「宇田川源流」<現代陰謀説> 大人の価値観で物語の疑似体験できる部分を失い想像力のない子供を育てさせる親と文部科学省の「過保護という某国の陰謀」
「宇田川源流」<現代陰謀説> 大人の価値観で物語の疑似体験できる部分を失い想像力のない子供を育てさせる親と文部科学省の「過保護という某国の陰謀」
金曜日は陰謀説である。世の中には様々な陰謀があり、その陰謀に囚われて何年も長期間抜けることのできない人がいるものである。本人は、それが陰謀にかかっているというような感覚が全くなく、それが正義であると考えているから、なおさら始末に負えない。
実際に「陰謀」というのは、世の言う陰謀論のように、誰かが仕掛け、そして陰謀を仕掛けた人がいつまでもそこに残って陰謀をし続けるものではないのである。
陰謀で必要なものは、その陰謀を仕掛けた相手、例えばその対象が国であるならば、その国の国民が、主体となってその国の形を「陰謀を仕掛けた人の意思の向く方向に」変えることが必要である。
つまり「国民を扇動誘導する」ということが必須であり、誘導された国民がそのまま存在する場合は、それ以上の陰謀を仕掛ける必要がないので、その陰謀の場所を「怪しまれないうちに」撤退することが重要である。
ある意味で、「陰謀を仕掛ける相手に対する感情を断ち切る」ということも重要であって、いつまでもその場に居座り続ける人は、基本的には、あまり良い結果にはならないのである。
さて、そのように「自らの正義感」と思って他国の扇動に乗りやすい人というのは、どのようなことであろうか。単純に、「扇動・誘導」を受けやすい人は、「情報が少ない」「近視眼的な目の前の正義感しかない」「個人の権利を重視し集団のことを考えない」という三つの要素を持つような人が最も大きな内容になってしまう。そしてそのような人が「陰謀とは気づかずに、自らの正義感として動く」ことが拡散し、その拡散の結果が大きな結果になる。陰謀というのは、そのように陰謀企画者は、陰謀対象国の一般の人々を洗脳先導し、その人の自主的な行動として、陰謀の結果を広めるというような状況を作り出すのである。そして、そのような人が徐々に増えてゆき、国家そのものがおかしな状況になってゆく。もっと言えば国家を否定し始めるというような状況になってくるのである。
さて、ここまで来て気付くと思うが、「情報が少ない(情報の編重)」「長期的ヴィジョンの欠如」「個人の権利の主張」そのうえで、「責任転嫁」ということになれば、まさに現在の日本がそのようになってしまっているのである。そしてその原因は「教育の崩壊」にある。
「ブタはオオカミに食べられ…」 昔話の読み聞かせ、残酷な物語もそのまま伝えるべきか
書店に行くと、自分が幼い頃に読み聞かせしてもらった絵本に出会うことがあります。しかし、大人になった今、物語の結末を見ると「なんだか話が違う」と感じることはありませんか。
現代の絵本は「オオカミがヤギに謝る」
例えば、「オオカミと7匹の子ヤギ」というグリム童話があります。「子ヤギを食べたオオカミは、母ヤギにおなかの中に石を詰められ、井戸に落とされて死んでしまう」という物語ですが、現代では「オオカミはヤギに謝り、その後はみんなで仲良く、いつまでも幸せに暮らした」という結末となっている絵本があります。
また、「3匹の子ブタ」は「わらの家を建てた1番目の子ブタ、木の家を建てた2番目の子ブタはどちらもオオカミに家を吹き飛ばされ、食べられてしまうが、れんがの家を建てた3番目の子ブタだけは助かる」というお話ですが、現代では「1番目と2番目の子ブタはれんがの家に逃げ込み、全員助かった」、さらには「オオカミと仲直りをした」となっているものもあります。
「残酷な結末にしてしまうと、それを読んだ子どもが残酷な人間になってしまう」という思いからなのでしょうか、それとも、出版社にクレームが寄せられたのでしょうか。大人の立場からしてみれば、昔読み聞かせてもらっていたお話とは異なります。
絵本で疑似体験できることの大切さ
そもそも、グリム童話やイソップ童話、日本の民話といった昔話には、残酷なものが多くあります。次の物語はその一例です。
【白雪姫】(グリム童話)
白雪姫は、毒リンゴを食べさせて自分を殺そうとした魔女を、王子との婚礼の席に招き、炎であぶって焼けた靴を履かせて死ぬまで踊らせた。
【オオカミ少年】(イソップ童話)
「オオカミが来た!」と何度もうそをつき、周囲の大人をだました少年。最後は本当にオオカミが現れるが、少年は誰からも信用されず、食べられて死んでしまった。
【かちかち山】(日本の民話)
おばあさんはタヌキにだまされて殺され、みそ汁にされる。それを食べたおじいさんは、残された骨を見て「ばあさまの汁」と知り、悔やむ。相談を受けたウサギは、おじいさんの代わりに敵討ちへ出かける。ウサギはタヌキの背負った芝に火をつけ、やけどの治療薬と偽ってトウガラシを塗り、最後は土で作った舟に乗せて殺してしまう。
こうした物語に共通する「最後に悪者が痛い目に遭う」という結末から、子どもは「善が栄え、悪が滅びる」という勧善懲悪や、「良い行いをすれば良い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」という因果応報を学ぶことができます。
逆に、こうしたことを教訓として知らない子どもの方が怖いように思います。母ヤギが自分の子どもを殺されてもオオカミを許し、最後にみんなが仲良しになる結末だった場合、伝えたいことが曖昧になってしまう気がしてなりません。
絵本は、日常生活を送っているだけでは経験できないことを疑似体験させてくれるものです。人の道徳心や良心は生まれながらにして持っているものではなく、子育てによって養われるものです。そう考えると、昔話は学びとして最適だと思います。
昔ながらのストーリーで読み聞かせを
日本人にとって、なじみの深いおとぎ話「浦島太郎」。カメを助けた浦島太郎が竜宮城に招かれ、楽しいひとときを過ごすも、手土産に渡された玉手箱を開けるとおじいさんになってしまう、というお話です。
この物語には、「『決して開けてはいけない』という約束を破ったので、罰が当たった」「約束は守らなくてはならない」という教訓が隠されているのかもしれませんが、同時に「見たいものを我慢できない人の“心の弱さ”を描いた」とも考えられます。
これを保育園で読み聞かせたとき、「酸素ボンベがないのに、なぜ浦島太郎は海に潜れるの?」「浦島太郎はカメを助けたのに、どうして乙姫様はおじいさんになってしまう玉手箱を渡したの?」「開けることができないお土産なんかつまらない」といった声が子どもたちから上がりました。
昔話が書かれたとき、当時の子どもたちに何らかの教訓を与えることを想定していたと思われますが、それが、遠い未来の子どもたちの道徳教育に役立つことまでは考えていないはずです。そのため、時代を経たことで、中には腑(ふ)に落ちないと感じる部分が出てくることもあるでしょう。
大人は読み終えた後に、「コツコツ努力することが大切なのよ」「だから約束を守らないといけないのよ」とつい一言付け加えたくなったり、子どもたちが理解できるように説明したくなったりしますが、教訓は文章だけで伝わるもの。「読んだら読みっぱなし」でよいのです。
日常では体験できないこれらの物語。子どもには、昔ながらのストーリーに近いものを読み聞かせたいものですね。
オトナンサー2019年11月23日06時10分
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/otonanswer/life/otonanswer-53636
まさに日本のことである。そして日本ではなぜそのようになってしまったのであろうか。
さて、本来教育というのは、「社会に出てどのようにして動くのか」ということが最も大きな内容になっている。つまり「道徳」「人格」といったものの内容や、あるいは、何か危機が発生した場合の「危機管理」などを学び、その人が社会で独り立ちした時に、困らないようにまたは海外で日本人として誇りをもって活躍できるようにすることが教育の本質である。
大学受験の「技術」を覚えさせられるところでもなければ、上司からの理不尽な内容を甘受し、盲目的にそれに従うことを強制されることも教育ではない。そのように考えた場合に、現在の教育がいかに教育というものの本質から離れているか問うことがよくわかるのではないか。
そもそも「道徳を教えない現在の日教組教育」というのは、その人の人格を育てるものではなくなってしまう。たまに物事のわかっていない保護者が出てきて「価値観の押し付け」などということを言うが、そもそも指針や指導がなければ、自分で考えることもできない。
そのことが、大人の社会と同じような内容で物事を判断することになり、そして価値観が狂った人間が出てきてしまう。それらはすべて道徳や人格の教育を受けていないことが大きな問題であり、なおかつ集団に対する責任や義務を感じない子供が育っていることになる。
さて、それらの内容は、昔は童話や民話などの中において、疑似体験をさせることによって、道徳や社会のルールを学ぶものである。そしてその民話や童話は、実際にその町や風土、または環境によって変化しているものであり、その幼児期の刷り込みによって青年期や成人期の価値観が大きく分かれることになる。
はっきり言ってしまえば「青少年の教育のためといって思春期の子供に過激なものを見せない」というようなことをするよりも「幼少期にしっかりとした情操教育を行い、社会的な価値観や疑似体験の基礎を作る」ということが最も重要なものである。
しかし、残念ながら日本の場合は敗戦後アメリカ進駐軍によってそれらの価値観を完全に破壊され、なおかつ、GS(民政局)によって、教育改革を行われ、それらの集団的日本的な価値観を破壊されてしまった。
日本国憲法の制定などに関してあまり非難をするつもりはないが、この教育改革と農業改革に関しては、かなり大きな日本への傷跡を残した。
ある意味で吉田茂よりもアメリカの方が巧妙でありなおかつレベルが高かったのかもしれない。しかし、そのことをもって一国の為政者がマイナスを負うことを甘受することはできないのである。
さて、現在の日教組教育のほつれは、例えば「先生といわれる人の不祥事」の多さからだいたい多く出てきている。
それは、上記のような「情報が少ない(情報の編重)」「長期的ヴィジョンの欠如」「個人の権利の主張」そのうえで、「責任転嫁」という特色を取りそろえた環境で育ち、そのうえで、同じような環境で育った「モンスターペアレンツ」によって攻撃されるのでひとたまりもなくストレス過多になるということに他ならない。
しかし、そのことは同じ教育界が作り出した環境であり、自業自得といえる。つまりそのような教員の教育を受けなければならない子供と、その子供を受け入れる社会こそが、被害者なのであり、教員は被害者ではなく加害者側である。
上記で言えば、「日本弱体化」を図る「GHQやGSの陰謀をそのまま受け取り、自らの正義感として邁進している頭の悪い人々」ということでしかないのである。
その頭の悪い人が教職員として存在すること自体がGHQの「日本弱体化の陰謀」であり、そのことを解消することこそが「戦後レジームの脱却」なのではないか。
上記の記事にあるように「物語を語り、その物語をもって疑似体験をし、そのうえで物事の道理や道徳を学ぶ」ということは、本来幼少期に行われるべきであり、なおかつ、そのことによって「因果応報」などを学ばなければならない。
しかし、それを「過保護にも、子供の気分を害するからといって、そのような話をさせない」とか「話をオリジナルから変えてしまう」ということは、文化や道徳を曲げることにつながる、つまり、悪いことをしても、許されてハッピーエンドに終わるということを学ばせてしまい、責任や義務、社会への貢献ということを無くしてしまうことになる、まさに「ゲームばかりで育った子供が人を殺してリセットボタンを押せば生き返ると思っているようなもの」である。そのような教育を現在の過保護教育はしているのである。
日本は本当にこれでよいのか。アメリカの仕掛けた弱体化の陰謀のままでよいのか。そのことをよく考えるべきではないか。