Tokaido 東海道 39 (7/12/19) Kameyama Castle Ruins 亀山城跡
- 法因寺/黒田孝富墓
- 福泉寺
- 石井兄弟仇討碑
Kameyama Castle Ruins 亀山城跡
- 大手門
- 東三の丸
- 家老名川大右ヱ門氏屋敷跡
- 太鼓門/太鼓櫓
- 二の丸跡
- 楠門
- 本丸 (亀山神社他)
- 多聞櫓
- 三重櫓
- 二の丸帯曲輪
- 埋門
- 西出丸門
- 西出丸
- 関見櫓
- 西の丸跡
- 明倫館
- 西の丸庭園
- 加藤家長屋門/土蔵
- 青木門
- 黒門
昨日は午後2時半ぐらいに亀山に着いたので、亀山城を見学する時間は取れず、今日の午前中にゆっくりと見ることにした、これを見終わると今回の東海道の旅は、まだ京都の三条大橋迄は8つ宿場が残っているのだが、一旦終了として紀伊半島の旅に入る。午後は津までの移動となる。
江戸口門から城の大手門までの間に史跡があるので寄ってみた。
法因寺/黒田孝富墓
幕末の武士の黒田孝富の墓がこの法因寺にある。黒田孝富は京の勤皇派とつながりが深く藩政の改革を行うが、明治になった年に反対派に惨殺された人物。墓は天然記念物になっている左巻きのカヤと呼ばれている大木の下にある。
福泉寺
法因寺の向いに別の寺があり、ここの山門は亀山市の指定文化財になっている。寛成7年 (1795) に建てられた物が現存している。
石井兄弟仇討碑
元禄14年 (1701) 5月9日早朝に、石井源蔵・半蔵兄弟が父の敵・亀山城主板倉家の家臣の赤堀水之助を西之丸の石坂門外で討ち取った事を記念して、昭和7年に亀山保勝会によって建立された。当時「元禄曽我」と称され、赤穂浪士の討ち入りと並び賞賛された。歌舞伎では「勢州亀山の仇討ち」などの演目として上演されている。
Kameyama Castle Ruins 亀山城跡
伊勢亀山城は、1265年に関実忠によって築城され、神戸、国府、鹿伏兎、峯、亀山の各城を居城とする関五家の宗家の居城であった。
1567年の織田信長の伊勢進攻以降は、たびたび戦場となった。1590年に豊臣秀吉に従った岡本宗憲が入城後、天守、本丸、二の丸、三の丸などのその後の亀山城の母体となる城が形成された。江戸時代には、亀山城は伊勢亀山藩の藩主の居城であった。江戸時代初頭には丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴の間違いによって、伊勢亀山城の天守を取り壊された。1636年、城主となった本多俊次の手で大改修が行われ、天守を失った天守台に多聞櫓が築造された。明治になり1873年の廃城令によって、殆どの構造物が取り壊された。
城の外側も出来る限り当時の縄張りに近いところを見ると走った。水色の外周がほぼ城の大きさを表している。
大手門
東海道が左に曲がる地点に大手門跡がある。東海道は城の三の丸と西の丸をぐるりと回る様に通っている。大手門は明治の廃藩置県時に撤去された。
東三の丸
大手門を入ると東三の丸。藩の重臣の屋敷や藩蔵があった所。石垣が遺構として残っている。大手門に使われていたのではと考えられている。
家老名川大右ヱ門氏屋敷跡
東三の丸に家老名川大右ヱ門氏屋敷跡の表示があった。説明もないのでこれ以外の事はわからない。
太鼓門/太鼓櫓
大手門から東三の丸を進むと二の丸への入り、口の太鼓門跡に行き着く。ここには太鼓櫓が建てられ、城下に太鼓で時を知らせていた。二の丸跡には小学校が建っており、少し昔風の造りをしている。
二の丸跡
二の丸跡に建つ亀山西小学校を進むと前方に多聞櫓が見えてきた。本丸の隅にある櫓だ。もうすぐ本丸。
楠門
二の丸から本丸への入り口
本丸
本丸内には多聞櫓、三重櫓、本丸御殿があった。
多聞櫓
300年程前に建てられた物が現存している。当時は武器庫として使われていた様だ。土日祝日は中を観れるので見学。係のおじさんから、今日一番乗りといわれ、亀山城の説明をしてくれた。内部にはパネルで亀山城の説明をしている。
三重櫓
本丸にあった天守閣が廃城令の際に誤解して解体されてしまった。その後、天守閣の代わりに建てられたのがこの三重櫓。遺構は櫓台が少し高くなっているぐらいで石垣などは残っていない。
本丸跡には神社が建ち、本丸御殿は江戸の将軍の宿舎として使われていた。跡跡は公園になっている。明治時代には天皇が泊まったと言う宿舎、移設された演武場などがある。
井戸跡が二つ
二の丸帯曲輪
本丸から二の丸を囲む様な帯曲輪があった。
本丸から二の丸帯曲輪への道。城は北側は切り立った丘にあり眼下には堀跡がある。
二の丸帯曲輪/埋門
二の丸帯曲輪へは埋門を通り、小さな曲輪に入る。この曲輪は藩主の住居があった二の丸の防衛の役割で造られた。
西出丸
本丸から西出丸門跡を抜けると西出丸に出る。昔の縄張りは変わっってしまっており、実際には西出丸は本丸の一部の様に見え、西出丸門は西の丸への門であった。
この曲輪は寛永14年 (1637) 本多俊次により増築され、米倉があった。
この西出丸の隅には関宿方面に向いた関見櫓と呼ばれたが二重櫓あった。
西の丸
本丸と西出丸の南側に西の丸がある。西出丸門を通り西の丸へ。西出丸門から抜けたところに堀跡が復元されている。
西の丸のこの場所には藩校の明倫館が建っていた。今は亀山中学校となっている。
西の丸庭園
西の丸庭園があるのだが、この庭園の説明がどうしても見つからない。近年に観光用に造られた物なのか、以前からあった庭園を復元したものか?
加藤家長屋門/土蔵
亀山藩主 石川氏の家老の加藤内膳家の屋敷跡で長屋門と土蔵が残っている。
西の丸と旧東海道が通る亀山城惣構への門は二つあった。青木門と黒門になる。
青木門
黒門
京口御門のある市ヶ坂への門
城見学はそこそこ時間がかかり終わったのは一時過ぎ。4時間程散策した格好だ。急いで昼食を済ませて、津に向かう。25kmの距離なので休憩も入れて2時間半から3時間になるだろう。
道の半分以上は民家が少ない山間部と田圃道。
ようやく津の江戸橋の常夜燈に着く。ここは四日市からの伊勢街道と関宿からの伊勢別街道の合流点に偶然ついた。ここからは伊勢街道を走る。いくつか史跡があったがそれは明日にでも伊勢街道の他の史跡と一緒に後日レポートに含める。後で思ったのだが関宿迄行って伊勢別街道を通って来れば良かったと...