三人で、ジェームズ・モリアーティになるのだから。
理想のために人を殺せるかと彼が問うたとき。
やっぱりこの人は僕が知っている他の貴族と何ら変わりない、ただの貴族なんだと思った。
自分の理想のためなら他の何を犠牲にしても構わないと考える傲慢なお貴族様。
僕達兄弟を引き取るときに言った「美しい世界を見せてほしい」という言葉は詭弁なんだと、やっぱりこの人も他の貴族と一緒なんだとそう確信した。
でも彼は兄さんの計画を聞いてからも顔色を変えることはなく、むしろ清々するとばかりに自らの役割を全うするため話を進めていく。
親と兄弟だけでなく屋敷に住まう使用人も全てを殺すという計画をすんなり受け入れている彼の精神は、兄さんとは同じ位置にあって随分と達観しているようだった。
「…どうして」
狭くて汚い屋根裏で淡々と交わされる密談に思わず声が出た。
けれど聞こえなかったのか、聞こえていて敢えて無視しているのか、兄さんからも彼からも何の反応もない。
僕達兄弟にはない色をした瞳を見つめ、見定めるように睨みつけていると兄さんから咎めるように手が伸ばされた。
大丈夫だよ、と声には出さず口を動かしている兄さんを見て、不思議な様子でこちらを見る彼の視線から逃れるように顔を俯ける。
兄さんが口にした計画はきっと彼、アルバート様を試すための踏み絵だ。
理想のために人を殺せるかと問うた彼に肯定を返し、その趣向返しに「理想のために身内を殺せるか」と問いかけたことくらい、僕が気付けたのだからアルバート様も当に気が付いていただろう。
気付いておきながら、家族ごと住み慣れた屋敷を燃やすことに賛成しているのだ。
兄さんはその様子に驚くこともなく笑みを深め、優れた頭脳で計画した完全犯罪を僕とアルバート様の三人で共有し始めた。
そうしてアルバート様の信頼を得るために兄さんが、兄さんの信頼を得るためにアルバート様が家族の誰かを直接手にかけることを決め、作戦の決め手となる燭台への細工の中心は僕に任された。
本音を言えば、兄さんの計画を聞いていたときまではアルバート様のことを嫌っていた。
理想の世界を見たいなんてどうせ建前なんだろうと、いざとなれば家族を殺す手は鈍るに違いないと決めつけていた。
けれど彼は兄さんが用意した踏み絵を戸惑うことなく踏み抜いた。
自らの手で実母を殺したアルバート様を見て、彼は心底この貴族社会を嫌っているのだとようやく理解できたのだ。
この人は普通の貴族とは違う、己の中の正義と倫理に基づいて行動できる人間なのだと、燃え盛る炎を前にして気が付いた。
振りかざすだけの権力にしがみ付くのではなく、理想を追い求めるために権力を使いこなすに値する人物こそが彼なのだろう。
決めつけて疑って嫌ってばかりいた過去の自分を恥じて、同時にそんな僕に歩み寄ろうとしてくれていたアルバート様を思い出して、途端に後悔が押し寄せる。
アルバート様はいつだって優しくて、兄さん以外に初めて僕を「ルイス」として見てくれた人だった。
「ルイス、煙を吸わないように気を付けて」
「はい、兄さん」
「もう少し炎が燃え広がってから出た方がいいだろう。あまり早く逃げても怪しまれる」
アルバート様から渡されたナイトガウンを羽織り、余る袖を捲って視界を覆う煙を見ながら息を詰める。
しゃがみこんで小さく呼吸していると、兄さんが庇うように覆い被さってくれた。
じりじりと焼け付くように熱い空気が少しだけ楽になるけれど、いつも守られてばかりの立場が悔しいと眉を顰めていたら、兄さんの背中を覆うようにアルバート様が庇ってくれる。
間に兄さんを挟んだ状態でアルバート様の緑を見つめていると、不意に微笑むように彼がこちらを見た。
四つ年上とは思えないほど大人びた、この状況に似つかわしくない貴族らしく華やかなお顔をしたアルバート様。
さっきまで僕が嫌っていた貴族の息子。
それなのに、その緑はどこまでも優しく透き通っているように見えた。
「大丈夫かい、二人とも」
「えぇ。ありがとうございます、アルバート様」
「大したことはないよ。あと少しの辛抱だ。我慢出来るね、ルイス」
「…はい」
僕が守ることの出来ない兄さんを守ることが出来るアルバート様を羨ましく思う。
いつか僕も兄さんを守れるくらい、アルバート様を守れるくらいに強くなりたい。
この二人は僕に優しくしてくれたたった二人の人だから、貰ったもの以上のことを返してあげたいのだ。
アルバート様の緑から目を逸らさず、僕に覆い被さってくれている兄さんの肩へ回した手に力を込める。
兄さん大丈夫ですかと問いかければ、大丈夫だよ、と返された。
「そろそろ玄関に向かいましょう。あまりここに留まっていても危ない」
「あぁ。行こうか、二人とも」
「歩けるね、ルイス」
「はい」
アルバート様が先導を切って、兄さんが僕の手を引いて部屋を後にする。
煌々と燃えている炎はまるで僕らをも焼き尽くそうと追いかけてくる。
サイズの合わない衣服に燃え移らないよう注意しながら二人の背中に付いていき、今の僕が彼らに返せるものはないかと必死に頭を働かせた。
兄さんは次男を、アルバート様は実母を殺して互いの信頼を得た。
頭の良い二人の間には、ここまでの僅かな時間で十分すぎるほどの信頼が出来上がったに違いない。
そしてその信頼の中に僕はいない。
けれど二人の中に僕という存在は無意識のうちに入り込んでいるのだろう。
兄さんにとっての僕は唯一で、兄さんを信頼しているアルバート様にとって僕は最低限信頼に値する人物ではあるはずだ。
僕は燭台に少しの細工をしただけなのに、二人の間に入ることを許されてしまっている。
そんなこと、許せるはずがないだろう。
だって僕は誰より優秀な兄さんの弟なのだから。
「…ルイス?」
「何でもありません、早く行きましょう」
つい足を止めて目の前で燃え盛る炎を瞳へ焼きつけるように見ていると、先を急ぐ兄さんに手を引かれて呼びかけられる。
赤い炎と紅い瞳を交互に見て、不意に思いついた考えに思わず笑みが浮かんだ。
どうしたのかと目を丸くさせる兄さんに笑いかけて、その手を引くように勢いよくアルバート様の背中を追いかけた。
「…出よう、崩れる」
住み慣れた屋敷なのに何の思い入れもないように言うアルバート様を冷たいとは思わない。
己の理想を追い求める気高い姿にいっそ尊敬すら覚えてしまう。
彼が過去に着ていたガウンの腰ひもを合わせるように締め直す兄さんを見て、先ほど浮かんだ考えに矛盾はないか懸命に頭を回す。
彼らと共犯を名乗るためには同じだけのものを背負わなければならない。
兄さんの計画をより完璧にする後押しをするために、今までの人生を捨ててモリアーティ家の次男として生きる兄さんの邪魔にならないために、この一年間を健康に過ごさせてくれたアルバート様のために。
またも足を止める僕に気付いた兄さんは後ろを振り返る。
「……ルイス?」
僕はその顔を見ずに崩れた屋敷の木材を手に取って、ためらいなく自分の右頬に押し当てた。
皮と肉が焼ける音と匂い、そして思っていた以上の痛みに全身の五感が集中する。
「ルイス!!」
衝撃で膝を崩した僕に駆け寄る兄さんとアルバート様の気配を感じる。
痛くて二人の顔を見られないけれど、きっと動揺と同じくらいに心配してくれているのだろうと想像がついた。
何をしているのか、と問いかけられても思うように口が回らない。
兄さんの計画を後押しするためだと言えば、きっと納得してくれるだろう。
彼とそっくりの顔を捨てたいことも、彼らの信頼に値するだけのことを返したいと思ったことも、今は気付いてもらえなくていい。
これは僕の自己満足であり単なるエゴなのだから。
正当な報酬とは何なのか、今ようやく分かった。
生きるのがつらくて死にたいと思ったときに支えてくれた兄さん。
僕の心臓を治すきっかけをくれたアルバート様。
「…それにこれは、僕から二人への報酬なんです」
僕の命を助けてくれた大事な二人への、僕の覚悟。
この傷がある限り僕は彼らへの恩を絶対に忘れないし、生涯愛しく思うだろう。
「僕の命を病から救ってくれた…」
だいすきなあなた達への、僕からの報酬。
「…ルイス」
まるで自分が傷ついたように表情を変える兄さんを励ますため意識して笑みを浮かべていると、二つの手が差し伸べられた。
一つは兄さんの手。
もう一つはアルバート様の手。
だいすきな二人から手を差し伸べられたことが嬉しくて、両手で彼らの手を握り何とか腰を上げて立ち上がった。
共犯で同士で家族。
兄さんとアルバート様の間に存在する信頼に僕が入りこめるとは思わないけれど、それでも彼らの共犯になることは出来た。
同じ理想を志す者同士で、偽りの関係とはいえこれからの僕達は家族だ。
兄さん以外の家族が出来るなんて初めてのことだけど、僕達はこうして生きていく。
三人で、ジェームズ・モリアーティになるのだから。
「…行こう。そろそろ危ない」
「はい。ルイス、後で手当てするからもう少し辛抱してね」
「必要ありません。行きましょう、お二人とも」
二人の手をぎゅうと握り、心配する兄さんの不安を拭うように笑いかける。
そうして僕よりも背の高いアルバート様を見上げると、兄さんと同じように心配を浮かべている表情が目に入った。
その顔を見た瞬間、今までの自分の冷たい態度を思い出してどうしようもなく恥ずかしくなる。
あれだけ彼を嫌っていたはずの自分が、今更アルバート様に懐こうなど都合が良すぎるのではないかと気付いてしまった。
家族になるけれど、アルバート様の弟という立場にあるけれど、僕は彼の家族になれるだけの存在ではない。
今まで優しくしてくれたのも、彼にとっての僕は兄さんのおまけのようなものだからついでだったのだろう。
そのことに気付いてしまった僕は、僕の手を力強く握ってくれているアルバート様の温かい手を思わず振り払ってしまった。
「に、兄さん」
「…うん、早く出ようか。行きましょう、アルバート様」
「…あぁ」
指先に残るアルバート様の体温を忘れないよう握りしめ、兄さんの背に隠れるようにして彼の視界から逃げていく。
僕よりも兄さんよりも大きな手に安心を覚えたのもつかの間で、僕にはその手に縋る権利など持ち合わせていないことが悲しくて辛かった。
ついでとはいえ優しくしてくれたアルバート様に、せめて嫌ってはいないのだということを伝えたいけれどどうすればいいか分からない。
兄さんの着ているガウンを握りしめて、さっきまで見ていた緑色を思い出して唇を噛みしめる。
そんな僕の様子に呆れたように息を溢した兄さんには気付いたけれど、傷ついたように僕を見ているアルバート様に気付くことはなかった。
「だっ、大丈夫か!?」
「ドクター、早く…っ」
「君達は…」
表向きは評判の良かったモリアーティ伯爵家で起こった突然の火災には、その人望を表すように夜間にも関わらずたくさんの人が集まっていた。
どの人もみんな驚きと心配そうな表情を乗せていて、こんなにもたくさんの人に注目されることに慣れていない僕としてはつい萎縮してしまう。
肩を強張らせて視線を彷徨わせていると、肩に温かい腕が回された。
兄さんの腕かと思い隣を見ても、こんな状況だというのに楽しそうに笑っている兄さんがこちらを見ているだけで、彼の腕ではないことが分かる。
そうであるならば、背中に回った腕はもう一人の人間のものでしかない。
「…アルバート。モリアーティ伯爵家長子、アルバート・ジェームズ・モリアーティ」
凛とした声で狼狽える街の人々を圧倒するようにアルバート様が声を出す。
長子、いずれは伯爵となりうるだけの気高さを十分に秘めた声だった。
「そしてその弟、ウィリアム・ジェームズ・モリアーティとルイス・ジェームズ・モリアーティです」
言い淀むことなくはっきりと言ったその言葉には、兄さんを伯爵家次男であるウィリアムだと誤認させるだけの迫力があった。
この瞬間、もう僕だけの兄さんはどこにもいなくなった。
僕だけの兄さんは伯爵家次男のウィリアムになって、アルバート様と血の繋がった弟に成り代わってしまったのだから。
そして僕は伯爵家に運よく拾われただけの元孤児の四男。
兄さんともアルバート様とも繋がりのない、ただの養子。
けれど、アルバート様が認めてくれた弟。
「…アルバート、様…」
この場で弟と呼ばれたことが嬉しくて堪らなかった。
アルバート様の家族だと言ってもらえたことが嬉しくて仕方ない。
兄さんの向こう側から腕を回して背中を支えてくれている優しい彼。
あれだけ嫌っていても構わず優しくしてくれたアルバート様に、これからは誠意を持って尽くしていきたい。
形式上ではない、彼の本当の弟になりたいと思った。
ウィリアムと名を変えた兄さんのためにも、この二人のためだけに存在する僕で在りたいと願う。
「ルイス、早く怪我の手当てをしてもらおう」
「…はい、ウィリアム兄さん」
手を引かれるまま兄さんに付いていき、爛れた皮膚の痛みを思い出す。
出来ることなら治らなければ良い。
ずっとこのまま僕の顔に彼らへの覚悟が残っていれば良いとそう願いながら、やってきた医師に頬の手当てを任せて肩の力を抜いた。
(ルイスはいつ見ても一生懸命に働いてくれているね)
(あの子も思うことがあるんでしょう。想像は付きますけど、ね)
(へぇ、さすが実の兄弟だ。僕にはあの子が何を考えているのかさっぱり分からないよ)
(ルイスはルイスなりに考えて行動しています。時々思いもよらない大胆なことをしますし、見ていて飽きませんよ。…アルバート兄さんにも、いずれ分かるときが来ます)
(そうかな。ルイスが僕に気を許してくれることはないだろうと覚悟しているくらいなんだけどね)
(とんでもない。ルイスが今あれだけ頑張っているのは僕とアルバート兄さんのためなんですから。兄さんに認められたくて頑張っているんですよ)
(僕に何を認めてほしいんだい?)
(それはルイス本人に聞いてあげてください。きっと照れながら答えてくれますよ)
(へぇ…?)
(ふふ)