耳の解像度をあげる
ひとは、自分が見たり聴いたり経験したことあるもの、感じたことあるものしか見れないんだって。
例えばなんだろう、お店でBGMが流れてたとして、わたしなんかはサックス吹いてるからジャズ流れてるとそっちに耳いったりして、これ誰だろう〜?とかこのフレーズかっこいいな〜とか聴いちゃうんだけど笑、多分ジャズそんなにちゃんと聴いたりしない人にはただのBGMなんじゃないかなあ。
すっごいおいしいご飯屋さんを知って、そこに行きたいな〜あれ食べたいな〜って思うけど、そもそもそのご飯屋さん知らなかったら行きたい!とも思わないわけで。
自分の知らない情報を脳は勝手に見ないように、感じないようにしているのよね。
これって人間が生きていくには大事な機能ですよね、だってじゃないとめっちゃ情報入ってきて疲れるから。笑
だけど、見えないがために生きにくい場合がある。見えないがためにその方法しかとれないって場合がある。
気づくことの大切さっていまある「自分」というものを崩すきっかけをくれるところにあると思います。
感覚器官を研ぎ澄ますことによって、ひとつのものを徹底的にみることによって、その感覚を味わい尽くし、知り尽くすことによって全てはひとつ(空)だということを知る。
これ、所謂ヨガだったり仏教だったりの考え方だと思うんだけど、そんな悟りを開くとかじゃなくて、わたしたちはいまこの世界に生きているから、これを生活にうまく取り入れてまっさらキャンバスに絵を描くような、そんな風にとらえられて世界はひとつだって感じられると、愛に溢れて平和になると思うんだよね。
っていうことを先日シタール奏者の方も似たようなことをおっしゃっていて、まさにヨガだ!って思ったのだけど、実際インドにはナージャ(ナーダ)ヨーガというのがあるそうです。音の瞑想と言われるそう。
インド音楽に限らず、アジアの文化として、「ない」ところに「ある」を見出す文化であることから、アジア人であるわたしたちはもともとこの感覚を持ち合わせていると思うのです。
このミクロの世界に再現する宇宙観、ファンタジーであり現実的でもある感覚を多くの人に味わってもらいたいな〜
わたしがヨガと音楽をやる理由はここなのかもしれないなあ。