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 シルバーバーチの霊訓

死後の世界   

2019.12.07 01:00

古代霊は語る
第五章 死後の世界      

一八四八年のフォックス家における心霊現象が近代スピリチュアリズムのキッカケとなったことはすでに常識となっておりますが、物事の受け取り方や解釈の仕方は人によって異るもので、心霊現象をどう解釈するかという点に関しても、大きく分けて二つ、細かく分けると三つの観方があるようです。

二つの分け方は言うまでもなく肯定する者と否定する者の二者で、肯定する側はもちろんスピリチュアリズム、否定する側───少なくとも肯定することを躊躇している側の代表がSPR (Society for Psychical Research )という純粋の学術機関で、英米をはじめ多くの国にあります。

SPRの基本的態度は心霊現象を科学的に検討するということに尽きるわけですが、科学的というのはあくまでもこれまで物質科学について行われてきた科学的方法という意味であって、それを超物質の分野である心霊問題にそのまま適用しようとするところに無理があるようです。


これまで度々紹介しているマイヤースなども心霊研究に興味をもち始めた初期のころは英国SPRの会長までしたことがありますが、こんなやり方ではいつまでたってもラチが明かないと考えて、いち早く辞めております。

名探偵シャーロック・ホームズの活躍する探偵小説で有名なコナン・ドイル卿 A. Conan Doyle (本職は医師)や、ケーティ・キングと名告る美人物質化霊の出現した心霊現象の研究で有名なウィリアム・クルックス卿、あるいは英国を代表する世界的物理学者だったオリバー・ロッジ卿 Sir Oliver Lodge なども、それぞれにSPRの会長を務めておりますが、いち早く霊魂の存在を信じてSPRから離れていきました。

英国で Sir (卿)の称号がつくということは大変なことで、そうした名誉ある地位の人が、予期される非難をものともせずに霊魂説を認めたことは注目に値します。

ついでに言えば、私の師である間部氏はもともと子爵の家柄ですが、戦前、官憲から心霊と爵位のどっちを取るかと迫られて、あっさり爵位を棄てたという話を聞かされました。なぜか地上というところは昔から、あまりあからさまに真理を述べると迫害を受けるところのようです。

そもそもSPRが霊魂説に踏み切れないのは、従来の科学的方法で検討するかぎりでは証拠不十分ということに理由があるのであって、頭から霊魂説を否定しているわけではありません。

それはちょうど刑事事件で証拠不十分の故に〝疑わしきは罰せず〟で無罪、というのと同じようなものですが、無罪になったからといって犯人がいなかったということにはならないように、物質科学的証明が出来ないからといって霊魂の存在を否定するのは余りに短絡的です。


心霊実験を見ても、心霊体験を聞いても、霊魂の存在は火を見るより明らかなのに、いかんせん物的証拠、それも従来の科学的方法で立証できるような証拠がないという理由で、SPRは今なお霊魂説に踏み切れずに、単なる資料集めとその分類に時を費しておりますが、この調子ではまず永遠に結論の出る日は来ないでしょう。

コナン・ドイルも 「新らしい啓示」 The New Revelation の中で 「これだけのものを見せつけられて尚かつ信じようとしないようでは、その人間の頭の方がどうかしている」 と語気強く述べております。


さて、細かく分けると三つになると言ったのは、霊魂説を認める人にも大きく分けて二種類あると考えられるからです。その一つは心霊現象や霊能をただ興味本位に取りあげ、見た目に映る異常さ、意外さ、面白さを目玉にしてこれを一つの商売にしている人たちです。

心霊現象はたしかに魅力があります。霊魂の存在を信じるには物理実験を見るにかぎります。私自身もたった一度の実験会ですっかり霊魂の存在を信じるようになったのですが、問題はそのあとです。

死んでもなお生き続けているとなると、その世界はどんなところなのか、その世界とこの世はどうつながっているのか、神は存在するのか等々、興味と疑問はつきることを知りません。

それを追求していくのがスピリチュアリズムであり、心霊実験もその案内役としてはじめて正当な意義を発揮するのです。その点を理解せず、いつまでも現象ばかりをいじくりまわしている人がどんなに多いことでしょう。

こうした傾向は世界的に言えることのようです。拙訳『スピリチュアリズムの真髄』 の原著者レナードもその点を遺憾に思い、一種の警告を込めて The Higher Spiritualism 直訳すれば「より高度なスピリチュアリズム」と題したわけです。

私は、これは日本人にとってもいい警告になると信じて訳しましたが、これを更に一歩も二歩も先に進めたのが他ならぬシルバー・バーチです。

シルバー・バーチは徹底して話題の中心を道徳、倫理、哲学に置き、心霊現象に関してはホンのちょっぴりしか述べていません。

私の編纂もその影響を受けて、これまでご覧いただいたように、最初から非常に固い内容のものばかりになっておりますが、シルバー・バーチ霊言集全十一冊の内容は二、三、四章の表題の順に比重が置かれていると考えていただけばいいわけです。


さて本章では少し趣きを変えて、霊界とはどんなところなのか、死んだらどんなところへ連れて行かれるのか、といったことについてシルバー・バーチに聞いてみることにしましょう。

 この問題つまり生命の死後存続の問題を扱うに当って人間が一ばん心しなければならないことは、現実の地上生活の常識を一たん棄て去ることです。全てを白紙の態度で素直に受けとめることです。

成人した人間はこの物的地上生活に慣れ親しんでいるために、こうした生活を当り前と思い、さらには、こうした常識に合わないものは変だと思い、異常だときめつけます。

しかしよく考えてみますと、われわれとてもこの世に誕生した時は、ほとんど無に等しい状態だったのです。乳房を吸うという本能以外は何の能力もない状態だったのです。

それがやがて目が見えるようになり、寝返りをうつようになり、ハイハイをするようになりながら言語能力や立体感覚を発達させてきたのです。

その道の専門書によりますと、ハイハイの仕方と脳の発育との間に密接かつ重要な関係があるとのことです。さらに発達して歩いたり走ったり、ころんだり泣いたり、ケンカしたりいじわるしたりされたりすることにも、それなりの意味があるらしいのです。


たとえば漢字を理解する能力───ただ単に暗記する能力とは別の、いわゆる語感───は、幼児期にころんだり、でんぐり返しをしたり、鉄棒にぶらさがったり、水に頭から飛び込んだりする運動の中で発育しているらしいのです。

私自身の教育体験からもそれを実感することがありますが、最近の教育がそうしたことには無とん着に、実生活からかけ離れた詰め込み教育に終始していることは問題です。

つい話がそれてしまいました。人間生活が三次元の世界の環境で作り上げられていることを述べようとして脱線してしまいましたが、しかし、われわれ成人はそういう過程を無意識のうちに体験し、すっかり地上生活に慣れ切っているわけで、こうみてきますと、

地上生活というのは実に特殊な環境と条件の中での生活であり、これをもって常識と考えたり、当り前と思ったりすることは極めて危険なことだとも言えるわけです。

ここで私が思い出すのは例のオリバー・ロッジの 『幻の壁』 です。すでに第三章で紹介しましたが、私は煩をいとわず、ここでもう一度引用しますので、ロッジの言わんとするところをよく理解していただきたいと思います。

私に言わせればロッジの考えはいわば〝死後の問題のコペルニクス的転回〟であり、こうした転回が出来ないと、レナードの言う Higher Spiritualism は理解できないと思うのです。


『われわれはよく〝肉体の死後も生き続けるのだろうか〟という疑問を抱く。が一体死後というのはどういう意味であろうか。

もちろん肉体と結合している五、七十年の人生の終ったあとのことに違いないのであるが、私に言わせれば、こうした疑問は実に本末を転倒した思考から出る疑問にすぎない。というのは、こうして物質をまとってこの世にいること自体が驚異なのである。

これは実に特殊な現象というべきである。私はよく〝死は冒険であるが、楽しく待ち望むべき冒険である〟と言ってきた。確かにそうに違いないのであるが、実は真に冒険というべきはこの地上生活の方なのである。地上生活というのは実に奇妙で珍らしい現象である。

こうして肉体をまとって地上に出て来たこと自体が奇蹟なのだ。失敗する者はいくらでもいるのである』


〝真相〟というものが見た目や常識による判断とはまるで違う、ということは科学の世界では珍らしいことではありません。コペルニクスの地動説がその最たるものです。

正直いって今の世でも誰れがどう見たって太陽の方が地球のまわりを回っているようにしか見えませんが、実際は足もとの地球の方が太陽のまわりを回っているのです。

それも時速一六〇〇キロという猛スピードです。これがまた人間の常識では信じられません。が事実であればそう信じるよりほかはありません。

もろもろの霊界通信によりますと、死後の世界は地球に近いところほど環境が地上に似ているということです。死の直後に置かれる環境などは地上とそっくりだそうです。地面を踏みしめて歩くし、山もあれば川もある。花も木もあり、

それが上の界へ行くにつれて美しさを増し、さらに神々しさを感じるようになっていき、さらに上の世界へ行くと地上の言語や常識では表現も理解もできなくなると言います。

そうみてきますと、どうやらロッジが言うように、われわれはホンの束の間の冒険をしに地上に降りて来ているというのが真実のようです。霊界が本来の生活の場で、ホンの束の間だけ、特殊な体験を求めて地上に来ているにすぎないということです。

もしそうであるとすれば、地上の苦も楽も、富も貧乏も、また違った目で見ることが出来るわけで、古来、幾多の僧侶や行者が難行苦行をしながら悟ろうとした人生の謎も、スピリチュアリズムを正しく理解されれば、たとえば数学の難問がちょっとしたヒント一つでスラスラと解ける如くに、簡単に悟ることが出来るわけです。


私の師である間部詮敦氏は浅野和三郎氏の四魂説、すなわち人間は肉体の他に幽体、霊体、神体又は本体という三種のエーテル体があり、それぞれの生活の場として物質界、幽界、霊界、神界があるという説を知った時、

それまで愛読していた古今東西の人生の書や哲学書を全部捨ててしまったという話を聞かされました。捨てたというのは比喩的に言ったのでしょうが、

たしかにその四魂説やマイヤースの類魂説、シルバー・バーチの因果律や再生説は、古来の理屈っぽい説教や難解な哲学書を超越した、まさに快刀乱麻を断つが如き、いわば宇宙の謎を解く大方程式であるように思えます。そこにスピリチュアリズム本来の妙味があり真髄があるわけです。

 ではその幽界、霊界、紳界とはどんな世界なのか。これを浅野氏とマイヤース、それに今回新らしく紹介するトウィーデールという人がまとめた霊界通信によって検討し、最後にシルバー・バーチで締めくくってみようと思います。それにはまず、さきに述べた浅野氏の四魂説から説きおこすのが一番理解に便であるようです。

 

これから氏の 「心霊研究とその帰趨」 の第一章及び第二章から引用しようと思うのですが、その前にひとこと前置きしておきたいことがあります。

この四魂説と四界説は浅野氏が晩年にもっとも力を入れた課題であったようで、氏自身は確固たる自信をもちながらも、これを支持してくれる説が西洋に見当らないことに一抹の不安と不満を抱いておられたことを、弟子である間部先生から聞いておりました。

そのうち私は米国のルース・ウェルチ女史の Expanding Your Psychic Consciousness by Ruth Welch (『心霊的意識の開発』)に四魂説をずばり図示したイラスト(第2図)が出ているのを発見して早速お見せしたところ、

先生は飛び上がらんばかりに驚ろかれ、日頃あまり感情を表に出されない方なのに顔面を紅潮させて〝よくぞいい本を見つけてくれた〟と言ってよろこばれたことを思い出します。

その後、英国から取り寄せたトウィーデール氏の News From the Next World by C.Tweedale (『他界からの通信』) の中にこんどは四界説をずばり図示したイラスト(第1図)を発見しました。

その時はすでに間部先生は霊界の人となっておられましたが、私はこれで浅野氏説がスピリチュアリズムの定説ともいうべき確固たる説であることを確信した次第です。

まず四魂説について浅野氏はこう述べています。(意味に変化を来たさない範囲で読み易く書き改めます)


『(一)人間はその肉体の内に超物質的エーテル体を有っている。但しエーテル体とは概称であって、詳しくいえばそれは幽体、霊体、本体の三つに大別し得る。 

(二)肉体、幽体、霊体、本体の四つは滲透的に互いに重なり合っているのであって、各個に層を為して遍在しているのではない。

(三)これらの四つの体はいずれも自我の行使する機関であって、それぞれの分担がある。すなわち肉体は主として欲望、幽体は主として感情、霊体は主として理性、本体は主として叡智の機関で、必要に応じてこもごも使い分けられる。

(四)概してエーテル体は非常に鋭敏に意念の影響を受け、その形態は決して肉体の如く固定的ではない。又その色彩、なかんずく感情の媒体である幽体の色彩は情緒の動きにつれて千変万化する。

(五)エーテル体は時空を超越している。少なくとも時空の束縛を受けることが極めて少ない。故にその活動は極めて神速自在である。

(六)エーテル体は人間の地上生活中においてもしばしば肉体を離脱するが、そうした場合には必ず白色の紐で肉体と連絡されている。死とは右の紐が永遠に断絶した現象である』


次に四界説について───

『四大界──人間の自我表現の機関が四大別されるように、人間のおかれる環境もやはり四大別し得るようである。

すなわち 

(一)物質界、

(二)幽界、

(三)霊界、

(四)神界である。

右の中、物質界はわれわれが五感をもって日常接触する世界であるから、これはここに説く必要がない。説明を要するのは幽界以上である。

幽界───とは、心霊研究の立場からすれば要するに地球の幽体と思えばよい。地球に限らず天地間の万有一切は自然法則の束縛から免れることはできない。従って地球にもむろん幽体もあれば、霊体もあり、又その本体もあり、互いに滲透的に重なり合っている。

これらのすべての中でその構成分子が一ばん粗く、且つその容積が一ばん小さいのはむろん地球の物質体である。地球の幽体ともなればその構成分子は遥かに微細で、内面は物質的地球の中心まで滲透し、また外面は物質的地球のずっと外側まではみ出している。

その延長距離についてはまだ定説はないが、しかし地球の幽体が、他の諸天体、少なくとも太陽系所属の諸天体の幽体とどこかの地点で相交錯しているのではないかと思われる節がある。「ステッドの通信」の中にこんな一節がある。

「私達の住む世界 (幽界) は地上の人達が考えるところとは大分違う。幽界の居住者は物質的生活が営まれる諸々の天体からの渡来者である」 

 ───中略───

他にもこの種の通信はまだ沢山ある。

で、幽界について従来一般人士が抱いている観念には大々的修正を要するものがある。その要点をのべる。

(一)幽界は肉体を有する人間にとっても密接な関係のある境地である。

幽界はもちろん肉体を棄てた帰幽者の落ちつく世界には相違ないが、しかし人間は生前においてもその幽体を用いて間断なくこれと交渉を有している。各種の黙示又はインスピレーション、思想伝達現象、交霊現象、霊夢等は殆ど全部幽界と交渉の結果である。


(二)幽界を単に距離で測ろうとするのは誤謬である。仏者のいわゆる西方浄土、十万億土等はむしろ単なる方便説で、実際には当てはまらない。幽界は要するに内面の世界で、場所からいえば大地の内部にも、又その外部にも亘っている。従ってわれわれの居住する物質界とても、その内面は立派に幽界でもある。


(三)幽界はまだ途中の世界である。

幽界は物質界に比べれば比較にならない程自由であり、思念する事は直ちに具象化するといった世界であるが、しかし理想を距ることまだ甚だ遠く、とりとめのない空想又は熾烈なる感情等によって歪曲された千変万化の現象が盛んに飛躍出没する境地らしい。

旧式の宗教家は、信仰次第で死後人間が直ちに光明遍照の理想世界に到達し得るように説くが、あれは事実に反している。


霊界───となると、そろそろ地上の人間の思索想像に余るものがある。むろんわれわれの内にも未発達ながら霊体はある。

故に一切の欲念や感情を一掃し、冷静透明、あたかも氷のような心境に入りて沈思一番すれば、霊界のある一局部との接触が敢えて不可能というわけではないが、しかし実際問題となれば、なかなか思うように行かないのが現在の地上の人類の状態である。

神人合一だの、神は内にあるのだと、口に立派なことを述べるものは多いが、いずれも実は浅薄卑俗(センパクヒゾク)なる自己陶酔にすぎぬ。

その何よりの証拠には、そう広言する人達から殆んど何ら偉大なる思想も生まれず、又何ら破天荒の発明又は発見も現れないではないか。要するにその説くところは単なる理想であり、空想であり、口頭禅であって、実際の事実ではない。

実際問題とすれば、現在の地上の人類として僅かに期待し得るのは霊界とのすこぶる狭い、局部的の接触である。それもよほど優れた天分の所有者が刻苦精進の上でできることである。

首尾よくこれに成功した人がつまり人間界の偉大なる哲学者、科学者、思索家又は発明家達である。何分にも地上の人間は鈍重なる肉体で包まれ、又きまぐれな幽体で蔽われているので、なかなかそれ等を突破して、色も香も、歪みも、又錯(あやま)りもない、明鏡のような純理の世界には容易に突入し得ないのである。

が、この霊界とてもまだまだ理想の世界ではない。この境地の最大の欠点は、それぞれの局面に分割されていることである。ある与えられた筋道の見通しはつくが、他の方面のことは少しも判らないのである。


神界───つまり地球の本体となると、いよいよ以って筆をつくすべき余地がない。強いて想像すれば、それはおそらく他の諸天体と合流同化し、玲瓏清浄、自在無碍、何もかも見通しのつく光明遍照の理想境とでも言うより外に途がないであろう。死んで幽界に入ったステッド等も次のように歎息している。

「私は生前こう考えていた。人間は死んだらすぐ神と直接交通を行い、自己の取るにも足らぬ利害損失の念などはきれいに振りすて、礼拝三昧、讃美歌三昧にひたるであろうと。そういった時代も究極においては或いは到達するかも知れない。

しかし現在のわれわれはまだそれを距ること甚だ遠い。人間の地上生活は言わば一つの駅場、われわれの進化の最初の駅場にすぎない。現在の私の幽界生活は第二の駅場である。われわれはまだ不完全である。われわれはまだ個々の願望欲念を脱却し得ない。

われわれは依然として神に遠い。要するに宇宙は私の想像していたよりも遙かに広大無辺であり、その秩序整然たる万象の進展は真に驚歎に値する・・・・・・』


人間は自己の置かれたる環境がいかに広大であるかを知り、成るべく奥へ奥へと内観の歩を進むべきであるが、同時によく自己を省みて、かりそめにも自然の秩序階級を無視し、社会人生に何の貢献をも為し得ない誇大妄想の奴隷になることを避けねばならぬ。』


浅野氏の説はきわめて概略的で抽象的に過ぎ、理屈の上では成るほどと思っても、これだけでは実感をもって理解することはとても無理です。それを補うためにトウィーデール氏の「霊界からの便り」を紹介したいと思います。

これは英国国教会の牧師であるトウィーデール氏が、霊能者である奥さんを通じて起きた各種の心霊現象をまとめたものですが、中でも注目されるのが自動書記通信です。

通信者はコナン・ドイルを始めとして、小説家のエミリー・ブロンテ、ピアニストのショパン、バイオリン製作者のストラドバーリ、天文学者のロバート・ボール等、世界的に著名だった人のほかに二、三の知人や縁者から成っていて、それぞれ個別に質問を書いて出し、その用紙に書かれた回答をまとめたものです。


霊媒の先入観が入るのを防ぐ意味で質問の内容は前もって奥さんに知らせず、入神してからさっと書いて出したといいますが、回答はすぐさま書かれ、またそのスピードがものすごくて、時には用紙が破れることもあったということです。

ではその中から他界直後の様子や霊界の位置などに関する興味深い部分を訳出してみましょう。果たして本当にショパンなのかドイルなのかといった問題はトウィーデール氏が徹底的に探りを入れておりますが、ここではあまり名前にこだわらずに、その内容に注目していただきたいと思います。特に天孫降臨をズバリ指摘している箇所は日本人には興味津々です。

 

〇死の過程と意識について 


問「死んで霊界へ行くという現象は怖ろしいですか、苦痛ですか」

ストラドバーリ「私の場合はただ眠くて夢見る心地でした。杖を持った天使が見えました」


問「まだ肉体の意識のある間の話ですか」

ストラドバーリ「そうです。死ぬ前です。そして死んでからもその霊はずっと何年も私に付き添っています。ずっと高い世界の方だそうで、多くの人のために尽くした人に付き添うために派遣されているとのことです。当分の間付き添うことになるとのことでした」



問「では死は別に苦痛ではなかったわけですね」

ストラドバーリ「全然」 (ストラドバーリは老衰死)

ショパン「死そのものは少しも苦痛でないし恐ろしいものでもないが、私の場合は死ぬ前の方がつらかった」 (ショパンは結核で死亡)


問「そうでしたね。で実際に死ぬ時はどうでした」

ショパン「自分のことしか知らないが、私の場合は最後は何もかもわからなくなった。ただただ深い眠りに落ちていった」

ドイル「私の場合は大変な劇痛と突然の忘却でした。発作が来た時は悶え苦しみました」(咽頭炎と心臓病のこと)


問「劇痛はどこに感じましたか」

ドイル「全身を走り抜けたようです」


問「忘却というのは何のことですか」

ドイル「深い眠りです。目が覚めたら川岸の土手の上にいました」

ブロック(トウィーデール氏の知人)「そうね、私の場合は半ば意識がありました。死ぬ一時間前まで感覚が残っていましたが、しゃべることは出来ませんでした。晩年はつらかったから死ぬのはうれしかったです」

タビサ(生後数週間で死亡した女の子)「死ぬということは私には何のことかわかりません。何も思い出せません。気が付いたら椅子の上の方の高いところにいたということだけです」

(霊視すると今では十七、八歳の娘に成長しているとのこと。この子の通信は水子の問題にいろいろと示唆を与えてくれます───編者)


問「だからタビサちゃんにとっては、まだ死んだ記憶がないということね」

タビサ「そう、そうなの」


〇死後の身体について

問「今あなたが使用している身体は形態、容貌、機能ともに地上時代の肉体とそっくりですか」

ストラドバーリ「今の身体はあなたの肉体とまったく同じで実感があります。実にラクです。目はちゃんと見えます。ただ心の方が地上より大きく作用します」


ドイル「地上時代の肉体よりはるかに美しいです。しかもこうして地上に降りて来られます。機能的にも霊体の方が具合がいい。有難いことに痛みというものを感じません。地上の人生を終えたその場から今の人生が始まったわけです。


ブロック「このからだは地上の肉体と少しも変わりません。ただし、がっかりさせられることが多い。あれ持って来いこれ持って来いと、うまいものを注文するのだが、食べてみるとまったくうまくない」


タビサ「私はずっと今のままよ。そちらで私がどんなからだをしていたか知りません。ただこれだけは言えます。みんなの目には見えなくても、私はおうちの中をスキップして回ったり歌ったりしているということ」


〇飲食と睡眠について

問「エーテル体を養うために必要なものがありますか。食べるとか飲むとか眠るとか・・・」

ストラドバーリ「そうしたいと思わないかぎり飲むことも寝ることもしません。その気になれば何でも出来ますが・・・」


問「じゃ、あなたは食べることも寝ることも飲むこともしないわけですか」

ストラドバーリ「時にはすることがあります。寝ようと思えば寝られます」


ショパン「寝るも飲むも思いのまま。行くも戻るも思いのまま」 (ショパンはよく詩文で通信を書いていますが、意味を伝える程度に訳しておきます──編者)


問「では呼吸もしているわけですか」

ショパン「然り」


ドイル「飲食の必要はありませんが、欲しいと思えば摂取できます。成長するにつれて地上的なものを欲しがらなくなり、求めなくなり、もっと高尚なものを求めるようになります」


ブロック「欲しいものは何でも手に入りますが、我慢も出来ます」


問「エーテル体を維持する上で必要ですか」


ブロック「必要です。ですが、摂取するものもみなエーテル質です。私は今もって幻影に悩まされております。これは、聞くところによると一種の罰だそうです。もっとも私の場合は地上の人のためになることもしているので、まだお手やわらかに扱ってくださっています」


ショパン「本当に欲しくなれば食事をすることもあります。が欲しいだけ食べればそれでやめます」


タビサ「私はやりたいことは何でもします。食べるし、飲むし、寝ることもあります。でも、そうしなければならないことはありません。必要なものは全部空中(エーテル)から摂取していますから・・・・・・」


〇時間の感覚について

問「時間を意識することがありますか。たとえば記録したり約束したりする上で時間の経過を計るための尺度が必要ですか」


ストラドバーリ「地上の時間とは異りますが、それに相当するものはあります。私たちの時間は太陽時間で、光の変化で判断します」


問「光の変化は何が原因で生じるのですか」

ストラドバーリ「あなたがたが見ている太陽です」


ショパン「時間はあります。さもないと大きな集会に参加する用意が出来ません。幽霊にも時間が分かることはあなたがたもよくご存知のはずです。だって必ず真夜中に出るでしょう」


問「地上へ来られる時はやはり地上の時計を見て準備をされるのですか」


ショパン「地上に来る時はそうしますが、それ以外の時は地上の時刻は知りません」


問「ストラドバーリは霊界では太陽光線の変化で時間を知ると言っていますが・・・・」


ショパン「その通りです。太陽の光で動いています。時間が来ましたので失礼します」


ドイル「こちらでも太陽の光による時間があります。地上の時間も太陽の働きによっているわけですが、太陽に関する認識に大きな違いがあるのです。あなたがたにはちょっと理解できないことがあります。約束の時間はちゃんときめられます」


問「地上の時刻もわかりますか」

ドイル「分かります。地上に近いですから」


 〇霊界の位置について

問「いま現在どこに住んでおられますか。霊界というのは一体どこにあるのですか」


ストラドバーリ「地球と同じような天体上にいます。私は今あなたのすぐ近くにいます。私にはあなたの姿はよく見えますが、そちらからは見えないでしょう。霊能者は別ですが。私たちも天体上にいます。太陽も見えます。あなたがたが見ている太陽と同じです」


問「界は幾つありますか」

ストラドバーリ「七つ」 (第1図参照)


問「その七つの世界はミカンの皮のように、あるいは大気のように地球を取りまいているのですか」 


ストラドバーリ「そうです、でも肉体をもった者はここには住めません。地球は人間が住むようになる以前は高級な霊的存在、あなたがたの言う天使が居りました(聖書の)創世記にある通りです」


問「ということは当時の地球は高級霊の通う場所だったわけですか」


ストラドバーリ「その通りです。物質化した霊魂がそのまま居残ったのが最初の人類です」


問「あなたのいる界は地表からどの位の位置にありますか」


ストラドバーリ「それは私には分かりませんが、かなり近いようです」


問「界と界との境はなにかゆか floor のようなもので仕切られているのですか」


ストラドバーリ「空間 space によって仕切られています」


問「それらの界が地表の上空にあるとなると、人間の目には透明なわけですね。それを通して星とか太陽とか惑星を見ているわけだから・・・・・・」


ストラドバーリ「ご説明しましょう。人間の視力はある限られた範囲の光線しか受けとめることが出来ません。霊的なものは人間の目には映らないのです。

 

死んでこちらへ来ると最初はどこへ行っても違和感があり新らしいことばかりですが、感覚が慣れてくると、こちらの土地、海、草木なども地上とまったく同じように実感があることが分かり、しかもはるかに美しいことを知ります」


ショパン「私の住んでいるところは地球から遠く離れています。円周の外側にあります」


問「何の円周ですか。地球のことですか」


ショパン「地表から完全に離れています。こうして通信するために降りてきている間はあまり離れていません」


問「エベレスト(八八四八メートル)がひっかかりますか」

ショパン「いいえ」


問「どの位の距離がありそうですか」


ショパン「およそ五万メートルです。ですが、距離とか空間はわれわれが移動する際は全く関係ないようです。心に思えばもうそれでそこへ行っています」


ドイル「難しい問題です。同じ国の人間でも、その国についての説明をさせれば一人一人違ったことを言うでしょう。霊界についても同じで、霊によって言うことが違ってきます。私に言わせれば、私は今あなたの上の空中にいます」


問「距離は地表からどの位ですか」

ドイル「分かりません」


問「地表に近い大気圏のあたりが幽界より上の界へ行くための準備をする所、いわゆるパラダイスですか」(第1図)


ショパン「そうです。はじめは地上で過します。同じパラダイスでも地上から離れて第一界(幽界)に近い部分もあるわけです」


問「キリストも、それからキリストと一緒に処刑された例の盗っ人も、そこで目を覚ましたわけですか」


ショパン「そうです。キリストはそこから戻って来て姿を見せたわけです」


問「そこは地球の表面になるのですか」


ショパン「そうです。中間地帯です。界と界との間には必ずそういうものがあります。人間はみな地上にいた時と同じ状態で一たんそこに落着きます。がそこで新らしい体験をさせられます。

地上でも、九死に一生を得た人がその瞬間にまるでビデオを見るように自分の全生涯を眼前に見たという話がありますが、あれと同じで、地上生活の全てを、夢でも見るように、見せられます。犯した罪や過ちを反省し改めさせるためです。それをしないと先に行けないのです。反省しない人間は下降していきます」


ブロック「私がここで見たものは、実にきれいな青色でした。どう呼べばいいのでしょうか。何か島みたいで、青色をしていて、いかにも健康に良さそうな感じでした。私は自分がどこにいるのか心細くなって付き添っていた人(指導霊)に〝ここは一体どこですか〟と聞いてみました。

すると〝ここは二つの界の中間境だ。そのうち慣れるだろう。大体ここに来る人間は仕事仕事で生涯を終った者ばかりだ〟という返事でした。さらにそのあと出会った人はこんな風に話してくれました。

〝心配しないでよろしい。大丈夫ですよ。あなたはどうも宗教心が足らなかったようだが、心がけはまずまずだった。ここではその心掛けが大切だ。生まれた環境は自分の責任じゃあない。宗教的でない環境に生をうければ宗教心は芽生えにくいのは当然だが、そうした逆境の中にあって良い行いをすれば、その価値も一層増すというものだ。何事もその時の条件を考慮して評価されるわけだ〟と。

これでおわかりでしょう。ドイルも云っていたように、要するに大切なのは教義ではなくて行いです。地上の人間が Love(愛、慈しみ、思いやり)の真の意味を理解すれば戦争など起こらないのですが・・・・・・」


編者注──浅野和三郎氏の著書の引用文の中に〝ステッドの通信〟というのがありましたが、これは The Blue Island by W. T. Stead のことです。これは文字通りに訳せば〝青い島〟で、仏教でいう極楽浄土、西洋でいう、パラダイスに相当するようです。

ここは地上生活での疲れや病いを癒す一時休憩所のような場所であって天国 Heaven とは違います。天国と呼ぶにふさわしい界は浅野氏のいう神界、マイヤースのいう超越界でしょう。こうした問題はあとで扱います。 

さてトウィーデール氏はパラダイスについてドイルに尋ねます。


問「あなたは全ての霊は一たんここに来るとおっしゃいましたね」

ドイル「言いました」


問「ということは善人も悪人もみなここに来るということですか」


ドイル「その通りです。キリストが刑場で隣の盗っ人にこう言っているでしょう───〝今日この日に再び汝とパラダイスにて相見(アイマミ)えん〟と」


問「そうするとパラダイスも善人の行く場所と悪人の行く場所とに別れているわけですか」 


ドイル「地上に善人と悪人がいて悪いことをした人間は刑罰を受けるように、パラダイスでも善人は幸せを味わい、悪人はよろこびとか幸福感を奪われるという形での刑罰を受けます。

さらに、犯罪を犯した人間はその現場に引きつけられていきます。故意の殺人者は例外なく地縛霊になります。罪を悔い改める心が芽生えるまでは、何時までもその状態から抜け出られません。それはそれは長い間その状態のままでいる人間が大勢います」


問「そちらで見たり聞いたり触ったりする感覚は地上と同じですか」 


ドイル「肉体よりずっと鋭敏です」


問「今この部屋にいますか、それとも遠く離れたところにいるのですか」

ドイル「あなたのすぐうしろにいます」


問「私と同じように実体がありますか」

ドイル「ありますとも、立派に実体があります」


問「何百マイルも何千マイルも遠くから通信を送っているわけではないのですね」

ドイル「(皮肉たっぷりに)火星から通信しているわけではありませんよ」


問「部屋にあるものが全部見えますか」

ドイル「見えます。あなたがたよりもよく見えます。視力が肉眼より鋭いですから」


問「霊魂は霊能者の肉眼を通してしか地上のものが見えないのだという人がいますが・・・」

ドイル「とんでもない! あなたがたと同じように、いやそれ以上に、私たちにとって地上のものはきわめて自然に見えます」

最後に英国の著名な天文学者だったロバート・ボール卿 Sir Robert Ball の学者らしい回答を紹介します。


問「天文学者であられた卿にお伺いしますが、霊の世界は地球の近くにあるのでしょうか」

ボール「地球の外側をぐるりと取り巻いています」


問「地球からの距離はどのくらいでしょうか」

ボール「これは難しい問題です。三十キロ程度の近いものもあれば百キロほど離れているものもあり、遠いものになれば何千、何万キロも離れています」


問「人間の肉眼には透けて見えるわけですか」

ボール「肉眼は限られたものしか見えません。霊の世界は肉眼にも天体望遠鏡にも映りません」


問「例えばガラスのコップのようなものを考えてもいいでしょうか。実体があり固いけど、透明であるという・・・・・・」


ボール「なかなかいい譬えです」

問「そうした世界はどの天体にもありますか」

ボール「あります。どの恒星にも惑星があるように、どの天体にもそれなりの霊の世界があり、同時にそれぞれの守護神がいます。秘密はエーテルにあります」


問「大気圏を三十キロの高さまで上昇していったら霊の世界に触れることが出来ますか」

ボール「それは不可能です」


問「ということは霊の世界は透明であるだけでなく、身体に触れることも出来ないということですか」

ボール「その通りです」


問「本質はエーテルで出来ているのですか」

ボール「そうです」


問「霊界の秘密はエーテルにあるとおっしゃったのはその意味ですか」

ボール「さよう」


問「そのエーテル界の生活や存在は地上生活と同じく実感がありますか。そして楽しいですか」


ボール「はい、楽しくて実感があります。但し善人にとってのみの話です」 (善人 the good の文字に二本の下線が施されている)

問「地球の霊魂が太陽系の他の惑星、例えば火星や金星のエーテル界を訪れることが可能ですか」

ボール「高級霊になれば可能です」


問「例えばオリオン座のベテルギウス星(地球から5,670,000,000,000,000キロ《5,670兆㌔》)の様な遠い星でも同じですか」

ボール「同じです」


問「普通の霊魂は行けませんか」


ボール「行けません」


問「ではこういうことですか。つまり普通の人間は死後その天体のエーテル界で生活し、高級になると他の天体のエーテル界を訪れることが出来るようになる」

ボール「その通りです」


ボールはこのあと「この章は実に重要ですよ」 と付け加え、署名して終りにしておりますが、高級霊になれば他の天体のエーテル界に行けるようになるということは、要するにエーテル界の上層部が他の天体の上層部と合流しているということを意味しています。

ヴェール・オーエン氏の『ベールの彼方の生活』に次のような箇所があります。

 『以上のことからおわかりのように、吾々が第一界から上層界へと進んでいくと、他の惑星の霊界と合流している界、つまりその界の中に地球以外の惑星の霊界が二つも三つも含まれている世界に到達する。

さらに進むと、こんどは他の恒星の霊界と合流している世界、つまり惑星間の規模を超えて、太陽系の規模つまり太陽の霊界が二つも三つも合流している世界に到達する。

それにはそれ相当に進化した存在、荘厳さと神々しさと偉力とを備えた高級神霊が存在し、下層霊界から末端の物質界に至るすべてに影響を及ぼしている。

かくして吾々はようやく惑星から恒星へ、そして一つの恒星から複数の恒星の集団へと進んできた。が、その先にもまだまだもっと驚ろくべき世界がいくつも存在する。が第十界の住民であるわれわれには、それらの世界のことはホンのわずかしか分からないし、確実なことは何一つ判らない」

 

レナード氏の『スピリチュアリズムの真髄』はこうした死後の世界の区分の問題を実にくわしく扱っており、是非とも参考にしていただきたいと思います。

私が本章であえてトウィーデールの著書から引用したのは、本書が非常にいい内容をもちながら一般に知られておらず、引用されることもないので、この機会にと思ったわけです。

特に天孫降臨を髣髴とさせる言説を霊界側から述べているのは、私の知るかぎり西洋では他に見当らないようです。

もっとも人類誕生の問題はまだスピリチュアリズムもそれを論じるに足るだけの十分な資料を積み重ねていないようです。しかしこれがスピリチュアリズムでないと絶対に解けない謎であることだけは断言できます。

ダーウィンの進化論はいま学界でも集中砲火を浴びています。あまりに唯物的すぎ、あまりに単純すぎたところに原因があるわけですが、といってスピリチュアリズム的要素を取り入れた説が受け入れられる時機はまだまだ遠い先のようです。

かつてダーウィンと同時代の自然科学者で心霊学者でもあった A・R・ウォーレスが〝霊的流入〟Spiritual influx という用語を用いた説を発表したことがありますが、まともに取りあってもらえないまま眠り続けています。当時としてはあまりに飛躍的すぎたからでしょう。

ちなみに霊的流入というのは、ダーウィンの言うように人類がアメーバから進化して動物的段階に至ったその最終段階で、神的属性をもった人間の霊魂が宿ったという説で、シルバー・バーチも同じようなことを述べていますが、私のこの説と、さきの天孫降臨の説の双方とも真実であると考えております。

 

つまり、一方に動物的進化の過程でウォーレスのいう霊的流入を受けて人間へと跳躍した系統があり、他方に、高級霊の物質化によるもう一つの系統があったとみるのです。


思うにその物質化現象は霊界あげての大事業だったことでしょう。数え切れないほどの失敗の繰り返しがあったことでしょう。時間もかかったことでしょう。日本の古典はその辺の事情を象徴的に物語っていて興味があります。

これには異論もありましょう。が真相はどうであれ、今までに得た霊的知識を土台にして、そうした問題に想像の翼を広げていくのは実に楽しいことです。

その問題はこれ位にして、次にマイヤースの通信から死後の世界に関する箇所を紹介しましょう。例によって The Road to Immortality からですが、ここでは第三章を浅野和三郎訳「永遠の大道」を下敷きにしながら紹介します。

「人間がその魂の巡礼において辿るべき行程をまとめればおよそ次のようになる。

 (一)物質界

 (二)冥府、又は中間境

 (三)夢幻界

 (四)色彩界

 (五)光焔界 

(編者注──浅野氏の四界説にあてはめれば(三)(四)(五)が幽界                    (六)が霊界、

 (七)が神界

 (六)光明界

 (七)超越界

各界の中間には冥府又は中間境があり、各霊はここでそれまでの行為と経験を振り返って点検し、上昇すべきか下降すべきかの判断を下す。


(一)の物質界は地上の人間が馴染んでいるような物質的形体に宿って経験を積む世界である。これは必ずしも地上生活のみに限られない。遠い星辰の世界にも似たような物的条件をもった天体がいくらもある。またその中には人体よりも振動数の多いものもあれば少ないものもあり、まったく同じというわけではないが、本質的にこれを〝物質的〟と表現しても差支えない性格を具えているのである。


(三)の夢幻界というのは物質界で送った生活と関連した仮相の世界である。 


(四)の色彩界ではもはや五感の束縛から脱し、意念による生活が勝ってくる。まだ形態が付随しており、従って一種の物的存在には相違ないが、しかしそれは非常に希薄精妙なる物体で、「気」と呼んだ方が適当かも知れない。この界はまだ地球又は各天体の圏内に属している。


(五)の光焔界において各自の霊魂ははじめて永遠の生命における自己の存在の意義を自覚しはじめ、一つのスピリット(本霊)によって養われている同系の類魂たちの精神的生活に通暁するようになる。


(六)の光明界において各自の霊魂はこんどはその類魂たちの知的生活に通暁できるようになり、仲間の全前世を知的に理解することになる。同時に物的天体上に生活している類魂の精神的生活にも通暁する。


(七)最後の超越界は本霊並びに本霊の分霊である類魂の全てが融合一体となって宇宙の大霊である神の意志の中に入り込む。そこには過去、現在、未来の区別がなく、一切の存在が完全に意識される。それが真の実在であり実相である。』


マイヤースの説明はあまりに抽象的で簡単すぎますが、これはあくまでも死後の世界の図表のようなものですから已むを得ません。マイヤースもこのあと順を追って詳しく説明していきます。

 

そしてついに「類魂」の章に至るわけですが、これはすでに第三章で詳しく紹介しましたので、お読み下さった方には右の箇条書だけで人間の辿るべき旅路が髣髴としてくることと信じます。

こう観て来ると、人間がいかに小さな存在であるかを痛感させられます。言ってみれば地上生活は宇宙学校のホンの幼稚園、イヤ保育園程度のものかも知れません。その程度の人間のすることであれば、良い事にせよ悪い事にせよ、程度はおのずから知れています。

浅野和三郎氏はよく「人間はいい加減ということが一ばん大事じゃ」と言われたそうですが、これは己れの小ささに気づいた、真に悟った人間にして初めて口に出来る言葉でしょう。

浅野氏はまたその著『心霊学より日本神道を観る』の中で「人間味のない人間は畢竟(ヒッキョウ)この世の片輪者で・・・・・・」と述べていますが、無理や禁欲や荒行で五官を超越し、あるいは抑え込もうとすることの愚を戒めているわけです。

私自身も精神的にまた肉体的にかなり無理な修行を心がけた時期がありましたが、その挙句に悟ったことは、結局神は人間にとって五感でもって生活するのが適切だから五官を与えて下さったのであり、要は節度 moderation を守ることに尽きるということでした。

むろん人それぞれに地上生活の目的と使命があり、禁欲がその人にとって大切な意味をもつことがあり、それがいわゆる業(カルマ)のあらわれである場合もありましょう。

がシルバー・バーチも繰り返し述べていることですが、物事には必ずプラス面とマイナス面とがあり、禁欲生活によって得るものがある一方には、それ故に失わざるを得ないものが必ずあるわけで、それはまた別の機会に補わなければなりません。

こうした禁欲とか行、戒律といったものは、その土台となるべき霊的知識が過っていると飛んでもない方向へ走ってしまう危険性があり、スピリチュアリズムの真理に照らしてみると滑稽でさえある場合が少なくありません。

又それ故に何千年何万年と、想像を絶する長い年月に亘って、自分が拵えた殻の中で無意味な、しかし本人は大マジメな暮らしを続けている霊が大勢いるようです。

そういった既成宗教の過った教義については九章で検討する予定でおりますので、ここではひとまず措いて、では最後にシルバー・バーチに死後の世界と生活ぶり、そしてこの世とのかかわり合いについて語ってもらいましょう。

 

『私たちが住む霊の世界をよく知っていただけば、私たちをして、こうして地上へ降りて来る気にさせるものは、あなた方のためを思う気持以外の何ものでもないことがわかっていただけるはずです。素晴らしい光の世界から暗く重苦しい地上へ、一体誰れが、ダテや酔狂で降りてまいりましょう。

あなたがたはまだ霊の世界のよろこびを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現われる、ついきゅうしたいことにいくらでも専念できる、

 

お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中にはたとえるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたには分かっていただけません。

肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることは出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存知ない。そして、なお、死を恐れる。

人間にとって死は恐怖の最たるもののようです。が実は人間は死んではじめて真に生きることになるのです。あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。

なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。ただし、徐々にではあっても成長はしています。

霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。霊的な光が広がれば当然暗やみが後退していきます。

霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上に見出せないのです。あなた方が〝死んだ〟といって片づけている者の方が実は生命の実相についてはるかに多くを知っております。

この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることが出来ます。画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。

地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。インスピレーションなどという仰々しい用語を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。

 

金銭の心配がありません。生存競争というものがないのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは弱者に救いの手を差しのべる力があるという意味だからです。

失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それが全てです。

地球へ近づくにつれて霊は思うことが表現できなくなります。正直言って私は地上に戻るのはイヤなのです。

なのにこうして戻って来るのはそう約束したからであり、地上の啓蒙のために少しでも役立ちたいという気持があるからです。そして、それを支援してくれるあなたがたの、私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。


死ぬということは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もなくなっている状態こそ悲劇です。

死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです、苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、はたして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。

痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駈けめぐり、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなたがたは悲劇と呼ぶのですか。

地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端なりとも地上の絵具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の旋律のひと節たりとも表現できないでしょう。

いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。そのうちあなた方もこちらの世界へ来られます。そしてその素晴らしさに驚嘆されるでしょう。

いま地球はまさに五月。木々は新緑にかがやき、花の香がただよい、大自然の恵みがいっぱいです。あなた方は造花の美を見て〝何とすばらしいこと〟と感嘆します。

がその美しさも、霊の世界の美しさに比べれば至ってお粗末な、色褪せた摸作ていどしかありません。地上の誰一人見たことのないような花があり色彩があります。

そのほか小鳥もおれば植物もあり、小川もあり、山もありますが、どれ一つとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれいです。

そのうちあなた方もその美しさをじっくりと味わえる日がきます。その時あなたはいわゆる幽霊となっているわけですが、その幽霊になった時こそ真の意味で生きているのです。

実は今でもあなた方は毎夜のように霊の世界を訪れているのです。ただ思い出せないだけです。それは、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあるのを思い出します。

肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識をもって見ることが出来ます。その時すべての記憶がよみがえります。」