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株式会社 陽雄

論語読みの論語知らず【第46回】「慎む所は、斎・戦・疾なり」

2019.11.29 08:00

とある歴史学会の研究発表の席でのことだった。ある若手研究者がこんな話をはじめた。「司馬遼太郎さんが言い出したことですが、明治時代に日本陸軍を鍛え上げるためにドイツから派遣されていたメッケル少佐は、かつての関ヶ原の戦いの布陣図をみて、即座に「西軍(石田方)の勝ち」だといったとされる。理由として、西軍の布陣は小高い山々などに依拠しており、東軍(徳川方)を誘い込んでこれを包囲して撃滅できる態勢にあるからだと説明したという・・・実はこのメッケル少佐がこう言ったとされるエピソードは真っ赤な嘘です」
このとき聴講者や参加者たちの間から少なからず驚きの声があがったのを覚えている。実際のところやはり作り話のようだ。メッケル少佐は明治18年から21年までの4年間日本にいたが、そのとき彼が触れることができた史料では、東軍や西軍の具体的な配置がわかる布陣図などは結局のところ存在しなかったからだ。


関ケ原の戦いに限らず、日本史のなかでわりあい有名な戦いでも具体的にどんな配置と陣形で戦われたかを知る史料は恐ろしく少ない。したがって、日本史ファンはたくさんいるが、有名な合戦でも武将たちがどのような戦いを展開したのかを具体的にイメージできる人はさほど多くはないだろう。できたとしても、多くが通説に基づいて作られた映画やドラマなどの合戦シーンをもとにイメージする場合がほとんどなのかもしれない。
たとえば、武田信玄と上杉謙信が激突した川中島の戦い。かつて角川春樹が大金を投入して撮影した映画「天と地と」では、「車懸り」(くるまがかり)の陣(タイヤが回転するように部隊全体が廻りつつ進み、敵と交戦した際には、味方が次々と交代して敵にあたり続ける)と「鶴翼」(かくよく)の陣(V字形に展開して迎え撃つ陣形)とのぶつかりあいとして描かれていた。カナダをロケ地に選んでいるから、広大なところで大部隊どうし異なる陣形でのぶつかり合いを一大スペクタクルとして演出している。


見世物としては壮大だ。だが、これも陣形自体の有無などを含めてかなり嘘と誇張で固められている可能性が高いのだ。国体のマスゲームや秋の大運動会の出し物ならばともかく、リアリティとしては整えられた陣形でもって整然と戦が起きたわけではないようだ。実のところ伝える史料にとぼしく、後世にイメージを膨らませてつくられてしまった虚像を見せられていることが結構多い。
こうした原因の一つは、歴史学と軍事学が分断されてしまい、中近世軍事史なども真剣かつ学術的に研究する人が限られてしまったことだろう。いわゆる軍事アレルギーがいまでも日本にどのくらい残っていて、戦争の中身を考えること自体を忌避するものなのかよくわからないが、少なくとも生々しい合戦のリアリティに虚像のフィルターを重ね、ただの見世物を観るかの如く慣れてしまうのは良いとは思えない。今少し真剣にとらえるべき領域のようにも思うのだ。論語にこんな言葉がある。


「子の慎む所は、斎・戦・疾なり」(述而篇7ー12)


【現代語訳】

老先生が粛然とされるのは、祭祀・戦争・疾病(つまり死)のときであった(加地伸行訳)


粛然とは「何の物音もしない静かなさま」を意味する。この一文から中原(中国)のどこかで戦が起きたと聞けば、戦争の本質をしっかりと静かに押し黙って考えた孔子の姿を想起してしまう。そして、中世、近世に限定せずに、戦争とは何かを粛然として考え捉えておくことが大切な気がするのだ。

拙著「「失敗の本質」と戦略思想~孫子・クラウゼヴィッツで読み解く日本軍の敗因」(ちくま新書)が12月5日に出版され店頭に並ぶ。本のなかでも率直に触れているが、『孫子』『戦争論』でもって『失敗の本質』に再アプローチすることは、この国の未来のためには大切だと信じている。無論、日本が戦争の惨禍をこれから先は経験しないことを切に願っている。「戦わずして勝つ」こそが鉄則であるが、そのためにいかに「戦って勝つ」かを知り抜き備えておくべきなのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。