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のらくらり。

兄と弟

2019.12.03 12:23

子ども時代の三兄弟。

5巻特典イラストより。

初めてアルバート兄様を「兄様」と呼ぶルイス。


「…っ…」

「痛かったかい?ごめんね、もうすぐ終わるから」

「いえ、いいんです。大丈夫です、兄さん」


日に一度、ルイスの右頬の火傷跡はウィリアムの手により消毒される。

気丈に振舞う末弟の姿に、ウィリアムとアルバートはほんの少しだけ眉を歪めた。

もうあれから三週間ほど経ったというのに、まだ痛々しく爛れているその丸みを帯びた頬は、未だ二人の兄の心に影を落とす。


モリアーティ家の人間と使用人と屋敷を全て燃やしたあの日。

ルイス自ら負った怪我は思いのほか深く、医者の見立てではこのままでは大きな傷跡として残るだろうということだった。

皮膚を移植すれば元通りになりますよ、と朗らかに笑う医師は、幼いが間違いなく貴族であるモリアーティ家の子息のためを思って気軽に提案してきた。

傷物、ましてや顔に傷のある貴族など妙な噂の元であり、モリアーティ伯爵家の将来のためにならないという考えからだろう。

勿論アルバートもウィリアムも、僅かな跡すら残さないよう綺麗に治すため、医者に治療予定を確認した。

それはあくまで貴族としての将来ではなく、ルイス本人としての将来を思ってのことだ。

だがその考えは、ルイス本人によって却下される。


「この傷は僕の覚悟です!お二人に救ってもらった命で、誰も疑いようのない完全な状況を作り上げる助けをしたと自負しています!だから、この傷は絶対に治しません…この傷は、僕にとって大事なものなんです!」


口を動かすのも痛がっていたというのに、淀むことなく言い切った誰よりも幼い家族の言葉に、二人の兄は折れるしかなかった。

アルバートの実母はアルバート本人が、彼の実弟はウィリアムが、それぞれ直接手を下した。

一方ルイスは兄の指示通り、屋敷中の燭台に発火装置としての役目をさせるために少しの細工をしただけだ。

幼い弟の手を汚したくない兄の気持ちは分からなくもない。

だが、そのことがルイスの心に蟠りを作ったのもまた事実だった。


「それとも、この傷は何の役にも立っていませんか?兄さんの望む結果を後押しできませんでしたか?アルバート様の助けになりませんでしたか?」


直接手を下したウィリアムとアルバートだけが業を背負うことは、ルイスにとって受け入れがたいことだった。

だからこそ、あのときの自分が出来る最大限の手伝いをしたつもりだったのに、結局はただの自己満足に過ぎなかったのだろうか。

手術をしたときも火傷を負ったときも涙一つ流さなかったルイスの瞳に浮かぶものを見た瞬間、二人の兄は折れたのだ。


「…そんなことないよ、ルイス。ルイスのおかげで、僕の計画はより完璧になった」

「ありがとう、ルイス。君がいてくれて助かった」


事件後にひとまずの仮宿としているホテルの一室で、ルイスの覚悟を改めて思い知った。

だからこの火傷はこんなにも深く跡付いてしまったのだ。

それだけの覚悟と家族のためを思って作ったものを、どうしてなかったことに出来るだろうか。

小柄で病弱だった弟の力強い一面を見たウィリアムは、湧き上がる感情のままにルイスを抱きしめる。

敬愛する兄の腕の中で安心したように涙を拭うルイスとウィリアムを、アルバートはまとめて抱き込んだ。

一年ほど一緒にいたが、互いに出方を伺っていたせいでこんなにも時間がかかってしまった。

だが、ようやくアルバートは胸を張って宣言できる。


「おまえたち二人は、僕の自慢の弟だよ」


実弟は血の繋がりを持つだけの他人だった。

同じ思想と過去を持つ家族が、ようやくアルバートにも出来たのだ。

ぎゅう、と一際強く二人を抱きしめてから彼は優しく微笑む。

強い信念を持つ賢い弟たちをやっと本当の家族として迎え入ることが出来て、アルバートが抱えていた孤独と焦燥が消えていくようだった。


絶対に傷は治さないと豪語したルイスだが、それでも感染症の予防のためには日々の消毒は欠かせない。

それすらも自分がやると譲らなかったルイスに、ウィリアムが弟には絶対見せないであろう笑みを浮かべて彼の消毒役を買って出たのだ。


ルイス、僕の言うこと聞けるよね?

ね?

…は、はぃ…


そんな二人の様子を見て、元々言い知れない迫力を持つ子だと感じてはいたがそれは溺愛している弟にも使うものなのか、とアルバートは感心した。

心臓が弱く病弱なルイスの体調を気遣いながら生きてきたウィリアムのことは、この一年でよく理解していたつもりだ。

目的のためなら手段を選ばないその手腕は信頼しているが、ルイスのためなら自分の我を押し通す姿に兄らしさを垣間見た。

二人だけで生きてきた過去を思えば、そうなるのも仕方がないのかもしれない。

ルイスを失えばウィリアムは独りになり、ウィリアムがいなければルイスは体調を崩して死んでいたのだろう。

依存し合いながら懸命に生き、ともに崇高な目的を持つ二人をアルバートは尊敬しているし、これからは自分が彼らの支えになりたいと強く思った。


「よし、もう終わりだよルイス。よく我慢したね」

「ありがとうございます、兄さん」

「お疲れ様、二人とも。お茶を淹れるから少し休もうか」

「ありがとうございます、アルバート兄さん」

「すみません、アルバート様。僕がやるべきことなのに」

「気にしなくていいよ、ルイス」


引っ越しを終えたばかりの屋敷はまだ物が少なく、ただでさえ広い空間がより広く感じられる。

届いたばかりのテーブルに用意した紅茶と町で手に入れたスコーンを置き、アルバートは弟たちがソファにやってくるのを待つ。


「美味しいです、兄さん」


最下層の孤児だったとは思えないほど優雅に微笑むウィリアムを見て、ルイスも倣うように口元に笑みを浮かべた。

表情を繕うのが得意なウィリアムと違い、ルイスは内向的な様子が見て取れる。

順応力も抜群なウィリアムはあの日以来、アルバートのことを兄と呼ぶようになった。

それは同じ罪を持つ彼を信用したということと同意なのだろう。

元々アルバートの考えに気付いていたウィリアムは、アルバートを兄として慕うことに抵抗はなかった。

それどころか、貴族でありながら世界の歪みに気付いて絶望していたアルバートを尊敬すらしている。

それがアルバートには有難く、ウィリアムを本当の弟として扱えることに嬉しさも感じていた。

だが、ルイスは未だアルバートを兄とは呼ばない。

今までの彼の世界には実兄のウィリアムしかいなかったのだから、突然他人がやってきても受け入れることは難しいのだろう。

それでも今までの彼は、こんな風に僅かな笑みをアルバートに見せることもなかったのだから、着実にルイスの中でのアルバートの立ち位置は変化しているはずだ。

ウィリアムの信頼は得たと実感している。

ルイスの信頼はまだこれからだが、それでもアルバートは焦ることなく、余裕を持って気長に構える。

時間はたっぷりあるのだから、徐々に本当の家族になり目的を一致させていけばいい。

生来持っている気品を漂わせて、アルバートは優雅に紅茶を口に含んだ。

目の前のソファには品よくスコーンを食べる可愛い弟が二人並んでおり、アルバートの目を楽しませた。




「兄さん、一緒にこの本を読んでもらえませんか?」

「あぁいいよ。ルイス、こっちにおいで」

「はい」


ウィリアムは屋敷の雑務を一通り終え、手の空いた時間に日課となっているルイスの傷を消毒する。

新しいガーゼを貼り終えたルイスは書斎から数冊の本を持って来て、ソファに座る彼の足元に腰を下ろした。

読み書きが出来るとはいえ、それはあくまで貸本屋で独自に磨いた技術だ。

秋から名門私立伝統校への入学を控えている二人にとって、今まで学んだことのない知識が必要になってくる可能性もある。

特に病で伏せていた時期が長かったルイスは、二人の兄の名に恥じないよう張り切って勉強を始めていた。


「兄さん、これはどういう意味なのでしょう?」

「そうだね…後の文脈から推察すると―――」


ルイスが疑問に思うことはウィリアムにとっても知らない知識であることが多い。

ウィリアムはソファに座り、足元に座るルイスを後ろから抱えるようにして一緒に本を読む。

だがウィリアムの膝には、二人で読んでいる本とは別の本が置かれていた。

彼の目的遂行のためには時間はいくらあっても足りないのだろう。

僅かな時間も惜しんで、同時進行で本を読もうとする器用な弟にアルバートは苦笑した。


「勉強は進んでいるかい?」

「兄さん。はい、順調です」

「ウィルは器用だね。一度に二冊の本を読もうとしているのか」

「数字には強いので、片手間でも問題ありません」

「ウィリアム兄さん、これは先の文と次の文とで矛盾が生じる気がしますがどうでしょう?」

「ん?どれどれ」


真剣な顔で本を読み、時折顔を上げてウィリアムの方を見て問いかけるルイスの姿は末弟らしく幼く可愛らしい。

弟に頼られて嬉しそうに本を覗き込むウィリアムも、年相応の表情をその顔に乗せている。

仲睦まじい様子の二人を微笑ましく見るアルバートだったが、ふと好奇心が湧いてきてウィリアムの背後に回って腰を下ろした。


「…兄さん?どうしました?」

「アルバート様?」

「ルイス、僕も教えてあげようか?」

「え?」

「歴史と言語学には強いよ。どうかな?」

「い、いいんですか?アルバート様自身のお勉強は?」

「大丈夫だよ、もう済んでいる」

「そ、それでは…お願いします」


驚いたように顔を上げてアルバートを見たルイスは、少しだけ嬉しそうに頬を染めて再び顔を伏せる。

先ほど感じた真剣な空気ではなく、ふわふわと浮き足立ったような、そんな緊張感のない空気が漂う。

おや、とアルバートが疑問に思ったのもつかの間、ウィリアムがくすくすと笑いをこぼしているのが近くで聞こえた。


「ふふ。兄さん、ルイス、僕を挟んで会話しないでください」

「あぁ、悪かった。ウィリアムにも推察じゃなく、しっかりした知識を教えてあげよう」

「ありがとうございます」

「じゃあもうこれはいらないな」

「え、あ!」

「得意ならしっかり知識を伸ばすためにも、別に時間を取って勉強するべきだよ」

「…」

「兄さん?アルバート様?どうされました?」

「何でもないよ、ルイス」


ウィリアムの膝の間に座るルイスの大きな瞳が二人を見つめる。

取り上げた本をソファの端まで放り投げたアルバートは、抱き込んだウィリアムの肩に顎を乗せてルイスの持つ本を上から覗き込む。

納得いかないように瞳を鋭くするウィリアムの視線を感じるが、後ろに自分がいて前にルイスがいるこの状況では勝ち目がない。

アルバートはウィリアムを離さないし、ルイスもウィリアムの膝からどかないだろう。

そしてそのルイスから、兄さん?と心配するように呼びかけられては、片手間の数学など諦める他ない。


「大丈夫だよ、ルイス。せっかくだから、アルバート兄さんに色々教えてもらおうか」

「はい!僕、兄さん以外の方から何かを教わるのは初めてです」

「そうだったのか。もっと早くに気付いてあげれば良かったね、ごめんよ」

「いえ、気にしないでください。アルバート様はお忙しいのですから」

「ルイスはそんなことを気にしなくていいんだよ。僕の弟なんだから」


そう言って微笑むと、大きな瞳が丸く輝いた。

思いがけず見られたルイスの珍しい表情にアルバートが呆けていると、腕の中にいたウィリアムの手がゆっくりと動く。

柔らかい猫っ毛をしているルイスの髪を一撫でしてから、先ほどの不機嫌を感じさせない笑みを浮かべた。


「そうだね。ルイスは僕たちの大事な弟なんだから、もっと甘えても良いよ」

「あ、あぁ。この家には僕たち三人しかいないし、誰に遠慮する必要もない」

「…では」


自分を抱く二人の兄の顔を見て、ルイスは珍しく言い淀みながら口を開いた。


「僕もアルバート様のことを、兄様と呼んでも良いでしょうか」


戸惑いながら口にしたその言葉は、アルバートの耳にしっかりと届いた。

良いも何も、アルバートとしてはずっとそれを待っていたのだ。

ルイスが自分を家族と、兄と認めてくれる日を気長に待っていたというのに、これは一体どういうことだろう。

思わずウィリアムに助けを求めるように視線を向けると、心得たとばかりにウィリアムはルイスに問いかける。

その口元に笑みが浮かんでいるところを見ると、恐らく彼はルイスの考えなど当の昔に気付いていたに違いないだろう。


「ルイス、それはどういう意味かな?」

「…兄さんはアルバート様に知識を買われて弟と認められています。でも僕は何も持っていません。いわばウィリアム兄さんのおまけにすぎないのですから。だから、その僕がアルバート様の弟を名乗っていいのかどうか…」

「…ルイス」

「何でしょう、アルバート様」

「あぁ、いや…ウィル。ルイスは昔からこういう価値観の持ち主なのかな?」

「そうですね。僕らが住んでいた場所では、何もなく何かを得ることはないと学びますので」

「そうか…」

「…アルバート様?兄さん?」


首を傾げて二人を見上げるルイスの瞳には純粋な疑問しか浮かんでいない。

アルバートの弟を名乗る資格が自分にはないと、そう信じている。

あの日からずっと、アルバートはウィリアムとルイスのことをかつての家族よりも家族らしい人間だと思って接していた。

大事な弟だと、そう伝えてきたつもりだった。

だがその大事な末弟には、そんな気持ちなど一切伝わっていなかったようだ。

アルバートは自然と苦笑し、ウィリアムは無垢な弟を慰めるように髪を混ぜた。


「ルイス。僕は君のことを大事な弟だと思って接してきたし、事実、もう僕は君の兄だ。アルバート様なんて他人行儀な呼び方はやめてほしいと、ずっと思ってきたんだけどな」

「そ、そうだったんですか?」

「ルイスのおかげで僕の計画が完璧なものになったんだから、何も持っていないことはないだろう?大事なものをここに持ってるじゃないか」

「兄さん…」


ルイスが身を張ってより完璧な計画に押し上げた大事な頬の傷に、ウィリアムは優しく指を滑らせる。

大分薄くはなってきたが、それでもまだ幼い頬には似つかわしくない傷がある。

その傷を愛おしそうに撫でるウィリアムに続くように、アルバートもその頬に手を添えた。


「きっかけは同じ思想の共有だった。それは間違いない。でも僕は例え同じ思想を持ち合わせていなくても、ウィリアムとルイスの二人を大事な弟だと認めていたと思う。君たちは僕の弟で、このモリアーティ家の大事な子息だよ」


二人に言い聞かせるように、アルバートは至極穏やかに話しかける。

静かな屋敷の中でアルバートの心地いい声だけが響いては消えていくのを、幼い兄弟は聞き届けた。

良い人に拾われた、とウィリアムはアルバートに感謝している。

それは勿論、ルイスも同じだ。

彼の人となりを知った今では、何か裏があるのではと疑っていた過去の自分を恥ずかしく思う。

この人はこんなにも自分達のことを考えて、家族として認めてくれていたというのに。

アルバートの言葉を聞いたルイスは先ほど以上に瞳を輝かせ、頬を染めて大事な兄の名前を口にした。


「…アルバート兄様」

「うん。何だい?」

「…ウィリアム兄さん、僕、兄さんが二人に増えました」

「ふふ、そうだね。僕も初めての兄さんが出来て嬉しく思うよ」

「僕も嬉しいです…アルバート兄様が僕の兄さんになってくれて、嬉しいです」


あまり表情を変えないルイスが、幼子のように頬を緩ませて二人の兄を見る。

小動物のようなその愛らしさに、ウィリアムは遠慮なく小さな頭を自らの腕に抱きこんだ。


「ルイスは可愛いね」

「んん、兄さん苦しいです…」


そう言ったルイスの顔は嬉しそうに笑っているのだから、ウィリアムの腕の力は緩むことなどない。

元気になって構うのにも遠慮が要らなくなった弟を、生まれついての兄であるウィリアムは徹底的に可愛がる。

大事な弟二人が可愛くじゃれ合っているのをこれ以上ないほど間近で見たアルバートは、かつての実弟を思い返して首を振った。

可愛さの欠片も感じられない実弟だったが、本物の弟はこんなにも可愛いものだったのか。

生まれて初めて自分の中に、兄としての自覚と弟を可愛がりたいという気持ちが湧いてきた。

それを自覚したアルバートは口角を上げて、腕の中にいる二人をまとめて抱きしめる。


「確かに可愛いな、ルイスは」

「でしょう、アルバート兄さん。自慢の弟です」

「これからは僕の自慢の弟にもなるわけだな」

「アルバート兄様もウィリアム兄さんも、僕の自慢の兄ですよ」


お二人に恥じない弟になりますね、と抱えた本を見るルイスに、兄二人はこれ以上ないほどに力を込めて幼い彼を抱きしめた。



(弟とはいいものだな。かつていたあいつとは大違いだ)

(あの人とルイスを比べられるのも困りますけどね…)

(あぁ、それは悪かった。だが勿論、ルイスだけじゃなくウィルも僕にとって自慢の弟だよ)

(ふふ、ありがとうございます、兄さん)

(これからは三人でジェームズ・モリアーティだ。忙しくなるぞ、ウィル)

(そうですね。でも僕たちなら大丈夫ですよ、絶対に)

(はは、僕も頼りになる弟たちを持ったものだな)

(僕たち三人なら、望んだ世界をきっと実現できます)

(あぁ、必ず実現させよう…美しい理想の世界をね)

(はい)