神社学的☆「師走」・・・からの先人との対話
師走。歳を重ねるごとに師走を迎える時間が本当に早く感じる。そもそもこの師走って、何をもっての言葉なのだろう。気になったので調べてみた。
本来は旧暦の12月にあてていた言葉であり、現在はそのまま新暦12月に使っている言葉である。新暦と旧暦はそもそも暦の捉え方が違うので、本来の意味にあてると、12月下旬から2月の上旬を指す言葉であり、いずれにしろその年の終わり時期(新年始まる手前)を指す言葉である。年の瀬ともなると、師があわただしく走り動く、という意味の師走であろうが、ここで言う「師」は、寺社仏閣で参詣者の世話をする御師(おんし)とされ、その御師が1年で一番忙しく走り動き回るから「師」が「走」で、師走という言葉が生まれたとされている。他にも諸説あるようなので、気になった方はお調べいただきたい。
旧暦を新暦に変えるというのは、暦自体の意味すら変えてしまうはずなのに、この国は大変ファジーな受け止め方をし、新暦に変えてもその年の瀬である12月をそのまま師走と表現している。たしかに12月になると、やけに神社やお寺は新年に向けての準備が始まり、元旦の参拝者を迎える準備に忙しく時間をとられていることを考えると、今や師走は12月であるが、この言葉のできた時代の背景にあった「御師」の存在はだいぶ見えなくなってきている。よほどの信仰をお持ちの方であれば「御師」の存在も認識しているが、多くの人にとってその言葉の本来の意味よりも、言葉としての「師走」を利用しているに過ぎないように思う。これはこれで本来の意味から離れていても、その言葉自体が日本語としての文化的背景をもち、本来の意味から独立した言葉として存在しているわけだ。ぼくはそういった言葉がほかにもたくさんあると思っていて、日本語としての言葉の成り立ちやその意味などにものすごく興味がある。
神社学では必ず、そういった言葉にもフォーカスはするように心がけていて、生まれたての子供を「赤ちゃん」と呼ぶのはなぜか、「左」や「右」という言葉はなぜそうつけられたのかなどのお話をいつもさせてもらっている。きっと、言葉の本来の意味を知らずに使っているというケースは日常に溢れているのではないだろうか。日本の歴史が公式的に天皇陛下の起源に求められるのであれば、この国は世界一の長寿国であり、2019年は建国2679年となる。その当時から今と同じ言葉であったか否かはわからない。がしかし、そのころからの言葉の積み重ねが今の日本語になっていると考えるのは当たり前だし、そう考えると、僕らの使っている日本語とは、相当に古くから使われてきた言葉があるのも当たり前の話だと思う。昨今は、古い地名が都市開発や市町村合併の憂き目にあい、どんどんなくなっているのはご存じの通りだが、それにより先人が未来のために残した地名に含まれるメッセージすら、現代の僕らは受け取ることが容易ではなくなってきている。日常で使っている言葉にも同様に思えることが多々あり、今一度、当たり前に使っている言葉の、そもそもの意味やその言葉が生まれた時代背景とその状況に思いを寄せてみるのも面白い。それはただただ知識となるだけではなく、現代、この国にいきる者としての先人との対話に他ならないのではないかと思う。地球規模で抱える環境問題に対して、今の暮らしをいきなり江戸時代の暮らしに戻せといわれてもそれは現実的ではないが、世界一の長寿国ならではの知恵と工夫は、先人との対話により湧き出てくるものではないだろうか。