俳句療法・プロダクティブな氣持ちを持って生きるようになる
日野原重明『百歳からの俳句創め』富嶽出版
初御空我上り坂米寿越え 日野原重明
カンナの緋わがからだにぞもえるショパン 同
癌を病む若もの診たあと星仰ぐ 同
あやまちを犯した傷をゆるし合おう 同
さっそうと揺れるコスモス風のまゝ 同
滋賀の里琵琶湖にかかる虹の橋 同
https://blog.goo.ne.jp/kaeru-23/e/52b3c97d924f9413430c69e9fa0f5dd8
【90歳代からの俳句】より
俳句をはじめて、何が変わったことはありますか?の問いへの日野原先生の答えは
「俳句を作ることは自分の支えになる。生きがいを起こすし、ポジティブになる。いつもならぼやーっと見ているような景色でも、ああ、来月の句会には出さなくちゃならないと思うと、手帳を開いて、ちょちょっとテーマを、音楽でいえばモチーフを三小節くらい書くとか、そういうプロダクティブな気持ちを持って生きるようになる。先ほど音楽療法の話をしましたが、短い俳句の中にも似たような効果があると思います。」です。
私たちは左脳中心の世界で 本来持って生まれた エネルギー感覚を失っています。
この感覚を回復することこそ「プロダクティブな気持ちを持って生きるようになる」大きな力ではないでしょうか?
エネルギー感覚を回復することこそ 魂感覚を取り戻し、集合無意識(アカシックレコード、ディバインタイム・地球の脳波)につながり「吾であり・宇宙である」実感を取り戻すことに繋がります。言葉でもって言葉を超える妙を体験できれば 分断が癒され、愛を回復することになるでしょう。
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6427876 表現することで孤独を超える・フォーカシング
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6728924 俳句の楽しみ
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6631979 俳句におけるトランスパーソナルな視点
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/2462096 瞑想のおすすめ
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/2969659 言葉の力
をご参照ください。
フォーカシングに関して 諸富先生は次のようにツイートしています。
諸富祥彦@morotomiyoshi
言葉を空転させることをやめて、絶えず、なまの実感に、照らし合わせて言葉をつむぐこと。自分自身に立ち戻る最良の道
諸富祥彦@morotomiyoshi
·精神分析の背景にある壮大な思想 と精神病理への深い理解 認知行動療論のサイエンス これらに対する人間性心理学の武器は「野性」!「なまの実感」「からだ」「内臓感覚」
諸富祥彦
諸富 祥彦は、日本の心理学者。博士。明治大学文学部教授。専攻は、カウンセリング心理学、心理療法、臨床心理学、学校カウンセリング、教師のサポート、人間性/トランスパーソナル心理学。Wikipedia
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/2970050 自分であるということ・意識を広げる瞑想
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/2969569 過去世とは?
もご参照ください。
https://www.jspm.ne.jp/newsletter/nl_78/nl780401.html 【俳句の力と緩和ケア】
大垣市民病院 地域医療連携部 緩和ケアセンターがん看護専門看護師 林 ひとみ(俳号:ケセラ・せら) より
当院では、がん患者さんやそのご家族が自由に語り合える場所として、2009年6月にがんサロン「なごみ庵」を開設した。現在は、タオル帽子作り、アレンジメントフラワー教室、疾患や療養生活に関するミニ勉強会、ちぎり絵教室、臨床心理士によるマインドフルネス、俳句教室など、多様なイベントを月曜の午後に開催している。
俳句教室が定着したのは2013年からで、俳句の講師の指導のもと、「三尺俳句教室・なごみ庵」がスタートした。「三尺俳句教室」という名称は、芭蕉が「俳諧は三尺の童にさせよ」と言ったことから、初心者向けの教室という意味があると聞いている。大垣は、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅を終えた「奥の細道むすびの地」。よって、俳句は比較的馴染み深い地域である。
患者さんと共に参加してみたものの、私は全くの初心者。その上、日常をふと立ち止まり、生活や自然環境に目を向けるといった風情が自分には欠けていることを自覚した。暑い時期、帰宅後の楽しみといえば冷えたビール!ということで、「ストレスも汗も吹き飛ぶ生ビール」と詠むのがやっとであった。
ところがそんな私でも、季節の変化・日常生活の些細な出来事を題材にして句を詠む楽しさを感じる様になり、「残業の疲れ癒すや虫の声」「意味もなくただただ悲しい秋の夕」なんて句を詠んでみたり。ゲリラ豪雨が多かった年の、「夕立に会ふ度増える安い傘」は、大垣市主催「奥の細道むすびの地 十六万市民投句」で特選をいただいた。とはいえ、先生方のような言葉のわびさびが利いた粋な句とはいえないが…。
「ひたすらに咲き散る桜、潔し」
4月のある日、風と共にいっせいに舞い散る桜を目にして、急に涙があふれてきた。病と向き合い病と共に生き切って人生を終えられた数々の患者さんの懐かしいお顔が、美しく舞い散る花びらに映り、泣けてきた。
句を詠む時には、先ずは肩の力を抜き、素直な心と五感で言葉を探し言葉を遊ぶ。とにもかくにも「俳句」は、今では私の重要な緩和ケアになっている。
さて、主役の患者さんやご家族の反応は如何かというと…。
参加されている患者さんやご家族の作品は秀逸で、時にはホロリと涙腺が緩む句もある。
「なぜ生きるどう生きるかと霙降る」
「小寒や今夜も涙の痺れ足」
「退院の二文字が俺の福寿草」
この句を詠まれた患者さんは、常に「死」と向き合いながら会に参加されていた。そして、「俳句はいい。句を作っているときは、痛みも何もかも忘れ、自分を省みることができる。」とおっしゃっていた。会への参加が困難な状況でも、ベッドの上で詠んだ作品をご家族が届けて下さった。
他の患者さん達も、俳句との出会いについて、しみじみとこう語られる。「病気や治療のことばかり考える日々は、正直気持ちが滅入ってしまう。それでも、悪戦苦闘しながら俳句を作っている時は、違う世界に心を置ける。俳句のことだけに集中していると、何とも言えない達成感や癒しがあり、自分の力で成し遂げる喜びがある。」
これは、まさに“自己効力をもたらす緩和ケア”といえるだろう。そこで、もっと多くの方々に知っていただこうということで、皆さんの作品を年2回院内に展示させていただくようになった。ご覧になった方々から「気持ちがほっこりした。ありがとう。」「病気を抱えていても楽しみがあるっていいですね。」といった感想が届く。三尺俳句教室は、今やがんサロンの重要な催しであり、通りすがりの方々のオアシスにもなっている。
これからも俳句の力の“優しさ”“癒し”“ユーモア”“雄大さ”“無限性”を患者さん達に楽しんでいただけることを願ってやまない。
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7248204 ニコラ・テスラ369
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6399718 韻律
https://light-blue.net/archives/1343
【人が放つエネルギーを体感覚で把握するセンス】より
他人が自分の背後に向かってきているときに、そのようすを視界で捉えていないのにわかることがありますよね。または、人が立ち去った後の場所に、ついさっきまで人がいたことが、わかることもあるものです。
人が近くに来たときには、その相手のオーラが自分に重なってくることを感じるのでしょうし、立ち去った後の気配を感じるのは、その場に残った、その人達が発したエネルギーを自分のオーラに重ねることで感じ取っているのでしょう。
このとき、なんとなく気配とか雰囲気があるような「気がする」という段階をこえて、「自分に何らかの刺激がくるという反応」を伴って把握がなされることがあります。
たとえば、ビリッと刺激がくるとか、チリチリと静電気のような反応が起こるとか。これは、体感という感じ方が得意であることのあらわれです。
美しい女性の横顔
体感覚で感じるセンスが高い人がそうなる。
すべての人には、スピリチュアルなセンスが備わっていて、大きくわけると、見える、聞こえる、わかる、感じる、などがあります。
このうちの感じるとは、エネルギーなどの目に見えない要素を、自分の体感とうい反応に結びつけて把握がなされるセンスで、
ある条件下で、そこにないものを「ビリッと刺激がくる」「圧力のような押される感覚がある」「熱を感じる」「風がふいたような涼感の刺激がある」などの感覚が生じます。
このセンスが動作することで、たとえば、ついさっきまで誰かがいた空間にいくと、そこに人が存在しているかのような、体温のような人の熱気のようなエネルギーを、自分の肌に「熱感覚」として感じるとか、
後ろから人が近づいてくると、そのようすを視覚でとらえているのでもなく、相手の声を聞いているのでもないのに、背中側から「圧」が掛かってきて、人がこちらに意識を向けて近づいてくる存在感を「押されるように」感じたりします。
自分との差異を感じわけるセンスでもある。
こうしたセンスについて、多くの方は、このような「思い込み」をしています。
エネルギーをキャッチする力が大きいために、熱いとか、ビリッとくるという、他の人が感じることがない、大きな反応になっているのだろう、と。
その認識の全部が間違っているわけではないですが、、、
感じるセンスというのは「違いをかんじわけるセンス」とも言いかえられます。
あれとこれとは別であるとか、これは自分とは違っているというふうに、
差異を把握したり、何かがいつもと違っていることを違和感として、とらえるセンスが大きいということです。
キャッチできるエネルギーの量や深さで、そこがきまるわけではないです。
※ちなみに、私のような霊媒体質の人は、エネルギーをキャッチする力は大きくても、自分がそれと「同調する」という方向にいくので、振動がそちらと揃ってしまい、違和感が出にくいですから、あまり体感覚が強くなりません。。。
霊媒体質とまではいかなくても、すぐにエネルギーと同調、共鳴をしてしまうタイプの人は、体感覚で把握する力は、あまり強くはないものです。
人が放つエネルギーの違いを感じている。
他人が背後にきていることは「自分とのエネルギーの違い」を体感するのでしょうし、立ち去った直後であることがわかるのは「人がその場にいない落ち着いた空間と、ついさっきまで人の動きがあった空間との違い」が、エネルギーの体感になるのでしょうね。
こうした違いを感じわけるセンスは、
動きをもたずに止まっている「物」にはあまり働かず、
動きをとる「人」のほうが、差異が大きいのでわかりやすいようです。
人を意識しすぎることには気をつけよう。
体感覚のセンサーは、動きがあるものを把握するほうが得意なので、ともすれば「人に対する反応ばかりが起こる」ことになります。
そうなると、他人という存在全般に意識しすぎになって構えてしまったり、混乱して人づきあいそのものを遠ざけてしまうケースも、感じるセンスが高い人にはよくみられる傾向です。
センサーの特性として、人への反応ばかりが起こりやすいのは普通といえば普通なのですけれど、しかし自分ではそのことを客観視できませんからね、
反応が起こるのは、「その人が自分と合わないからではないか」とか「何か悪いことでも起こるのだろうか」と深読みしすぎて、不安になったり、疲れてしまったりするのです。
ですが、実際には、ただ違いがあるだけだけで、それ以上でも以下でもないケースがほとんどですから大丈夫ですね。
体感覚が強くない人は、頭でなんとなく思った「もしも、こうなったら・・・」という不安に対して、「でも考え過ぎかもしれないな」と打ち消して、気にしないで流すことは簡単とはいわないけれど切り換えることできると思います。
しかし、体感覚を伴って感じる人は、「既に体感の反応が起こっている」ことに対して、「考え過ぎかな」「気にしすぎかな」と、打ち消して流すのは、
あったことを、なかったことにするくらいの難しさがあります。
この場合は、反応を、なかったことにする、のではなく、
反応したことは「お互いの違いを感じとっただけで、それ以上に悪くとらえることはない」と「解釈を置き換えていく」のがいいでしょうね。
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO89389280W5A710C1000000/
【何となく感じる「気配」の正体?】
「準静電界」とは サメやナマズが持つセンサーが人間にも より
ふと気配のようなものを感じて振り返ったら、背後に人がいた。あるいは、誰かがこっちに近づいて来るところだった……。こんな経験は、あなたにもあるのではないだろうか。これって単なる偶然? それとも何かをキャッチした結果?
姿を見たり、足音を聞いたり、においを感じたりするよりも早く感じ取る「気配」なるもの。なんとも不思議な現象だが、これにはどうやら“電気”が関わっているらしい。東京大学生産技術研究所機械・生体系部門特任准教授の滝口清昭さんによると、「私たちの体の周りには『準静電界』と呼ばれる“電気の膜”があり、それが気配の正体なのではないか」というのだ。
人が帯びている「準静電界」が気配の正体?
「人間の体の周囲には、静電気のような、ごく微弱な電界が全身を包むように存在しています。電界の大きさやプラス・マイナスが常に変化しており、これを『準静電界』と呼びます。気配と呼ばれるもののすべてはないにしろ、一部についてはこの準静電界が関係していると考えています」と滝口さん。
体の中では、常に微弱な電気が生じている。筋肉を動かす、脳が体に指令を出す、心臓などの臓器が働く、さらには細胞と細胞が情報伝達するといった場面でも、電気的な信号が生まれる。例えば、脳波や心電図、筋電図などは、脳や心臓、筋肉に流れる電気信号を“見える化”したもの。体内で発生する電気信号は、生命活動そのものでもある。このような体内にある微弱な電気が重なり合い、体の外側ににじみ出て、見えない電気のベールで全身を包み込んでいる。これが準静電界だ。
準静電界は、電波のように空気中を伝わることはなく、人体の周囲にとどまり、そこで強まったり弱まったりといった変化を繰り返しているという。準静電界は、人間だけでなく、動物や植物など、生物すべてが持っている(生体電位とも呼ばれる)。ただし、非常に弱いので感知するのは難しいそうだ。
サメやナマズは鋭敏に準静電界をキャッチ
「ところが、この準静電界のごくごく微弱な電位を感知できる動物がいるのです。サメやエイ、ナマズなどの魚類、またオーストラリアに生息する哺乳類のカモノハシなどです。これらの生物の体には、準静電界を感知する“電界検出センサー”が備わっており、このセンサーを使ってエサを捕まえる。視界や嗅覚が利かないような環境下でも、これなら高精度にエサを認識し、捕まえることができます。このセンサーは視覚や聴覚などよりも古い、非常に原始的な感覚器だと考えられます」(滝口さん)
例えばサメの場合、3メートルほど離れた場所から、砂の下40cmくらいのところに潜んでいるヒラメを検知することができるという。光が届かない深海でも、ヒラメが身にまとう準静電界を鋭敏にキャッチして忍び寄り、アタックするわけだ。ちなみに、通信用の海底ケーブルがサメにかじられて問題になったことがあったが、「ケーブル周囲に発生する電界をエサの魚と勘違いしたようです。最近は、サメからの襲撃を防ぐため、ケーブルの周囲に電界が漏れないような工夫が施されています」と滝口さん。
では、その電界を検出する器官はサメのどこにあるのだろうか。滝口さんはこう説明する。
「サメの頭部には、電界を感知する小さな穴がいくつも開いています。この穴が、『ロレンチニ瓶(びん)』と呼ばれる電気受容器です。ロレンチニとは、これを発見したイタリアの学者の名前、瓶はこの穴がフラスコのような形をしていることに由来します。穴の奥には複数の有毛細胞があり、これらが超高感度で電界を感知し、それをさらに高電圧で増幅させて認識していると考えられます。実は、このロレンチニ瓶に似た器官は、我々人間にも存在します。それが耳の奥にある内耳です」
サメの頭部にある「ロレンチニ瓶(びん)」
人間の気配センサーは内耳と体毛?
内耳には、カタツムリの形をした「蝸牛(かぎゅう)」という器官があり、聴覚をつかさどっている。この中には“毛”の生えた細胞、つまり有毛細胞があり、外から入ってきた音を振動として捉え、電気信号に変えて神経に伝えている。そう、ここにもロレンチニ瓶と同様の有毛細胞があり、盛んに電気活動が行われているのだ。
「人体の中で一番電圧が高い組織は、この内耳。脳や心臓よりもはるかに高い電圧が常時生じています。私たちは、この内耳がロレンチニ瓶の名残ではないかと考えています」と滝口さんは話す。
ここで、冒頭の「気配」の話に戻ろう。つまり、この“毛”もあって、電圧も高い内耳こそが、人間においては準静電界を感知する器官ではないかと、滝口さんらは考えているわけだ。「世の中には、流星の音が聞こえたり、星が流れる気配が分かったりする人がいて、流星観察の場で重宝されています。ある調査では、大学生の約2割が聞こえたり、感じられたりするそうです。こうした人たちが、もし内耳で電界の変化を検知しているとしたら、音が聞こえることと、電界の変化を検知して気配を感じられることは、同様の現象だといえるのかもしれません」(滝口さん)
また、内耳以外に“体毛”も準静電界を感じやすいという。特に、細かい産毛は電気刺激に対して敏感だ。「総毛立つ」とか、「鳥肌が立つ」などという言葉があるが、気配を察知する力は一種、皮膚感覚に近いのかもしれない。滝口さんは、「産毛の多い子供や女性は、気配を感じやすい傾向がある」と話す。
犬や猫も人の近づく気配に敏感
ところで、ペットを飼っている人なら、犬や猫などの気配察知能力に驚かされるのではないだろうか。「うちのワンコ(あるいはニャンコ)は、自分が家に帰り着くちょっと前から、玄関で待っているようだ」といった話を耳にする。犬や猫も、飼い主の準静電界をいち早く感じ取っているのか。なかには、何メートルも離れたところにいる飼い主の気配を察知して、尻尾を振って待っていることもあるという。しかし、そんな離れた場所から、どうやって気配が分かるのだろうか。
「歩行時には、体にまとっている準静電界も一緒に動きます。また、片足を上げるたびに、地面との距離が離れることで、人の電位が増幅されます。つまり、じっとしているときよりも動いているときの方が、人が作る準静電界の変化が大きいのです。私たちの実験では、アスファルトの路面を歩いているときには、20~30メートル先にまで、その電位の変化が伝わることが確かめられています」と滝口さん。
人の足踏みで準静電界が生じることを実験で証明
なるほど、だから犬や猫は飼い主が家にたどり着くかなり前から、その気配を察知できるのかもしれない。しかも、滝口さんによると「歩き方には人それぞれ、固有のパターンがある」という。ペットの犬や猫は、それを認識し、飼い主であると分かったうえで、玄関で待っている可能性があるわけだ。なんとも、いじらしいではないか!
気配というと、これまではちょっとオカルト的で非科学的だというイメージを持たれがちだったが、少しずつ科学的な解明が進みつつある。滝口さんらは準静電界を利用した通信や医療器具などの開発にも取り組んでいる。“気配のモト”が、最先端の科学になる日もそう遠くはないのかもしれない。
(佐田節子=ライター)
https://keselabo.com/locus-of-keselabo-10
【ケセラボの軌跡⑩ ~エネルギーで人間関係を変える!?】~ より
過去の自分と対面する体験を経て、人間関係の変化を感じることになったのですが、エネルギーとの出逢いを経て、より意識的に変化していきました。
エネルギーを体感してからというもの、家庭の中や、職場の中、車の運転中に至るまで、常に、手に意識をおいて、訪れてくる感覚に集中するようになりました。
それまでに味わったことがない、不思議な感覚をたくさん味わいたかったのです。
呼吸をゆっくりと行いながら、吐く息とともに、両手にエネルギーが流れ込んでいくイメージを持つ感じで。すると、手に何かが纏っているような感覚がでてきます。
今年、奈良で開催した“ヒーリングワークショップ”の参加者は、その感覚のことを「まるで、手にミトンを着けているような感じ!」と表現してましたが、僕も全く同じ感覚を持っています。
手のエネルギーを高めた状態で過ごしていると色んなことに気づくことができました。
ケセラボの軌跡⑥ ~人間関係の変化~でもお伝えしたように人とコミュニケーションをとる時に、緊張するタイプだったのですが手にエネルギーを感じている時は、落ち着いた自分でいられることに気づきました。
さらに、色々試す中で、相手との間に、エネルギーで見えない壁をイメージすると、より効果的でした。
僕は、その感覚を“バリアーを張る感じ”と表現していたのですが、先日、書店で手にした本には、“結界を張る”と表現してありました。
どちらでも、イメージしやすい方で、いいかと思います。
“バリアーを張る”と言うと、相手を拒絶するようなイメージを持たれてしまうかもしれませんが、実際には、そのイメージと反対のことが起こります。
相手に影響されにくい状態をキープできることで、自分の気持ちが、よりクリアに分かる状態のまま、コミュニケーションをとれるので、お互いにとって、気持ちの良い時間を過ごすことに繋がるのです。
そして、僕が元々もっていた、コミュニケーションをとる時の、自分の感覚の不安定さは、
相手の影響を、受けすぎることによって、生じていた部分があったことを、この時になって、ようやく気づくことができました。
ナチュラルな状態では、相手に合わせ過ぎる傾向があったため、「自分」と「相手」が違う存在だと、改めて意識する必要があったようでした。
相手に合わせ過ぎる必要はないのです。
まずは相手ではなく、自分の感覚をしっかりと意識することが大事です。
そして、この“相手との間に見えない壁をつくる”という方法は、次第に“相手に掌を向けてヒーリングのエネルギーを送る”“自分自身にヒーリングのエネルギーを流す”へと変化し、
“目の前にいる人を、意識でヒーリングする”
“空間や場そのものをヒーリングする”という、今の感覚に至っています。
あれだけ、苦手とする人が多かったのに、エネルギーに気づいてから、2~3か月後には、
誰に対しても、自分の感覚でいられるようになっていました。
また、そんなある日、職場の中で、責任ある立場の方と話をして時のこと。
その方の口から、ご自身の部下を批判するような言葉が出た時、僕の頭のあたりに、ゾワッ!!とする感覚があったんです。
軽く、身を躱したくなるような、不快な感じ。
実際に、少し頭の位置をずらしたと思います。
その時の言葉には、あまり気持ち良くない感覚を感じたこともあり、その方の、想いのエネルギーが現れたものだと思えたのでした。
その体験を境に、人に対して、むやみにネガティブな想いを向けないよう注意するようになりました。
極端な言い方になるかもしれませんが、相手には分からないと思って発する言葉(想念)であっても、見えない刃物で切り付けているのと同じような行為だと思えたし、その刃は、必ず自分に返ってくるものだと感じたからです。
誰しも、自分を積極的に傷つける必要はないですよね。
このような感じで、エネルギーへの理解を通じて、人間関係が変化していきました。
自分の想い・感覚に気づいた状態で、コミュニケーションをとれるようになると、それだけで、周囲との関係も良好なものへと変化していくはずです。
日野原重明先生も携わっている俳句療法です。俳句と医療とのコラボレーションは医療コミュニケーションのみならず新しい統合医療の可能性を秘めるものとして大いに期待されます。