愛しい君に贈り物
もうすぐ咲くであろう蕾をより美しくさせるため、枝を間引いて土を丹念に手入れする。
ただ黙々と自分のペースで進められる庭師の役割を、フレッドは殊の外気に入っていた。
あと一週間もすればこの花たちも綺麗に咲いてくれることだろう。
仕上げに汲んでおいた水差しの水をたっぷりと与えて、しゃがんでいた腰を伸ばすように立ち上がった。
「ごめんください」
「?はい」
丁度屋敷の門から近い位置で作業を進めていたためか、訪ねてきた人間に声をかけられる。
フレッドがそちらを見れば、声をかけた人物が着ているその作業着で大方の予想がついた。
「ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ様はこちらの屋敷にお住まいで間違いありませんかな?」
「はい」
「では、こちらをお渡しください」
「わかりました」
「割れ物なので、くれぐれも取扱いにはご注意を」
そう言って足を翻した配達屋は馬に乗って豪快に去っていった。
渡された小包はフレッドの両手に乗る程度の小さな箱で、その見た目の割には重さがある。
モリアーティ宛ではなくウィリアム個人を宛名にしているのならば、フレッドは中身が何かを確認することもせず屋敷の中に入っていく。
危険物である可能性も勿論視野に入れてはいるが、ウィリアムならばその程度簡単に躱してしまうだろう。
そして何より、何度かウィリアム宛ての小包をこうして受け取ったことがある身としては、その中身の行く先には検討がついている。
フレッドはウィリアムの部屋に向かい、許可を得てから中に入り手の中の小包を彼に手渡した。
ウィリアムはフレッドから受け取った小包を開き、中に入っていたガラス瓶の蓋を取りプッシュする。
するとすぐさま目の前の空間に清涼感とほのかな甘さを感じさせる香りが漂った。
鼻を澄ませてその香りを取り込んで、ウィリアムは納得したように小さく頷いては口角を上げる。
噂に聞いていた通りの香りを持つ香水は、きっと彼によく似合うだろう。
楕円形を模ったコンパクトな容器に入った瓶を手の中で揺らし、波打つ液体を見てそっと笑みを浮かべた。
「香水ですか?」
「あぁ。頼んでいたものがやっと届いたんだ」
「そうですか」
ウィリアムの部屋でアルバートの私物である宝飾品をフロスで磨いていたルイスは、嬉しそうに笑う兄につられて頬を緩めた。
手元の指輪は窓から差し込む光を受け止め煌めいている。
「そろそろ届くと思っていたんだ。ちょうどいいタイミングだったよ」
フレッドからのノックが聞こえたとき、部屋の主に代わり出ようとしたルイスを差し止めたのはウィリアムだった。
それに疑問を抱いたのもつかの間、待ち望んでいた品がやっと届いたのならば自分が受け取りたいと思うのも無理はない。
聡明で大人びている兄が持つ、ほんの少しだけ子ども染みた面をルイスは好ましく思っている。
ルイスの今日の仕事はモリアーティ家が所有する貴金属を磨き上げることだ。
アルバートからの依頼もあり、宝石類の点検も兼ねて宝飾品全てをチェックする予定だったルイスを私室に誘ったのはウィリアムである。
その仕事ならどこでも出来るだろう?僕の部屋においで、と誘うウィリアムの言葉を拒否する理由はどこにもなく、むしろ喜んで朝から彼の部屋で作業をしている。
いつも忙しなく屋敷中を移動するルイスを手元に置いておこうとする彼の意図はいざ知らず、ルイスは慣れ親しんだウィリアムの部屋で黙々と高価な宝飾品を手入れしていた。
そこにやってきたのがフレッドの持っていた小包である。
「兄さんが普段つけている香水とは違う香りですね。新しい種類をお試しになるんですか?」
「まぁそんなところかな」
「新しいものも良い香りですね」
「そう思うかい?」
「はい」
次第に漂ってきた香りはルイスにとって馴染みがないものだった。
長男であるアルバートが使用するものとも、普段ウィリアムが身に纏っている香りとも違う。
そもそも兄らは屋敷の外に出る用事がなければ香水をつけない。
執務を中心に働いているルイスは、ゆえに屋敷で寛いでいる兄と関わることが多いため、香水の香りが強い彼らと接することも少ないのだ。
それでも残り香として香る愛用の香水くらいは記憶している。
以前はウィリアムに抱きしめられるたび慣れない香りに違和感を覚えたものだが、今では香水含めてウィリアムの匂いだ。
抱きしめられずとも、その香りを嗅ぐだけで十分満たされるようになった。
そんな自分を殊更満足気に見ているウィリアムのことをルイスは知っているため、今になって香水の種類を変えることに疑問を感じる。
香水の正確な名称は記憶していないが、アルバートはその容姿に見合った色香漂う香り、ウィリアムは清廉な雰囲気を纏った香りだったはずだ。
だがこの場に漂っているそれはどこか涼しげで、それでいて果実を思わせる甘い香りがした。
「君が気に入ってくれたなら良かったよ。ルイス、その指輪を貸してくれるかな」
「え?はい」
ウィリアムの指示に従い、手に持っていた指輪とフロスを彼に預ける。
そうして手の空いたルイスの首元に、ウィリアムは香水を軽く吹きかけた。
途端に立ちのぼる甘い香りにルイスは小さく鼻を鳴らす。
空間に吹きかけるのとは段違いで色濃く香り立ち、慣れない甘さにむせ返るようだった。
「兄さん?」
「うん、よく合うね」
ソファに腰掛けていたルイスが兄を見上げて声をかければ、それには返事をせずにウィリアムは今しがた香水を吹きかけたルイスの首元に顔を寄せる。
筋張った細い首筋に懐きながら息をすれば、肌に掛かった香水が彼の体臭と混じってより甘い香りに変化して鼻腔に届く。
予想していた通りの結果にウィリアムは満足したように瞳を閉じ、自らの唇をルイスの首に押し当てた。
「これは僕からのプレゼントだ。受け取ってくれるね?」
「僕に、ですか?」
「あぁ。ルイスに似合うと思って取り寄せたんだ」
「そう、でしたか」
皮膚の薄い首筋に柔らかく熱を押し当てられたと思いきや、顔を上げたウィリアムがルイスの目を覗き込みながら囁いた。
間に漂うその香りは馴染みがないはずなのに、不思議なほどに気分が落ち着いている。
「そろそろルイスが使っている香水がなくなる頃だろう?」
「知っていたんですか?」
「あぁ。それに間に合うよう取り寄せたからね」
「あ、ありがとうございます」
ウィリアムが言うように、ルイスが愛用している香水はもうそろそろ残りが少なかった。
だが特殊なものではないためなくなってから買い付けても十分間に合ったし、何よりルイスは香水に興味はない。
兄と同じ香りと纏うという無礼さえ働かなければどんな香りでもいいのだ。
だから、香りを選んで香水を決めるということはしたことがない。
「せっかくだから、僕が選んだ香りを身に付けてほしいと思ってね」
だが、最愛の兄からそう言われてしまっては今後この香り以外を纏うことが出来なくなってしまう。
ウィリアムが自分のために選んでくれたこの香りを、ルイスは常に身に纏ってしまうのだろう。
「ありがとうございます、兄さん。嬉しいです」
「そう、良かった。屋敷に居るときは付けなくても良いけど、少なくとも社交界に行くときには必ず付けておいてね」
「分かりました」
己の首筋に顔を埋めて話すウィリアムの髪に頬を寄せ、ルイスは兄の気遣いを嬉しく思った。
当のウィリアムは外で自分が選んだ香りを漂わせながら整然と歩く弟を想像し、自らの独占欲がたまらなく満たされるのを実感する。
嗅覚が人に与える影響というものは強い。
弟が撒き散らす魅惑的な香りの元凶が自分にあるのだと、名も知らぬ人間へ暗に主張できるのは喜ばしいことだ。
兄の好意をただ嬉しく思う可愛い弟を見て、彼を独占するためなら何でもしてみせるとウィリアムは改めて実感するのだった。
「あらボンドさん。今日も相変わらず男前ね」
「ありがとう。今日の君はより一層美しいね」
「まぁお上手」
ウィリアムの使いで街に出てきたボンドは、道行く女性にサービスしながら歩みを進める。
注目を浴びることには慣れているし、それが原因で正体がバレるような下手を打つことなど絶対にない。
あの女だった頃は女性にチヤホヤされる経験に疎かったが、可愛らしい反応を見られるのであればこれはこれで気分がいい。
ゆえにボンドは軽快な足取りで目的の店まで足を向け、再び地図を確認してからその扉を開けた。
「やぁ。モリアーティ家の遣いなんだけど」
「まぁお待ちしてましたわ。ウィリアム様のご依頼の品ですね」
「はい」
ベルの音を聞きながら店内へと足を進め、了解したように返事をする女店主にも輝かんばかりの笑みを向ける。
ボンドの笑みに意識を奪われることなく笑いかけた妙齢の女性は、一度奥へと下がって一つの箱を持ってきた。
そうしてボンドの前に箱を持って来て、蓋を開けて中身を確認するよう促した。
「頼まれていたヘアーブラシ、これで間違いないかしら?」
「うーん、どうだろう。僕はただ、この店に行ってお願いしていた物を受け取るようにとだけ指示されたんだ。何を頼んだかは知らないんだよね」
「あらそうなんですか?でもウィリアム様からのお手紙にはこのブラシを用意するよう書かれていましたし、おそらく間違いはないかと思いますよ」
「そう、じゃあこれを貰うよ」
やたら艶めいたブラシの入った箱を受け取り、ボンドは再び輝くような笑みを浮かべて店を出た。
「ウィル君、頼まれた物を持ってきたよ」
「ありがとう、ボンド」
ボンドが持ってきた綺麗に包装された箱を受け取り、ウィリアムはいつもの笑みを浮かべた。
威圧感のない見慣れた笑みにボンドも顔を綻ばせたが、すぐさま中身への言及に移っていく。
「ところで、どうしてそれを注文したんだい?誰かへの贈り物かな?」
「あぁ、ルイスにね」
「ルイス君?ヘアーブラシをルイス君に?何でまた…」
「ルイスは髪が細いからね、よくブラッシングしてあげないと絡まってしまうんだよ」
「へぇ」
ボンドは脳内に眼鏡をかけて凛々しく佇むルイスの姿を思い浮かべる。
風に舞うふわりとした髪は確かに細く靡いていたように思う。
弟の髪の手入れのためにわざわざ上等なブラシを注文するとはさすがウィリアムだ、愛が根深い。
ボンドが密かに感心していると、ウィリアムはもう一度ボンドに礼を言って部屋の奥に戻っていった。
「兄さん、髪の毛良いですか?」
「あぁ、おいでルイス」
「お願いします」
その夜、風呂で整髪料を落としてさっぱりとしたルイスがウィリアムの部屋を訪れた。
毎夜のことだから改めて許可を取らなくてもいいのだが、元々の性分なのか、必ずウィリアムの返事を待ってからタオルとブラシを渡すルイスに苦笑する。
よく水分を拭き取ったとはいえまだ湿っている細い髪の毛は、薄暗い部屋の中では昼間よりも色鮮やかに見えた。
「いつもありがとうございます、兄さん」
「気にすることはないよ。僕も楽しんでやっているから」
ソファに腰掛けたウィリアムの足元に座り込んだルイスの仕草は昔のように幼く見える。
湯上りで頬を赤らめながら、安心したように兄の足に懐くルイスの様子にウィリアムの心は癒された。
そんなルイスに手渡されたタオルは日中に日を浴びていたのか、手触りが良くふわふわとしている。
ウィリアムはそのタオルをルイスの髪に落とし、極力圧をかけないように優しく水分を拭き取っていった。
触れなくとも分かる小さな頭と露わになる首筋は、何度見ても欲をそそられる。
「兄さんは髪の毛を拭くのがお上手ですね」
「もう何年もルイスの髪を拭いているからね。さすがに慣れるよ」
根元をマッサージするように指でほぐし、伸びた髪は傷めないよう抑え拭きを心がける。
乱暴に拭いて根元から絡まってしまうのは何度も体験したことだ。
ルイスは気にせず髪を切ることで解決させてしまっていたが、それではウィリアムが納得しなかった。
自分のものよりもふわりとした柔らかい髪の毛を、ウィリアムはルイスが思う以上に気に入っているのだ。
ゆえにせっかくの綺麗な髪を傷めないよう、ウィリアムはルイスの髪を拭く役目と梳かす役目を自ら買って出た。
孤児だった頃からの習慣にはルイスも反発することはなく、今では一日の中で唯一甘えるように「髪を乾かしてほしい」と頼む姿がウィリアムの癒しになっていた。
「ふふ、気持ちいいです」
「それは何より」
湿り気を帯びて束になっていた細い金髪が、段々とほどけて糸のようにばらけていく。
ウィリアムに髪を拭かれているときに感じる、優しく頭を撫でられているような感触がルイスはすきだ。
普段からウィリアムだけじゃなくアルバートにも頭を撫でられることは多いが、そのどれもがすぐに終わってしまう。
それに不満を感じているわけではないし、むしろ子ども扱いされているようでどこか気にかかるのも事実である。
だがタオル越しに髪を拭かれているときだけはそんなわだかまりもなく、しかも長く頭を撫でてもらっているようで、ルイスは特に気に入っているのだ。
敬愛するウィリアムに髪を拭かせるのはどうかと思うが、昔からの習慣を今になって覆すにはどうにも惜しい。
ウィリアムが快く許可を出してくれるうちは堪能しておこうと、ルイスは心に決めている。
そんなルイスの心情を知る機会はないが、拒否する未来など一切存在しないのでウィリアムとしては至極どうでもいいことだ。
とりとめもない会話をしながら粗方の水分を拭き取り、指でその感触を確かめてからウィリアムはタオルを取り去った。
「そうだ。ルイス、新しいブラシを用意したから今日からはこれを使おう」
「新しいブラシですか?」
「あぁ。とても使い勝手がいいらしいよ」
ルイスに渡されていたブラシを机に置き、その隣に置いてあった箱から艶めいたヘアーブラシを取り上げる。
細い金糸のような髪を手に取り、まずは先端だけを優しく梳いていった。
詳しいことは教えないが、ボンドにわざわざ取りに行かせたこのブラシは貴族令嬢御用達のものなのだ。
使い勝手が良いのは勿論、丁寧にブラッシングすればするだけ髪が潤い、艶が増すと評判らしい。
以前参加した会合でどこかの令嬢が話していたのをふと思い出し、ルイスのために予約しておいたのだ。
たかがブラシの割には中々良い値段をしていたが、ルイスにかけるための金であれば惜しくはない。
無垢で美しい弟の髪をウィリアムの手でより美しく出来るのであれば、そんなことは些細な問題だろう。
「僕にはよく分かりませんが、使いやすいですか?」
「どうだろう。まだ初日だからね、あまり実感はないかな」
「それもそうですね」
水気は残っているが元のふわりとした感触が戻ってきた。
丁寧にルイスの髪全体をブラシで梳いていき、同時に感じられる手を擽る髪の毛が何とも愛おしい。
無防備にウィリアムに頭を預けて機嫌よく喉を鳴らすルイスを見て、常にこれだけ甘えてくれてもいいんだけど、とぼんやり思う。
だが、普段はしっかりしていて自分に厳しいルイスがたまに甘えてくれるからこそ、より一層愛しく感じられるのだろう。
ルイスに負けず劣らず機嫌のいいウィリアムの手により、何の抵抗もなく梳かれる髪が綺麗に艶めいている。
しばらく優しくブラッシングをして最後に髪型を整えれば、二人の毎夜の習慣はおしまいだ。
「はい、終わったよルイス」
「ありがとうございました、兄さん」
丁寧に乾かしてブラッシングした髪にキスをして、ウィリアムはルイスに声をかける。
まだぬくもりのある髪の感触に浸っていると、足元に座っていたルイスがウィリアムの膝に乗り上げてきた。
ウィリアムの膝に腰を落ち着けたルイスはその肩に手を添えて、形の良い兄の唇に自分の唇をゆっくりと重ね合わせる。
新しいブラシのお礼です、と微笑むルイスを見上げて、ウィリアムは「どういたしまして」と赤らんでいる頬にキスを返した。
屋敷の応接室で軍手をはめたモランは、面倒くさいという感情を惜しみなく晒しながらソファに寝そべっていた。
「あ~…だりぃ」
本来ならばルイスの命令によりこの応接室にある暖炉および煙突の掃除をしなければならないのだが、やる気は一切起こらない。
ウィリアムの部屋の書類整理があると言ってルイスがこの場にいないのを良いことに、モランは思い切りサボっていた。
ルイスの手に掛かれば書類整理などすぐに終わるだろうが、その分ウィリアムがルイスに構うだろうからしばらくは帰ってこないはずだ。
そう予想付けたモランはだらだらと煙草を燻らせて、どうやってこの場を誤魔化すかに思考を働かせる。
とりあえず昼寝でもするか、と考えたモランが煙草を珍しく灰皿の上に置いたとき、来客を知らせる呼び鈴が高らかに鳴った。
対応しなければベルは鳴り続けるだろうし、そうなっては二階にいるルイスの耳にも届いてしまうかもしれない。
渋々とモランは起き上がり、気怠げに玄関先へと向かって行った。
「こんにちは!こちら、ウィリアム様宛のお届け物です!」
「あぁ、分かった。ありがとよ」
「それでは失礼します!」
やたらハキハキとした配達屋から受け取った箱は、片手で持つのに丁度いい大きさだった。
ウィリアム宛ということはこの場で中身を確認する必要もなく、その代わりすぐ彼に渡しに行かなければならない。
かったりぃな、と頭を掻いたモランだったが、すぐにこの場の掃除を放棄する案件が出来たことに気付く。
モランは嬉々として軍手を脱ぎ捨て、ウィリアムがいる彼の私室へと向かっていった。
「…何してんだ、おまえら」
「…モランさん、ウィリアム兄さんの部屋にノックもなしに入るなんて無礼が過ぎると思いませんか」
「それは俺が悪かった」
「構わないよ。何か用かな、モラン」
届いた箱を片手にウィリアムの私室にやってきたモランは、どうせルイスがいるのだからと適当にノックをしてすぐさま扉を開けて中に入った。
だから正しくはルイスの言葉は間違っているのだが、返事を聞かずに入ったのは確かに無礼であるため素直に謝る。
それでも兄への無礼に納得できないのか、ルイスは大きな瞳を不快感満載に細めてモランを睨む。
そんな二人を気にせず、ウィリアムは用件を促した。
「あぁ、ウィリアム宛てに届けもんが来たから持ってきたんだ。ほらよ」
「!ありがとう、待ってたんだよ。ルイス、手を貸して」
「…はい」
「…だから、おまえら何してんだよ」
モランが部屋に入ったときに見たのは、ソファに腰掛けた二人の姿だった。
それだけならば見慣れた光景ではあるのだが、普段と違って見えたのはウィリアムが険しい顔をしてルイスの両手を握っていたことである。
二人とは長い付き合いではあるが、ウィリアムがルイスに対して怒りを露わにする姿をモランは初めて見た。
ひたすらに弟を溺愛しているウィリアムを怒らせるなんて、ルイスは一体何をしたのだろうか。
というか、ウィリアムがルイスに対して怒ることがあるんだな。
モランはそんな当たり前のことを思い、渡した箱を手際よく開けていくウィリアムと不服そうに唇を尖らせるルイスを見た。
「ルイス、僕がこの前言ったこと覚えてるかな?」
「…指が治るまで、無理はしないよう言っていました」
「そうだね、確かにその通りだ。それで、今のこの現状はどういうことなのかな?」
「…無理をしたつもりはありません」
「本当に?」
「…大丈夫だと思ったんです」
「ルイス」
「ごめんなさい…」
会話から察するに、ルイスが指に怪我でもしたのだろうか。
モランは箱から小さなボトルを取りだすウィリアムを横目に、両手を前に出して項垂れるルイスの指先に目をやった。
その指は確かに荒れていて、ところどころ赤く切れているようだ。
それだけなら執務の末に荒れたのだろうと推測もつくが、中でも特に目を引いたのは、爪が割れて生々しい肉が見えている爪先である。
うっすら血も滲んでいて、周囲には赤黒く痣が残っていた。
「おいどうしたんだよ、その爪。痛くねーのか?」
「…」
「ルイス、モランに何があったのか教えてあげたらどうだい?」
「…倉庫を整理していたとき、誤って荷物を指に落としてしまっただけですよ」
「痛そうだな、手当てちゃんとしてんのか?」
「していたよ、僕が直々に。でも僕が大学に行っている間を見計らって、邪魔だからと包帯を取って水仕事までしてたらしいんだ」
「そんで、ウィリアムが帰る前に包帯を巻き直して誤魔化していたってわけか」
「その通りだよ、モラン。中々巧妙で意地が悪いと思わないかい?治りが遅いと思って問い詰めたらやっと白状してくれたんだ。ねぇルイス?」
「…ごめんなさい、兄さん」
珍しく口調が刺々しいウィリアムを見れば、その怒りの深さは簡単に理解出来た。
しかもその理由が怒るに相応しいものであるのだから、非はルイスにしかない。
元軍人であるモランは経験上、無理を推してでも動かなければならないときがあることは理解しているが、少なくとも屋敷の執務は無理を推してでも動かなければならないときではないだろう。
爪を見るに膿んではいないがほぼ治っておらず、怪我をした当初のままのはずだ。
そうでなければあんなにも生々しい見てくれになっていない。
ルイスが働き者であり、兄のため屋敷の管理に重きを置いていることなどウィリアムもモランも理解している。
だからこそ懇切丁寧に言い聞かせて日々の手当てをしていたウィリアムだろうに、その兄の気持ちをあろうことか巧妙に隠しながら踏みにじったのだ。
ルイスを溺愛しているからこそ、ウィリアムの怒りは在って然るべきものだった。
「はぁ…モラン、少し席を外してくれるかな。あと、しばらくした後で爪やすりを持って来てほしい」
「了解。ほどほどにな」
ボトルを片手にモランに声をかけたウィリアムの顔は、諦めたように疲れた表情を乗せている。
それに言及することなく、モランはルイスを憐れんだ目で見てからすぐさま部屋を後にした。
「ルイス、おいで」
「…はい」
先ほどまで不服そうにしていたルイスだが、兄の怒りをその身に浴びた上、反論の余地もないほどに自分が迂闊だったことも理解していた。
その声に促されるまま、少し間を空けて隣に腰掛けていたウィリアムの近くに寄る。
すると優しく腕を掴まれ、抵抗せず引かれるままに体を動かせば、ウィリアムが後ろから覆い被さってきた。
彼の足の間に腰を下ろして背中にウィリアムの体温を感じられるこの体勢は、普段ならばこの上なく安心出来る体勢のはずだ。
肩にウィリアムの顎が乗り、腹部には腕が回されて、それこそ隙間なく密着する。
そしてもう片手には、怪我をしたルイスの左手が取られている。
愛しい兄の怒りをこれ以上ないほど間近で感じられるこの体勢は、今のルイスには荷が重かった。
だからこそ誠心誠意込めて、兄に伝えなければならない。
「兄さん、勝手をしてしまいすみませんでした」
「…あぁ」
「これくらいならばすぐ治ると自分を過信してしまい、もう五日も経つのに治る気配がないことは僕の判断が甘かったことの証明です。本当にすみません」
「…それで?」
「…兄さんを欺くような真似をして、せっかくの好意を無碍にしてしまい、後悔しています」
「うん。ルイスが懸命なのは昔から知っているから、多少は目を瞑ろうと思ってたよ。でも、それを誤魔化されるとは思っていなかった」
「…ごめんなさい」
「痛くはないのかい?」
「多少は。でも耐えられないほどではありません」
「そう」
逃げることなく兄の胸に背を凭れさせて、しっかりと自らの声で思いを伝えるルイスを見て、ウィリアムはようやく留めきれなかった怒りが和らぐのを感じた。
今後は怪我を治す間もなく計画に参加させることも考慮していたが、今はそれほど急を要する案件はない。
だからこそ今のうちに万全な状態に治してほしかった。
計画の駒とはいえ、それ以前にルイスは大事な弟なのだ。
多少の痛みと言うが、まだ血が滲むほど治りが悪いこの怪我を見ればきっと相応の痛みを伴っていることは簡単に予想できる。
弱みを見せたがらない性格はきっとウィリアムと同じなのだろう。
それを理解しているからこそ、こんなときにまで血の繋がりを感じてしまった。
「もう僕に秘密を作らないようにね」
「はい、絶対に」
「その言葉、信じてるよ」
ウィリアムはルイスの耳に直接囁くように小さく声をかけた。
その兄に応えるよう、力強い返事としっかりと頷くことでルイスは意思表明をする。
腕の中の弟の様子を見てひとまずは信用することを決めたウィリアムは、厳しい顔を向けた分だけ優しく頬を合わせていった。
その柔らかな頬の感触を堪能しつつも、視線は荒れた手に向けている。
「よし。じゃあ手当てをして、荒れている右手はオイルマッサージをしてあげようか」
「オイルマッサージ?」
「さっきモランが持ってきただろう?ルイスはこの時期、特に指先が荒れやすいから塗っておいた方が良いと思ったんだ」
「でしたら後で僕が自分で塗っておきます。わざわざ兄さんの手を煩わせなくても大丈夫ですよ」
「僕が塗ってあげたいんだ。それに、今はルイスの言うことは信用できないかな」
「う…」
にっこりと嫌味を言うウィリアムに逆らえず、ルイスは大人しく腕の中で縮こまっていた。
その間に怪我を優しく湯で洗ってもらい、消毒をしてからガーゼで保護して包帯を巻かれる。
ルイスを抱いているにも関わらず、流れるようにスムーズな動作はいっそ感心するほどだった。
「早い…」
「あまり時間をかけてもルイスは嫌がるだろう」
思わず声に出して賞賛すれば、またも嫌味のように返事をされる。
確かに、長い時間をかけた手当ては兄の貴重な時間を浪費させる、とルイスは嫌うだろう。
だがそれでいてほとんど痛みを感じさせず丁寧に処置してくれた手腕は、やはりウィリアムの本質が優しさで出来ていると感じさせてくれた。
場の空気にはそぐわないのだろうが、改めて兄の優しさに触れたルイスはうっすらと笑みを浮かべて、後ろで自分を抱きしめているウィリアムに体重をかけて甘えていく。
「ありがとうございました、兄さん」
「今度は無理せず、早く治すからね」
「はい」
まるで自分のことのようにルイスの怪我について話すウィリアムが、ルイスには嬉しかった。
そうして次にウィリアムはオイルの入ったボトルの中身を手に取り、両手で温めてからルイスの右手を取る。
仕事で荒れてはいるが細く綺麗な指先だ。
整った外見には似つかわしくない指先だが、荒れている分だけ頑張ってきた証のように思えるからルイスは嫌いではない。
でも確かに水は染みるし兄に触れたときに不快感を与えるのでは、という懸念も拭えなかった。
オイルを塗るというのは、要はクリームの代わりなのだろう。
わざわざウィリアムが用意したのだから普通のクリームよりも効果が良いのかもしれない。
ルイスはそう当たりを付けて、己の指に撫でるように触れていく兄の指先を見た。
「良い香りがしますね」
「ハーブを配合してあるんだ。シトラスの香りだったかな」
「なるほど」
温かいウィリアムの指がオイルのおかげで滑らかにルイスの手を這っていく。
荒れている指先には丹念にオイルを擦りこむように撫でていき、赤く切れかけている関節の部分へは痛みを与えないようなぞりながら触れていく。
少し乾燥している手の甲には、熱でオイルを浸透させるように重ね合わせて揉んでいった。
ウィリアムは時間をかけてゆっくりとルイスの手に触れていき、その頑張りを慈しむように優しくマッサージしている。
ルイスが自分で塗るとなれば、これほど丁寧に塗ることはなかっただろう。
ひたすらに優しいそれは、先ほどの迫力とのギャップを感じさせた。
「兄さん、ここまで丁寧に塗らなくても大丈夫ですよ」
「僕がしたいんだ。ルイスはただ受け入れてくれればいい」
「はぁ…」
ウィリアムに抱きしめられながら手を優しくマッサージされて、怒りを向けられたことが帳消しになるほどの幸せを感じる。
すぐ横にある兄の首に懐きながら、ルイスは機嫌よく瞳を閉じた。
何ならこのまま眠ってしまえるほどに心地いい。
そんなルイスの気配に苦笑しながら、ウィリアムはオイルを塗りこんだ右手と包帯が巻かれた左手を並べて見つめる。
自分の手とほとんど変わらない大きさのそれは、殺しを知っている穢れた手だ。
だが、それでもウィリアムにとっては世界で一番美しく尊い手である。
だからこそより良い状態にしておきたかったし、オイルはそのための小道具に過ぎない。
まるで眩しいものを見るように瞳を細めたウィリアムは、包帯が巻かれている左手を持ち上げ自分の頬に当ててルイスに囁く。
「僕を誤魔化したこと、許したわけではないからね。もう次はないよ」
言葉の辛辣さとは裏腹に優しく囁かれたそれは、するりとルイスの耳に入る。
包帯が巻かれた手でウィリアムの頬を擽って、ルイスは静かに瞳を開けて兄を見た。
柔らかく微笑んではいるが、瞳の奥が微笑っていないその様子は美しさゆえの迫力がある。
威圧されながらもその愛の重さに気付いたルイスはただただ頷いて、兄の信頼に恥じないよう生きていくことを決意した。
「ウィル君ってさ、ルイス君へのプレゼント多いよね?」
「そうかな、特別多いつもりはないんだけど」
「ま、ウィリアムは昔からルイスに貢いでるからなー」
「…貢ぐって言い方はどうかと思う」
「あはは。そうだね、ただ可愛い弟にプレゼントしてるだけなのに。モラン君ってば嫌な表現するねぇ」
「ふふ、モランは相変わらず面白いことを言う」
「ところでさ、実際問題どうしてそんなにルイス君に物をあげるんだい?ルイス君が欲しいものを買えない訳じゃないだろうに」
「どうしてって言われても…そうだね、ただルイスに似合うものを僕が選んであげたいだけだよ」
「…そうだったんですか?てっきり、ウィリアムさんに何か貰って嬉しそうにしてるルイスさんを見るのがすきなのかと思ってました」
「あぁそれもあるね。可愛いだろう?頑張って隠そうとしてるんだろうけど、隠しきれずに表情が柔らかくなるところが特に」
「そうかぁ?よく分かんねぇな、俺には」
「それはモラン君が適当に屋敷の仕事をしてるからさ。普通にしてればルイス君は優しいし可愛いよ」
「そうですね、何だかんだ優しいですよ、ルイスさんは」
「だろう?だからつい構いたくなるんだよ」
「ウィル君の好みで固められたルイス君か…そう考えるともう完璧にウィル君のものだよねぇ、ルイス君って」
「まぁ実際そうだからね」
「え、そうなの?」
「さて、どうだろうね」
「(…これ、どう判断すればいいんだい?)」
「(事実に決まってんだろ、あの溺愛っぷりだぞ)」
「(過保護が過ぎてルイスさんが作戦メンバーに組み込まれなかった頃もあったくらいです)」
「(うわ、マジモンだねこれは)」
「みんな、どうしたのかな?」
「「「何でもないです」」」