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Kazu Bike Journey

Tokaido 東海道 38 (6/12/19) Kameyama Shuku 亀山宿

2019.12.07 09:25

庄野宿から亀山宿まで

(45) Kameyama Shuku 亀山宿

[庄野宿から亀山宿まで]

女人堤防碑/従是東神戸陵碑

ここに神戸藩と亀山藩との境界を示す石標がある。こちらは神戸藩側の石標。ここは安楽川と鈴鹿川の合流地点で、江戸時代には毎年水害に悩まされていた。住民は堤防の建設を嘆願していたが、堤防を築くと一方は恩恵を得るが、他方の城下町側は水の流れが変わり増水時には浸水する恐れがある。これで結局、藩主の許可が出なかったが、打首覚悟で村の女衆のみで無許可で工事を進め、遂に完成。しかし女衆は捕らえられ、処刑となった。その処刑の日が来た。藩の家老の救済嘆願で、処刑寸前に早馬で処刑中止の知らせが届き命が救われたと言う。

安楽川

中冨田一里塚/従是西亀山領

亀山領の東端に103番目の一里塚がある。塚のところには亀山藩の境界線を示す石標が残っている。従是西亀山領と刻まれている。

安楽川に架かる和泉橋を渡る。江戸時代は少し上流の方に橋が架かっていた。

井田川駅

数日前から、しきりと日本武尊の史跡に出会している。旧東海道沿いのこの駅でも日本武尊の像があった。この地方では英雄視されているのだろうか?

日本武尊能褒野墓

駅で見た観光案内板に日本武尊の古墳がある事を発見。昨日通った血塚で日本武尊が力尽きて、この地方で亡くなった事を思い出した。ここがその終焉の場所だ。駅から3キロ程なので寄り道をする事にした。古墳を囲んで能褒野 (のぼの) 公園になっている。

早速、古墳の墓のある所に行ってみる。ここが日本武尊の墓かどうかは、古文書もなく長い間、謎であったが、宮内庁が明治12年にここを日本武尊の墓と認定したとある。根拠については特に書いていないのでその真偽はどうだろう。墓の入口には柵がしてあり、中に入れない様だったが、柵は正面だけで、脇からは入れそうなので、思い切って中に入り古墳の周りを歩いてみる。前方後円墳だった。形ははっきりと解る。周りは土塁で囲まれている。杉の木が鬱蒼と生えているので写真ではその形がうまく捉えられなかった。

能褒野神社

古墳に隣接して能褒野神社がある。古墳が日本武尊の墓と認定された明治時代に日本武尊を祭神として創建された神社。

見終わり少し早めの昼食を公園で取っていたら、地元の70歳ぐらいのおばさんに挨拶をすると、笑顔でどこから来たのと尋ねられ、それから話が始まる。聞かれもしない旅の話をした。そうすると、おばさんも定年後、自由に生活しているようで、色々と話が弾み半時間程付き合った。地元の人と話すのは楽しみの一つ。

谷口法悦題目塔

題目塔なるものが史跡としてあった。題目塔は初めて、何の事かわからない。調べてみると、南無妙法蓮華経と刻まれた石柱で鎮魂を目的とする供養塔で街道・寺院・刑場跡に多く建立されているそうだ。特に谷口法悦の題目塔は有名で、この人は熱心な法華信者で全国に100基もの題目塔を建てた。ここの題目塔は17世期末に建てられた。

和田道標

東海道と白子道の分岐点に1690年に建てられている。

火の見櫓/和田公民館

これは昭和に建てられたもの。昭和の物も今は立派に史跡になっている。ここに和田町の歴史の紹介板があった。

和田坂

しばらくすると緩やかな坂。ここは安藤広重の浮世絵にも描かれているそうだ。安藤広重は東海道五拾三次の浮世絵は数多く描いており、何種類もある。版画の出版元の名前で区別されている。最も有名で一般的なのは保永堂版東海道。その他、狂歌入東海道、行書東海道、有田屋版東海道、蔦屋版東海道などがある。和田坂は行書東海道の亀山で描かれている。

石上寺 (せきじょうじ)

延暦15年 (796年)、この地へ那智山熊野権現を勧請し、那智山石上寺と名付けたのが、始まりになる。永禄年中 (1567年 - 1569年) の頃、織田信長の伊勢進攻の兵火により焼失。その後、正保元年 (1644年) に再興し、その時のものが残っている。

和田神社

延暦年間にこの地に熊野権現を勧請し熊野社を創建された神社。

和田一里塚

104番目の一里塚で、片方が復元されている。

能褒野神社二の鳥居

この和田に今日午前中に訪れた能褒野神社の二の鳥居がある。大正15年に建てられている。何故ここに鳥居があるのか不思議だ。ここから能褒野神社までは4.3kmもある。歩けば一時間はかかる。

(45) Kameyama Shuku 亀山宿

亀山宿は東海道45番の宿場で庄野宿から 2里 (7.9km) の距離。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒、人口1,549人。城下町なのでもっと本陣や脇本陣が多いのかと思っていたが案外少なかった。何故かと思い調べてみると、伊勢神宮への道に関係がありそうだ。伊勢への参拝のルートは江戸からだと四日市宿から伊勢街道に入り、西の京からだと関宿から伊勢に向かう。この四日市宿と関宿の間の宿場は伊勢参拝の旅人は通らない。当然旅人の数は少なくなる。これが理由だろう。

露心庵跡

戦国時代の戦争での戦死者を弔った寺の跡。ここから西が亀山宿との標識があった。ただ、正式の入口の江戸口門にはまだ2km先にある。

江戸口門跡

ここは江戸からの宿場の入り口。延宝元年 (1673)に亀山城主板倉重常によって築かれた。東西120m、南北70mで、北側と東側に堀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。今まで通って来た見附跡や枡形などとは全く異なるほど大規模だ。江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけられていた。これがこれほどの規模であった理由だろう。当時の旅人もここでは、宿場入り口が物々しいので緊張して通行していたのだろう。

西町問屋場跡

旧舘家住宅

明治6年に商家として建てられ、今は文化財として、土日祝日のみ公開されている。今日は残念ながら平日。

京口門跡

亀山宿の西端で京都側からの入り口となる。ここも江戸口門と同様に亀山藩主板倉重常によって寛文12年 (1672) に完成。江戸口門より一年早い。亀山城総構の城門としても位置づけられていた。京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。門へ通じる坂道は安藤広重の浮世絵に描かれている。

亀山ではこの他にも亀山城に関わる史跡を見たが、それは、明日、亀山城を見学したレポートに含める。今日も宿につき旅日記編集にかかるも直ぐに眠りに落ちてしまった。