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Kii Peninsula 紀伊半島 1 (8/12/19) Ise Ueno Castle Ruins / Isshinden 伊勢上野城跡 / 一身田

2019.12.09 09:25

Ise Ueno Castle Ruins 伊勢上野城

円光寺

一身田

高田派本山専修寺

昨日は亀山から津まで一気に走ったので、少々疲れが残っているが、残りの日数はあまり無いので、出来るだけ時間を有効に使い、今日から紀伊半島を周る。紀伊半島の前半は旧伊勢街道を通り伊勢を目指す。今日は伊勢街道を四日市方面に戻り、伊勢上野城と一身田を訪れる。

Ise Ueno Castle Ruins 伊勢上野城

戦国時代の城主は津市分部を本拠としていた分部氏 (長野氏に属していた) 。織田信長の北伊勢侵攻がこの地域が対象となるのだが、この侵攻の背景は、足利義昭は織田信長に上洛の支援を要請しており、信長は美濃攻めの最中であったが、家臣の滝川一益を伊勢の桑名に派遣し小領主が乱立した桑名郡、員弁郡、朝明郡、三重郡などさしたる抵抗もなく降伏させ支配。その南には関氏・神戸氏が支配する鈴鹿郡、河曲郡、更に南には長野氏が支配する安濃郡があり、桑名を拠点として関氏、神戸氏、長野氏を攻める次第となる。

神戸具盛は縁戚の関氏と抵抗したが、織田信長の三男、信孝を婿養子として神戸氏の家督を譲ることを条件に、降伏させた。この降伏により、神戸具盛の縁戚にあたる亀山城の関盛信も降伏させた。残るは長野氏。

永禄11年 (1568) の織田信長の侵攻に際して、分部光嘉は、織田氏に味方し、信長と長野氏の和議を整えた。信長の弟の三十郎 (後の信包) が長野氏の養子となり、伊勢上野城に入り津城の仮城として1570年に改修、光嘉は信包に仕える事となる。その後、信包が安濃津城 (後の津城) に移ると、分部光嘉が再び伊勢上野城の城主となる。豊臣政権下で織田信包の失脚後も光嘉の地位は安堵されていた。関ヶ原の戦いの際は、光嘉は東軍に属し、津城に籠城。その後、光嘉の跡を継いだ光信が近江大溝に移り、伊勢上野城は廃城となる。

織田信包の居城だった時期には、信長の妹のお市と浅井三姉妹は小谷城落城後にこの城で過ごしていたといわれる。(案内板には三姉妹の一人のお江の里と言っているのだが、近年の研究によると、当初、お市の方と三姉妹を保護したのは信包ではなく、信長の叔父である織田信次であるとされ上野城では無く尾張の守山城で過ごしていたとの説が有力になっている) 大河ドラマの影響か、お江の過ごした城として紹介されていた。

城跡は公園となっている。ある程度縄張りがわかるぐらいで本城山青少年公園として整備されて少し当時とは変わっている。

二の丸跡

本丸の直ぐ下に二の丸がある。土塁跡/空堀跡が残っている。

本丸跡

本丸には天守台があり、展望台が建っている。天守台といっても、近世城郭の何層もの天守閣では無く、当時は櫓が程度のものであった。

本丸と二の丸の周りには竹藪があり、中に入って見た。後でここは私有地で立ち入り禁止の看板が出ていた。竹藪は斜面にあり何段かになっており、城を守る曲輪だったのだろうと思う。二の丸と本丸だけであれば、城を守れるとは到底思えない。後でこの城の縄張りを調べたが、マイナーな城なのか情報は殆ど見つからなかったが、一つだけ同じ意見の人の記事があった。

円光寺

城から程遠く無い所に、お江ゆかりの寺と書かれた垂幕がかかっていたので寄って見たのだが、お江に関わる説明も無い。お江が上野城にいたのであればここにも来たであろうからまんざら嘘でも無いのだが、少し肩透かしだ。しかしながら、この寺は分部氏の菩提寺で小さいながらも分部光嘉の墓があった。

上野城を後にして、伊勢街道に出る。次は一身田という土地に行く。ここにある国宝になった高田派本山専修寺が次の訪問地。

一身田 (いっしんでん)

変わった名前の土地だ。奈良平安時代の制度で、政治上功績のあった貴族に対して特別にその身一代に与えられた田からきているそうだ。という事はその時代からこの集落があったという事で、相当に古い町だ。ここが発展したのは、この一身田に専修寺の前身である無量寿院を真慧 (しんね) が建立し、寺内町となってから。

町は今でも残っている東西約500m/南北約450mの環濠に囲まれて、さながら城跡の様だ。環濠の内側への入り口は三つの門があり、午後6時に門が閉まり翌朝6時までは町への出入りが出来なかった。

桜門/黒門

赤門/環濠

当時は環濠の内側に200軒もの商店街があり賑わっていた。何か欲しいなら一身田に行けとも言われたそうだ。現代で言うと百貨店、もっと現代版で言うならショッピングモールであった。今は商売をしているのは数件しか無い。ここも過疎化で悩んでいるそうだ。

環濠にかかる黒門を渡り町の外に出ると高札場があり、この通りは橋向通りと呼ばれ当時は遊郭が立ち並んでいた。午後6時に門が閉まるので、この遊郭へは泊まりだったのだろう。今は風俗店は一軒もなく、全く健全な通りとなっている。

古い街並みが残っているという事で、昭和初期から戦後間もない頃までは、この地で多くの時代劇のロケが行われた。もう70年も前の映画なので、若者には馴染みのない阪東妻三郎、大河内伝次郎、長谷川一夫などの大物スターの名前が出ていた。その地を巡るツアーもあるそうだ。街中にはそのロケ地となった所の案内板が多くある。いっぱいあるのだがその一部を載せておく。

高田派本山専修寺

伊勢街道沿いに多くの寺があるのだが、そのうちいくつかは高田派と書かれていて、この“高田派”と言うのが気になっていたのだが、この専修寺が本山だった。日本では一番信徒数の多い親鸞の浄土真宗系で真宗の一派。浄土宗、西本願寺、大谷派 (東本願寺)は信者数は他の派に比べ断トツに多いのだが、その他の派の中ではこの高田派がついで多い。歴史上、一向宗として織田信長と敵対していた時代が長く、歴史を学ぶ上で、無視できない宗教と思う。教義については、個人的な感想では、キリスト教に近い様な気がする。現生で阿弥陀を信じることが幸福への救いで、これを信じた者だけがが死後に仏のさとりに達することができる。これはキリスト教と非常に似ている、現生で神を信じた者だけが天国に行ける。それと阿弥陀仏による他力本願による救いという点も似通っている。修行に耐えれない一般門徒でも救われるという。この教えが、歴史上、庶民に受け入れられ一向一揆などの政治的に無視できない動きがあった。

この本山専修寺は昨年国宝として認定され、それ以降、多くの観光客が来る様になった。国宝なのだが、拝観は無料、内部も写真撮影OKで寛大なお寺だ。全盛期に比べ、神仏分離令以降、敷地は少なくなったとは言うものの、非常に広いお寺で、多くのお堂がある。

寺への門は山門、唐門、太鼓門、黒門 それと山門の外側に釘貫門

山門は宝永元年 (1704) に建立され、山門として最高の格式の五間三戸二階二重門の形式の山門で専修寺伽藍の総門。釘貫門とは柱を立てて並べて横に貫を通しただけの簡単な門のことで、ここでは石橋を渡った所にあり、ここが寺内 (寺領) と寺下 (町屋) を隔てる境だった。

唐門は如来堂正面にある天保15年 (1844) に造られた四脚門。太鼓門の内部には太鼓が吊り下げられており、今でも一身田町の人々に、時をつげている。

黒門

山門をくぐり、境内へ。

御影堂

宗祖親鸞聖人の木像が安置されており、歴代上人の画像を両脇壇および両余間に敬置している。725畳の巨大な堂。

如来堂

御影堂の西に配置され阿弥陀如来立像を本尊とした本堂。

通天橋 御影堂と如来堂を結ぶ廊下

大師堂

御廟拝堂、御廟唐門及び透塀

如来堂の西側に真宗開祖の親鸞聖人の廟がある。南から唐門、拝堂、石橋と続きその奥に親鸞聖人の墓と専修寺歴代住職のお墓があるとされているが、親鸞の墓は東本願寺にあったはずなのだが...

表の扉が半開きになっていたので中に入ったのだが、廟の中で誰かが作業していた。見た後にここを出ると門がきっかり閉まっていた。一般の人は中には通常時は入れないようだ。

御廟

寛文12年 (1672)造営の親鸞聖人の墓。(だそうだ)

鐘楼

慶安5年 (1652) 鋳造の梵鐘で、御堂での勤行前に撞かれる。

御対面所/進納所・大玄関

御対面所 (写真上) は門信徒との対面の場所。進納所 (写真下) は院號や法名をもらう場所。大玄関は重要文化財。

茶所

湯茶の接待所で、古来からこの様な接待所があったそうで、今はカフェになっている。お寺らしく中には拝所 (?) がある。

安楽庵

如来堂と御影堂の背後にある雲幽園と呼ばれる庭園にある。中には事前申し込みが必要な様で入れなかった。

宝物館

専修寺が誇る親鸞聖人真蹟の数々を収蔵する宝庫。昭和36年の宗祖700回大遠忌法要を記念して建造されました。 展観室と収蔵室の二棟があり、とくに収蔵室は厳重な防湿構造です。

宗務院 高田派の事務を行う施設。

納骨堂 寺の奥にある新しい建物。

第二納骨堂

婦人会館

ここだけ趣が少し違う。他の建造物よりモダンだがレトロ調。

食堂

開明社

御飯講

有慶堂

大講堂

その他、専修寺で撮影した写真。もう12 月だがまだ紅葉が真っ赤なまま葉を落としていない。

見応えのある寺だった。帰りは関宿から始まっている伊勢別街道がここを通っているので、その道を通り伊勢街道に合流して津の同じ宿に帰る。