

おばけ地蔵

この隣におばけ地蔵と呼ばれている地蔵がある。この地におばけが出るという噂があり、江戸時代にこの地蔵を置くとそれ以降で亡くなった。いわゆる神霊スポット。先程行った戦人塚も神霊スポットで霊が出るらしい。

徳本行者名号塔

浄土宗僧侶の徳本が今川と織田の戦死者を弔うために建てた塔。これも200年以上経ってからのもの。200年以上も経ってもこの桶狭間合戦が風化していない。歴史が学問となっている現代では皆が知りえるが、昔はそうでは無かっただろう。それほど大きな出来事として語り継がれていたのだ。

高徳院

道路を挟んで高徳院という寺があり、今川義元の本陣が置かれていた所。ここで休息を取っていた所を急襲された。本陣跡から義元戦死の場所までは僅か50m程だ。この史跡が正しければ、ほとんど逃げる暇もなく、うたれたという事になる。良くドラマで描かれているのはこんな状況。本陣で酒宴を催し、豪雨になり、兵士も酒で酔いが回り気が抜けている。そこに信長軍が急襲。義元は逃げようとするがすぐに討ち取られた。これが我々がテレビや映画から受けているイメージ。この高徳院の本陣と桶狭間古戦場伝説地、それにこの後行く信長坂はこのテレビドラマと符号し、訪れる人に「成る程、テレビで見た通りだ」と満足感を与えてくれる。

信長坂 (釜ヶ谷)

織田軍が桶狭間に攻め込む前にこの坂を駆け上がり機を伺っていた所。

仏塔が見える所が今川軍本陣で、ここからは直ぐの所だ。ここから一気に駆け下り急襲した。

七ツ塚

桶狭間合戦の勝利の直後に討死した兵士の埋葬を村人に頼んで造らせた塚。

桶狭間古戦場公園

ここにも今川義元が討死した場所がある。ここも桶狭間古戦場となっている。 先程訪れた場所にもあった。二度死んだ? 昔の出来事故、確かなことは分からないのだろうが、ここだとするとかなり敗走して討ち取られた事になる。

今川義元討死の碑

この公園の面白いところは桶狭間古戦場を中心とした今川軍と織田軍の進行をジオラマ建てで作られている所。良く出来ている。

瀬名氏俊陣跡

今川義元がこの地に着陣する前日に瀬名氏俊がここに陣をはり、本陣や各隊の縄張りを準備していた。

井伊直盛陣跡

今川軍先陣の井伊直盛が兵1500を従え、陣をここに構えたと言われている。

高根山 (松井宗信陣)

高根山はこの辺りでは一番高い場所で、今川の先陣の松井宗信陣が兵1000人で陣を構え、織田軍の佐々政次と千秋季忠の軍を破った。写真の布陣図にもある様に桶狭間には織田本隊が別ルートで攻めている。

今川義元戦評の松

瀬名氏俊の陣の前には池があり、その対岸で軍議を行った場所で、松が生えていた。

おけはざま山

ここに今川義元の本陣があったとされている。先程訪れた高徳院にも本陣跡があった。桶狭間古戦場は二つの説があるのだろう。先に訪れたところも伝説地としていた。二つの説がそれぞれ史跡を整備している。お互いにもう一つの古戦場には極力触れないような案内板になっている。それ程、歴史上画期的な出来事で、観光の素材にはうってつけなのだろう。このまま真の古戦場が分からなければ平和だろうが、解明されると片方はどうするのだろう。このまま謎でもいいかな。

二つの桶狭間古戦場を見たが、個人的には桶狭間古戦場公園の方が史実に近いのではと思える。それはその近辺に関連する史跡が多い事から桶狭間合戦の前後まで見えて来る。始めに訪れた桶狭間古戦場伝説地は関連史跡に乏しい。想像だが、江戸時代にもこの桶狭間古戦場は観光スポットだったと思う。桶狭間古戦場伝説地は旧東海道の脇にあり、旅人が簡単に訪れる事ができて、色々と町おこしには都合が良かったのではないだろうか? 桶狭間古戦場伝説地は文部省認定の地で引くに引けないのでは? 桶狭間古戦場公園派はこれに遠慮しているのではと推測している。

今川軍に対して信長は三つの砦を築いていた。丹下砦、善照寺砦と中島砦。織田軍は桶狭間へ向かうルートはこの三つの砦を通っている。訪れた順番は信長の行軍とは逆になった。信長の行軍の順番で掲載する。

丹下砦

小高い丘に築かれていた。現在は光明禅寺の敷地内にあり、上は畑になっていた。熱田神宮で戦勝祈願をした織田軍がまず入ったのがこの丹下砦で水野帯刀を布陣させていた。

光明禅寺の山門には仁王像ではなく、風神と雷神が門を守っている。浅草の浅草寺にも風神雷神門があった。どういう訳で仁王像でなく風神雷神にしたのだろうか? 昔からそうだったのだろうか?

善照寺砦

丹下砦を出た織田軍が次に入ったのがこの善照寺砦。ここを守っていたのが佐久間信盛。

中島砦

次いで入ったのが中島砦。ここには梶川高秀が布陣していた。ここから二手に分かれる。信長本軍は西回りで桶狭間に向けて進軍。佐々政次と千秋季忠の別働隊は先に訪れた高根山を目指す。砦は住宅街となり、石碑が建っているのみ。

鳴海城跡

この戦国時代の初期には今川氏は松平氏の弱体化でのちの徳川家康も人質で実質上三河は今川の傘下であった。尾張は織田一族の内紛もあり、三河同様に弱体化していた。地図で見る様に尾張の幾つかの城は今川におさえられていた。この鳴海城も今川側の城であった。上で説明した三つの砦はこの鳴海城の今川勢の抑えとして築かれていた。

今川義元が桶狭間で討ち取られた後も尾張の今川方の城は抵抗を続けていた。この鳴海城もその一つで、岡部元信以下が踏み留まってついに落城しなかった。元信は織田信長と交渉し、今川義元の首級と引き換えに開城。駿河に帰る途上にある三河刈谷城を攻略して水野信近を討ち取るなどし、義元の首を携えて駿河に帰国。現在、城跡は鳴海城跡公園となっている。

長福寺

桶狭間合戦が終結した後に、織田信長はこの池の辺りにある長福寺で今川義元の首実検を行ったと言われる。

寺には池がありそこで戦闘で血のついた刀を洗ったという事でこの池は「血刀濯ぎの池」とよばれた。

(40) Narumi Shuku 鳴海宿

鳴海宿は東海道40番の宿場で池鯉鮒宿から 2里30町 (11.1km) の距離。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠68軒、戸数847戸、人口3,643人。

安藤広重が描く鳴海宿は実は鳴海宿と池鯉鮒宿の間にある間の宿の有松を描いている。開いている店は今でも有名な有松絞りを売る店

旧東海道道筋道標

まだ鳴海宿には距離があるが、道標なる物がある。旅人が道に迷わないよう、そして分岐点がはっきり分かるように設置されていた。

間の宿 有松宿

今まで東海道を走って来たが、昔ながらの街道をこれ程感じられる所は無かった。伝統的な家の造りを今でも保存地区に指定して保っている。

有松絞りの提灯が店先に飾ってある。

有松一里塚

日本橋から数えて87番目の一里塚。少し現代的にモニュメントを造っている。

平部町常夜燈

鳴海宿の東の入り口に置かれた常夜燈

中島橋

ここを渡ると鳴海宿。

瑞泉寺

この寺は小高い丘にあり、山門は江戸時代の旅人の目印になったそうだ。この山門は、切妻屋根の中央部が上方に突き上がった、宇治の万福寺の惣門を模したもの。

鳴海宿高札場

高札場が復元されている。

誓願寺

鎌倉幕府を開いた源頼朝の生誕地。源頼朝の母の由良御前は熱田大宮司家の娘で、実家である熱田で頼朝を出産したと伝わっている。その他、境内に芭蕉ゆかりの供養塔や御堂もある。

鳴海本陣

表示のみ。有松宿と比べると、宿場町の保存とか継承には力を入れていない様に思える。有松を見た後なので余計に貧弱に見える。

丹下町常夜燈

鳴海宿の西の入り口に置かれた常夜燈

笠寺一里塚

88番目のみ一里塚。日本橋から352km迄来た事になる。今までに実際の走行距離は1000km近くなっている。寄り道の方がはるかに多い様だ。

笠覆寺 (りゅうふくじ)

尾張四観音の一つ。天平5年(733年、一説には天平8年)、お告げにより、僧・善光が浜辺に漂着した不思議な光を放つ木で、十一面観音像を刻んで安置し、小松寺と名付けた。百数十年が過ぎ、荒れ果てた観音像に、自分の笠をかぶせた心優しい娘をみそめた藤原兼平は彼女を妻とし、寺を復興、笠覆寺と改めた。以後、笠寺観音と呼びならわされ、笠寺の地名の起こりとなった。


竹千代の人質交換の地の碑が立っている。一昨日に安祥城を訪れた際に人質交換の地があった。随分と距離が離れている。どちらが正しいのだろうか? 両方とも確かで無いかもしれない。真偽はそれ程重要では無いだろう。それよりもその様な言い伝えが残っているのが面白い。

武蔵の弟子によって建立された顕彰碑がある。武蔵は尾張藩に士官を期待して3年ほど滞在していた。

もうそろそろ日が暮れるので、急ぎ宿に向かう。