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Kazu Bike Journey

Tokaido 東海道 37 (5/12/19) Yokkaichi Shuku 四日市宿/Ishiyakushi Shuku 石薬師宿/Shono Shuku 庄野宿

2019.12.06 09:25

(43) Yokkaichi Shuku 四日市宿 (続き)

(44) Ishiyakushi Shuku 石薬師宿

(45) Shono Shuku 庄野宿

(43) Yokkaichi Shuku 四日市宿

四日市宿は東海道43番の宿場で桑名宿から 3里8町(12.7km) の距離。本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠98軒、戸数1,811戸、人口7,114人。

四日市は工業都市で市内も近代的になって、旧東海道沿も開発され昔の街並みの名残は少ない。所々道幅が昔のままの狭い区間があり、そこには数軒ほど古い建物が残っている。

三滝橋

三滝川に架かる三滝橋を渡ると四日市宿中心に入る。四日市宿は観光地としてはあまり整備されておらず、宿場の史跡も少なく、どこからどこまでが四日市宿の範囲かがわからない。安藤広重の浮世絵はこの三滝橋付近から桑名湾を望んだ光景だそうだが、今では民家が立ち並び風景は全く変わってしまっている。

笹井屋

橋を渡ると戦国時代から460年もの間、名物の「なが餅」の商いを営んでいる笹井屋がある。まだ朝早いので開店前。長いからなが餅か?日持ちするからなが餅か?

問屋場跡

笹井屋から直ぐの所に問屋場跡があり、病院になっているが今はやっておらず、建物を無償で貸して資料館になっている。土日しか開いていない。

手差の道標

道の分かれる所に道標が残っている。文化7年 (1810) に建てたと刻まれ、別の面には、「すぐ江戸道」、また別の面には「右京大坂道、いせ参宮道」と指で方向まで示している。この指の標識はこの頃からあったのか、面白い発見。

諏訪神社

この神社は信州の諏訪神社からの分霊で建てられた。神社の前は東海道が通り、そこは参道になり、アーケードに商店街が並んでいる。昔は人の行き来が多く、賑わっていたのだろう。今はどうだろう。多くのアーケード街がシャッター街となって、往年の賑わいを失っている所が多い。まだ朝早く開店前だろうから、どの様なのかは分からずじまい。

興正寺

滝川一益がこの地方を攻める時に陣を置いた寺。その後、この寺は信長、秀吉、家康の庇護を受けた。

日永一里塚

江戸日本橋からちょうど百里、つまり100番目の一里塚があった場所。石標が家と家の間にあり、見落してしまい、引き返してようやく見つかった。ここで鈴鹿の語り部の会の皆さんと出会う。今日は語り部の研修会だそうで、新人語り部を旧東海道を案内しながら説明のポイントを教えている。新人といっても既にシルバー人材。この後も二度史跡で一緒になり、ちょとした立ち話をした。車での移動なので関宿まで行くそうだ。かなりの強行軍であまり話に時間が裂けないといい、土日祭日は、今日朝通った四日市宿資料館にいるので、来てくださいと言われたが、土日はまだ先なので行けないと謝った。多くの観光地でボランティアガイドに出会う。ほとんどがシルバー人材。歴史が好きでやっている人が多い。これは老後の生き方には非常に良いと思う。自分の知識を人に伝える事。継続的に勉強が必要な事。人とにコミュニケーションが取れる事などいい事が多い。老後はやってみても良いかとも思う。

名残の一本松

当時、街道のこの辺りは松並木があったそうだが、今は住宅街となり、松も無くなってしまった。一本だけ残った。これを名残の一本松と呼んで、地元の人は大切にしている。

日永追分

伊勢方面と京大坂方面への街道の分かれ道の追分。ここから伊勢街道が始まる。ここには標石だけでなく、伊勢の神宮遥拝鳥居が江戸時代に建てられた。伊勢にはいかない旅人もここで遥拝所として伊勢神宮へ遠くからではあるが、お参りをしたのだろう。湧き水があり、次から次へと地元の人が水を汲みに来ていた。水道水より美味だとの事。

当初は四日市宿を見終わったら、伊勢街道を通って伊勢に向かおうかと思っていた。しかし、もう少し旧東海道を走ってから伊勢に向かう事にした。多分、三つ先の宿場の亀山まで行ってそれから伊勢に向かう事になるだろう。

大蓮寺

北畠家臣の山﨑家により1569年に開基。曹洞宗の寺院。この寺も、織田信長の北勢侵攻の際に戦火に遭い焼失。その後再建された。

観音寺

この寺も天正3年 (1575) に、織田信長の軍に焼かれて、江戸時代、桑名藩 藩主松平定重の命で元禄4年(1691) に復興再建したもの。創建は古く、宇多天皇の皇胤といわれる慈恵大師良源により延長6年 (928) と伝わっている。ちなみに、寺の説明ではこの慈恵大師がおみくじの創始者だそうだ。そう聞くと、慈恵大師がどの様な意図でこのおみくじをやろうとしたのか気になる。何か背景とか思いがあるはずだが、それについては触れられていなかった。

小許曽神社 (おごぞじんじゃ)

小許曽神社は905年に編纂された延喜式のなかに3132社の一つとして記載されているので、創建はそれよりも前と言うことになる。かなり古くからある神社だ。それよりも驚きは、この時代に既に3000を超す神社が存在してリストまであったという事。現在では小古曽地区に氏子が約600軒と言うから、比較的安定した収入だろう。

菊屋本店

大正7年創業の和菓子屋。最中『采女の杖衝』が有名。采女の杖衝のエピソードをもとに作られた最中。そのエピソードはこの後に通る杖衝坂で...

杖衝坂 (つえつきざか)

杖衝坂を松尾芭蕉が馬に乗って越そうとしたところ、余りの急な坂の為、鞍もろとも転落してしまった。その状況を句に残している。

「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」この句通り、かなり急な坂で自転車を押して登った。距離が短いので難儀はしなかったが、馬に乗って登るのは大変だろう。落馬したのも納得できる。多分、落馬していたのは芭蕉だけではなかっただろう。

芭蕉の句碑と坂の上と下にある井戸。井戸にもエピソードがあり、説明板に書かれている。

血塚社

杖衝坂を登った所に血塚社という少しきみの悪い名の社がある。日本武尊の話に係る神社。その由来となった話が古事記にあるそうだ。日本武尊は熊襲・出雲を制圧した後、東征を行い、その後、尾張国に戻り伊吹山の神を退治に行くが昏倒。大和国への帰路でこの坂を衰弱した身体で登りきった際に足下が出血していた事に気づく。この場所で血を洗い落として止血したとされる。これがこの神社の名の言われだ。結局、大和国には辿りつけず、衰弱が激しく、能褒野 (のぼの) で亡くなったとされる。

采女一里塚

101番目の一里塚。

伊勢国分寺

国分寺跡は行けるところは必ず行くようにしている。地図上で旧東海道からそれ程遠くないので寄ってみる。国分寺跡は整備も終わり、もうすぐ一般公開をする予定とここにある博物館の係員さんから聞かされた。まだ公開していないので、見学出来ないのかと一瞬不安になったが、係員さんからは見学は問題無いと言われてほっとする。まだ公開前なので誰もおらず、貸し切りでの見学となった。

今までいくつも国分寺を見学して来たが、ほとんどのところが、ほぼ同じ構成になっている。今では、どこに何が配置されているかは頭に入っている。どこも建物の輪郭が解る様にしてあるだけの所が多い。見学としては、あまり楽しくない。そこで色々と工夫しているところもある。築地塀を復元している所、南大門を復元しているところ、ビジターセンターでCGを見れる所など。ここはまだそこまではしていないが、綺麗に整備はしている。それぞれの建物跡をまわり、写真におさめる。

(44) Ishiyakushi Shuku 石薬師宿

石薬師宿は東海道44番の宿場で四日市宿から 2里27町 (10.8km) の距離。本陣3軒、旅籠15軒、戸数241戸、人口991人。慶長6年 (1601) に東海道に伝馬制度が設定された時は、四日市から亀山までの21.5kmの間には宿場がなかった。交通量の増加し、宿場の必要性が高まり、元和2年 (1616) にまずは石薬師宿をつくり、更に数年遅れて庄野宿を開いた。

北町の地蔵堂

ここから石薬師宿が始まる。

大木神社

石薬師の氏神で10世紀には存在していた。延喜式にリストされている。(これに載っている神社を式内社と呼ぶそうだ)

小澤本陣跡

三つの本陣の内の一つ。ここも土日祝日のみ公開で、今日はしまっていた。

石薬師寺

宿場と同じ名前寺だ。宿場の名前はこの寺からきたのかと思っていたら、逆だった。この寺は歴史が古く神亀3年 (726年) の開創。本殿には空海 (弘法大師) が巨石に刻んだ薬師如来立像がある。(一般公開はしていない) この頃は西福寺 瑠璃光院という名前だった。信長の伊勢攻めの際に焼失し、現在の本堂は寛永6年 (1629年) に当時の神戸城城主 一柳監物が再建したもの。この頃に宿場の名をとり石薬師寺と改名した。この寺にはもう一つエピソードがある。源頼朝の弟の蒲冠者源範頼に関わるものだ。この旅で源範頼の故郷の浜松の龍泉寺を訪れた際に桜が植っていた。この桜はこの石薬師寺の桜の株分けのもの。龍泉寺で説明書きがあった事を覚えていた。(この寺での出来事だったのは忘れており、ここに来て気づいた次第) 源範頼が平家追討のため,西へ向かう途中,この石薬師寺で武運を祈願し,戦運を占うため,鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿して,「我が願い叶いなば,汝地に生きよ」と言って去ったが、この桜は根付いていたと言う言い伝え。境内は綺麗に整備されて紅葉が程よく色付き一層映えていた。

安藤広重が描いた東海道五拾三次の浮世絵でこの宿の題材になったのがこの寺。街道の突き当たりにあるのが石薬寺。

石薬師一里塚

102番目の一里塚。これから庄野宿に向かう。

今日は朝から雨だった。小雨になったり強くなったりだった。ここまで来てやっと晴れ間が出てきた。虹がかかっている。この後の天気は大丈夫だろう。

庄野宿へは田圃の脇道が旧東海道だろう。ほとんどが開発されている中、昔と殆ど変わっていない風景だろう。

(45) Shono Shuku 庄野宿

庄野宿は東海道45番の宿場で石薬師宿から 25町 (2.7km) の距離で道中2番目に短く、泊まる旅人も少なく貧しい宿だった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠15軒、戸数211戸、人口855人。何故、ここに宿場作ったのか気になる。石薬寺宿は四日市宿と亀山宿のちょうど中間地点にある。交通量が多く石薬寺で賄いきれなかったのか? しかし思うほど人はここに泊まらなかった? 役人の需要読み間違いか、それとも庄野宿の民が旅人をあてにして宿場になれる様運動した結果か? 後者のケースは近年でもよくある。観光客を見込み先行投資、見込み違いで倒産とか閑古鳥状態な所が.... しかもそういうところが多い。

旧小林家住宅

保存して資料館として活用している。4時閉館で、閉まったばかりで、中は見れなかった。


問屋場跡

人足や馬の手配場。

沢田本陣跡

この宿は本陣はここだけ。後は脇本陣が一つだけ。最低限の施設しか揃えていなかった。


高札場跡


助郷会所跡 (すけごうかいしょ)

新しい施設名にお目にかかった。助郷とは宿場でまかないきれない人馬を周辺の助郷村から動員する事で、その為の手続きを行う場所のことだそうだけ。あまり流行らなかった宿という割には問屋場以外に助郷会所まであったとはどういう事だろう。この宿の事情は分からないが、助郷の実態についての説明も見つけた。「五街道では享保以後も年を追うごとに助郷負担は増大。助郷役は農繁期に多く,また宿駅の不正な割当ても多く,宿と定助間で割付けをめぐる争論が多発し,この結果,助郷惣代を設け助郷会所で助郷利用を監視する宿が増大した。また,窮迫した定助村が休役を願うことが宝暦期 (1751‐64) には広範化し,代りに指名される村との間での争論も増大した。」とある。おそらくこの庄野宿の状況はこの説明に近かったと思う。不正使用の監視場と考えた方が筋が通る。

今日は三つの宿場を回った。みる所が多く疲れた。宿で旅日記の編集をし始めたが、すぐに眠くなりそのまま寝てしまった。旅も一ヶ月を過ぎると疲れが溜まってきているのかも知れない。