ルイス・ジェームズ・モリアーティという人間
よく似た兄弟ね、と言われることがルイスの誇りだった。
世界でたった一人、自分を見てくれた大切で愛おしい一つ違いの兄がルイスにとって生きる全てで、だからその彼に似ているということは何より嬉しいことだった。
誰よりだいすきな兄に似ている自分の顔が、何も持っていないルイスの唯一の自慢と言っていい。
初めて他人に双子のようだと言われた日の夜、兄が伝えてくれた言葉をルイスは一生忘れない。
きっと神様は僕たちを創るとき、間違えてルイスだけをお腹の中に置いてきてしまったんだね。
それを聞いたとき、自分たち兄弟は本当は二人一緒に生まれるはずだったのだと理解した。
双子と言っていいほど似ている自分たちは、本当に双子としてこの世に生まれ落ちるはずだったのだ。
それなのに神様という不確かな存在のうっかりした間違いのせいで、兄よりも一年遅れて自分は生まれてしまったのかと思うと理不尽で仕方ない。
ルイスは生まれたときから兄に守られてきたというのに、その彼はルイスが生まれるまで一人で過ごしてきたというのだから悔しくて堪らないのだ。
神様が間違えなければ大事な兄を一人過ごさせることなどなかったのに。
生まれたときからいつも一緒にいられたのに。
嬉しいことも悲しいことも、全部全部、二人で受け止められたのに。
だからルイスは神など信じないし、兄も神を信じていないようだからそれで良かった。
神様の忘れ物である自分だけど、ちゃんと片割れの兄に出会うことが出来て、その彼によく似た顔を持てたことがルイスにとって一番の幸せである。
大切なのは、この顔。
兄によく似たこの顔が、知識も体力も何も持たないルイスの何より大切なものだった。
その顔を捨てようと決めたのは、やはりその兄を慮ってのことだった。
「ルイス、傷の具合はどうだい?」
「問題ありません」
「そう」
長男を除くモリアーティ家の人間を使用人含めて全て焼き、かつ疑われることのない完全犯罪を実行すると兄が豪語したあの夜。
モリアーティ家の次男であるウィリアムに、大切な兄が成り代わると知ったあの夜。
ルイスが誇りに思っていたこの顔は、今後兄弟三人で生きていく上で不要なものになってしまった。
どうしたって兄と自分は似ているし、養子であるルイスがモリアーティ家の次男とよく似ているなどと噂されれば、この先の計画にどんな支障が出るか分からない。
この瞬間、ルイスは初めて兄によく似たこの顔を疎ましく思ってしまった。
兄に似ていることが自分の誇りだったのに、この顔を持つせいで兄の目的を達成できないかもしれない。
いっそ自分がいなければ、などと考えなかったのは、その兄がルイスをめっぽう可愛がっていたからだろう。
自分の命だけは粗末に扱ってはいけないと散々言い聞かされてきた。
それでもルイスは何とか兄の不利益にならないようこの顔を捨てるためには、一体どうしたら良いのかを幼い頭で必死で考えたのだ。
その結果、アルバートにも兄にも誰にも相談せず、ルイスは己の顔を焼いてしまった。
「大分治ってきたね、良かった」
「ご心配ありがとうございます、ウィリアム兄さん」
「ルイスのおかげで、誰も僕たちの計画だとは考えていないよ。ありがとう」
「お役に立てたのなら何よりです」
ウィリアムと名を変えた兄が、弟であるルイスの右頬に触れてその火傷の跡を慈しむ。
いつも自分の後ろをついてきた可愛い弟の苛烈な一面を知り、兄としては嬉しくもあり寂しくもあった。
幼いながらに整った可愛い顔に傷を負わせてしまったことは自分の落ち度だと考えたが、兄さんの計画を完璧にする助けをしたかったと、そう言われてしまえばもう何も出来ない。
嘆くよりも後悔するよりも、ただただその健気な行為に圧倒されてしまった。
自分のために身を挺して作ってくれたこの火傷の跡を、ウィリアムは生涯愛しく思い続けるだろう。
「この傷、目立つでしょうか?」
「そうだね…少し目立つかもしれないけど、時間が経てば段々と色味は落ち着いてくるはずだよ」
「…そうですか」
ウィリアムの緋色に映った自分の姿とその言葉に、ルイスは視線を落として唇を噛む。
その様子にウィリアムは少しばかり訝しんだが、そろそろ痛み止めが切れてくる頃だから痛みを耐えているのだろうと当たりを付けた。
そうして可愛い弟のため、鎮痛剤を取りにこの部屋を後にする。
「…もっと、大きな傷を作るはずだったのに」
失敗した、とウィリアムがいない部屋にルイスの声が響いた。
兄の計画を後押し出来るなら、火傷を負うのは腕でも足でもどこでも良かった。
敢えて特別目立つであろう顔に傷を作ったのは、周囲の同情を引く目的以上にウィリアムとよく似たこの顔を捨てるためだったのだ。
頬を焼けば注目はそこに行くだろうし、髪や顔立ちが似ていることは二の次になるだろう。
ウィリアムの計画を聞いたとき、ルイスは自分の顔をいずれ捨てなければならないと思った。
そのいずれをいつにするかは考えていなかったが、早ければ早い方が良い。
そう考えていたところ、屋敷に火が燃え広がって脱出しようとした瞬間に「今ここで顔を焼けば自然な形で捨てられる」と気付いてしまい、すぐ手近な木片を手に取ってしまったのだ。
もっと大きな木片を拾っておくべきだったと、ルイスはガーゼを当てた右頬に手を当てる。
もしくはもっと強く木片を顔に押し当てて深い傷にするべきだった。
そうすれば、きっともっと大きくて醜い傷が永遠と残り、誰もがその傷を目に入れたくないとばかりに顔を見られることなく済んだのに。
ルイスは自分の浅はかさに少しだけ後悔するが、それでも目的だったこの顔を捨てることには成功したのだから良しとしよう。
すぐに鎮痛剤を持って帰ってきたウィリアムに、ルイスは痛みを耐えての笑みを見せた。
だが顔を焼くだけでは足りないのだとすぐに気が付いた。
顔に傷があれば確かにそこに注目がいく。
けれど、傷がある程度ではウィリアムに瓜二つの自分の顔は誤魔化せなかったのだ。
ナースに何気なく言われた「よく似たお兄さんね」という言葉が、これほどルイスの気を乱すものになるとは思っていなかった。
まだ似ているのか、自分の顔と愛しい兄の顔は。
似ていることは嬉しいけれど、兄の計画の邪魔にだけはなりたくない。
だからといって顔を変えるなど、その兄もアルバートも許してはくれないだろう。
あの二人は末弟であるルイスにとんと甘いのだから、整形を望む弟の本心を聞けば確実に反対するに違いない。
二人が納得する自然な形で、ウィリアムによく似たこの顔を隠すためにはどうすればいいだろうか。
ルイスが一人そう思考を巡らせた結果、前髪を下ろすことと眼鏡をかけることが一番現実的な案だった。
目立つ傷を隠したいと言えば兄は納得してくれるだろうし、視力が落ちましたと言えばすぐに眼鏡を用意してくれるだろう。
顔半分を隠し、眼鏡で印象を変えれば、よくよく観察しない限りはウィリアムとルイスが似ていることに気付く人間もそういないはずだ。
これで兄、引いては自分たちの本当の関係について誰も疑わないだろう。
この顔がウィリアムとアルバートの目的を達成するための障害になるはずもない。
そうして今のルイスが出来上がった。
前へ出ないようにすることには慣れていたから困らない。
アルバートとウィリアムの後ろにつき、ウィリアムによく似た顔を隠すために髪を下ろして眼鏡をかける。
穏やかに微笑むことが多いウィリアムだから、ルイス自身は表情を押し殺して過ごすことにした。
気を抜いて笑みなど見せれば、どこの誰が次男と養子が似ていると気付くか分からない。
ウィリアムとアルバートだけしかいない屋敷の中でもルイスのそれは徹底された。
三人だけの空間に表情が緩んでしまうこともあるが、髪と眼鏡だけは絶対に寝るその瞬間まで崩すことはしないのだ。
それを少しばかり惜しんでいるウィリアムとアルバートの様子には勿論気付いているけれど、だからと言ってルイスなりの信念に基づいたゆえの行為を今更変えるわけもない。
そこには兄への執念ともいえるルイスなりの愛情が見え隠れしていた。
そんなルイスが眼鏡を外すとき。
それは素顔を見せる対象がもうこの世にいなくなることを確信しているがゆえの行動だった。
兄によく似たこの顔を疎ましく思った瞬間こそあったが、基本的に己の顔はルイスの誇りだ。
ルイスは自分が死ぬ直前までこの顔を大切に思うし、ウィリアムの弟であることを何より自慢に思うだろう。
誇示することは出来ないけれど、ウィリアムとルイスの関係を如実に伝える二人の顔は、まるで人を破滅させる悪魔のように美しい。
人間を唆し、悪の道へと陥れようとする存在は美しいというのが定説である。
そのあまりの美しさに惹かれることで、人は悪の道に足を踏み入れてしまうものなのだから。
気高く美しいウィリアムによく似た顔を持つルイスがその素顔を見せるとき、顔は純粋無垢な悪の笑みを浮かべている。
まるで普段は魅せ付けることの出来ないその顔を存分に誇示しているかのような、それはそれは美しい微笑みだ。
ウィリアムに似た素顔に笑みまで加えてしまえば、誰であろうと二人の関係に気が付いてしまうだろう。
誰にも知られたくない実の兄弟という関係をアピールするかのように、ルイスは死にゆく人間に対しては己の信念を緩めている。
どうせ死んで噂話も出来ないのだから、気を張る必要もないだろう。
眼鏡を外し、笑みを浮かべ、ウィリアムとよく似た顔で、ルイスはウィリアムと同じ世界を見つめている。
見ず知らずの誰かに自分の存在を知らしめることで、自分は誰より敬愛する人間の弟なのだと実感できた。
ルイスが大切に思うこの顔のまま兄の計画を実行できる幸福といったら、そこらの言葉で表現できるものではないだろう。
だからルイスは死にゆく相手には惜しみなく素顔を晒し、兄譲りの美しい悪魔の笑みを見せるのだ。
「さようなら」
ルイスはウィリアムの弟であることが何より嬉しい。
彼の弟であり続けるためなら何でもするし、彼の弟なのだから出来るはずだと何度も何度も念じ続けてきた。
兄のためならば彼によく似た大切な顔も焼くし、誇りすら感じていた「よく似ている」という言葉は途端に疎ましくなる。
全てはウィリアムのために、アルバートのために、家族のために。
それだけのために存在するルイスにとって、自分が悪となり悪を始末する立場になるのは喜ばしいことだった。
目の前で血を流して息絶える人間を見て気まぐれに別れの言葉を残してはみたものの、二人の兄以外に興味を持てないルイスはすぐにその場を離れていく。
まだ体温の残る肉体と冷たく消えていったさようならの響きだけが、血溜まりの中に残っていた。
(眼鏡貸してくれるかな、ルイス)
(え?兄さんがかけるんですか?)
(うん。駄目かな?)
(だ、駄目ではありませんが、少しとはいえ度が入っているので目には良くないと思います)
(大丈夫、少しだけだから)
(はぁ…少しだけでしたら、どうぞ)
(ありがとう。…うん、なるほど)
(何がですか?)
(何でもないよ。似合うかな?眼鏡)
(はい、とってもよくお似合いですよ!)
(僕も最近視力が落ちてきてね、眼鏡を作ろうかと思っているんだ)
(えっ!?)
(どうかした?)
(い、いえ何でもありません…兄さんの目が悪くなっているとは気付かず…)
(少し見づらい程度だけどね)
(そう、ですか…)
(まずい…兄さんが眼鏡をかけてしまっては、僕が眼鏡をかけている意味がなくなる…どうしたら…)
(ウィリアム、どうだった?)
(間違いないでしょうね、ほとんど伊達眼鏡です。度は大して入っていませんし、揺さぶりをかけたらすぐに動揺していました。大方、僕と似ている顔を隠そうと必死なんでしょう)
(やはりそうか…勢い余って整形するなどと言い出さなければ良いのだが)
(さすがにそこまでしないとは思いたいのですが、あの日すぐに顔を焼いたことを考えると楽観できないのも事実です。…まずは目を離さないよう見張っておくべきでしょうね)
(そうするとしようか。全く、僕たちの弟は時々随分と大胆な行動を取るから驚かされるな)
(えぇ。でもそんなところも可愛いのだから、受け入れるしかありませんね)
(ふ…そうだな)