ビス②
──トアト。あなたは、生きてね
妻の声が蘇る。とても透き通った、美しい声だ。
彼女は歌うのが好きだった。歌いながら仕事をするせいで、彼女の勤める木工所にはその歌声を聞きつけて集まる子供が大勢いた。気づけばそこは子供たちの憩いの場となり、ならばと、余った木材で遊び道具を作るのが木工細工師の間で流行ったそうだ。元凶の彼女も普段作るのはもっぱら木製食器だったが、大型の遊具を作れないかと思案しはじめていた。ただ、非力な腕では大きい木材の扱いが難しいらしく『腕力をつけなくちゃ始まらないわね』と言ってこちらの集めたネジの瓶詰を重りにして、腕を鍛えている姿をよく見かけた。
笑うと見える八重歯や、低めの鼻に薄くひろがるそばかすは今思い出してもとても愛しい。
(最後の言葉があれなんて、残酷すぎるよ、エマ……)
妻(エマ)との思い出にそっと蓋をする。
大切な記憶は家の中にすべて置いてきた。
収集していた螺子も。
こっそり撮影していた修復隊の写真も。
妻と交わした、結婚の指輪でさえも。
それらをすべてを捨ておいて、自分は最後の七日間をどう過ごすのか決めたのだ。
***
世界をぐるりと覆い守っている外殻の最端、工場区画にある外殻修復隊の駐屯地、ヤケレ隊の陣地は騒めいていた。
「お、俺のビットだったりしないかな?」
「馬鹿いうな、直観でわかってない時点で、ビットじゃないだろ」
「だったら、早くカーゴ(ナット病棟)に連れてくべきじゃない? あの人のビットを探さなきゃ」
やじ馬たちの声にヤケレは大きなため息をついた。
こんな場所にいきなりナット病患者が表れたのだから当然の反応だろう。ナット病患者は発病後一週間で命を落とす。胸をナットに侵食された人間のことをナット病患者と呼ぶが、原因不明の奇病で治療法はない。亜人が生まれる原理と同じく、神の与えた運命として受け入れるほかなかった。
(こんな時期に、とんだ客人だな……)
体から螺子が生まれれば『亜人』と呼ばれる長命な種族に変化し、ナットが生まれればそれは病気として扱われ、その命は一週間でついえる。人間に金属が生まれる事象は同じなのに、タイプが違うだけでたどる運命が劇的に変わってしまうのだから、運命とは数奇なものだ。
ナット病患者を救う唯一の方法は、適合する螺子を持つ『ビット』を探すことだ。
ナット病患者の掌に生まれるナットと亜人の掌に生まれる螺子の規格が合致する存在同士をビットと呼ぶ。掌を合わせ互いの螺子とナットを無事にはめることができれば、ナット病の進行は止まり命は保たれるのだ。
ビットは見た瞬間に直観で自分の『適合者』であると気付くことができる。
感覚的な話にはなるが、お互いの存在に安心と互いが拠り所であると確信できるのである。
亜人の割合に対して、ナット病患者は発病しない限りは現れない貴重な存在だ。この世界を統括している『塔』はナット病患者を最優先保護対象者として位置付けている。
そう言った状況であるので、近くにいた隊員たちは、一刻も早い保護を願ってソワソワとくだんのナット病患者の青年──トアトを眺め見ていた。
「……ここは目立つな。ひとまず指令室に案内しよう」
ヤケレはやじ馬たちに持ち場に戻れと指示しつつ、トアトを駐屯地の最奥にある建物に案内した。道中のトアトはといえば、憧れていた仕事の最前線基地に訪れられたことに興奮しているのか、目を輝かせて首を忙しなく動かしている。鼻を膨らませているその姿は子供のそれと変わらない。
(参ったな……)
ヤケレは内心でため息をついた。
ナット病患者をここに留め置くつもりなど毛頭ないが、ビスを渡した縁もある。幸いなことにまだ『巫子様』による報せは届いておらず、直近で外殻に亀裂が生まれる心配はないのが救いだが、厄介ごとは少ないに越したことはない。
外殻に沿って建っているコンクリートの建物はいくつか点在しているが、その中で一番高い七階建ての建物が司令部だ。見張り台も兼ねているので屋上にはサイレンと特大のサーチライトが四基並んでいる。
外側に付属されている直通のらせん階段を上り切り、最上階の指令室に招き入れれば、トアトは窓から街を一望して「うわぁ」と声を上げていた。
「隊長、その人間は?」
指令室で待機していた女性は副隊長のエニアだ。分隊長クラスしか踏み入れない部屋に一般の人間が招かれている事に戸惑っている様子だ。
本来は彼女からの報告を受けとる予定ではあったのだが、この青年の処遇の方が今は優先であった。
「すまない。珍客だ。席を外してもらってもいいか?」
「承知しました。では、再編成プランは机の上に置いておきますので、用事が済みましたらご確認ください」
言うべきことだけを簡潔に述べて、エニアは素早く司令部を後にした。加えて、聞き耳を立てていたらしい隊員たちを散らす声も聞こえてくる。彼女の気の利き方に感謝しながら、青年を来客用のソファーに座らせる。自分もそこに腰を下ろして、懐から一本たばこを取り出す。
大気汚染だのなんだのと、こういった嗜好品は嫌悪されがちだが、染みついた癖は抜けようもない。
一本吸い終わる前に、ヤケレはさっそく切り出した。
「さて、兄さん。本来なら俺はお前をこんなところに連れてくるよりも先に、『ナット病棟』に連れて行かなくちゃいけない。分かっていると思うがこちらはこの通り『ネジ持ち』で、お上の命令は絶対だからだ」
そういって自身の額に伸びる螺子を指さす。
「でも、あなたはその気がないんでしょう? 『本来なら』と前置きしたことと、俺をここに連れてきた時点でその気がないのはわかる。俺の話、聞いてくれるんですか?」
「……その図々しさは気に入ってはいるが、それでも俺はお前を勝手に修復部隊に入れて、安易に殺すわけにはいかない。それに言ったはずだ。『亜人になったら雇ってやる』ってな。お前のそれは『亜人』ではないだろう」
ヤケレの否定的な言葉は想像していなかったのだろう。トアトは少し不満げに眉根を寄せた。
「じゃあ、なぜ俺をここまで連れてきたんですか?」
「まぁ、カウンセリング、だな」
「カウンセリング?」
「俺は歳くってから亜人になった稀なタイプでね。赤子時代から亜人になった純粋培養とは少し違う」
亜人に変化するのは大半が幼少期のころだ。成人を迎えてからの変化は大変珍しく、塔の人間もヤケレを見た時はたいそう困惑していた。寿命が人間のそれよりも長くなるため、同じ時間軸で暮らすには弊害があるのだ。ゆえに、亜人へと変化した人間はすべからく『塔』へと招かれて、そこで亜人としての暮らし方の教育を受ける。
「人の意識もしっかり根付いてからの変異だったからな、それなりに葛藤があったし、悩みもした。実の子ももう終末期保護施設(シャングリラ)に行っているしな。たくさんの仲間の死も見てきた」
「……何が言いたいんですか」
「命は安くねぇって言ってんだよ」
ヤケレの言葉にトアトはぐっと押し黙る。当たり前のことを言われても、それでも自分には響かないと彼の顔に書いてあった。けれど、彼の本意がそこにある以上、ヤケレとしては踏み込まねばならない。
「こんな世の中だ。世知辛い思いもしたんだろうが、ナット病になってすぐ悲観するのもおかしな話だ……なあお前さん、何があった?」
ヤケレの言葉に触発されて思い返すことなどトアトにとってはたった一つだ。
それは、優しく笑う、血の気の失った妻の顔。
そして、生きてと言った、あの声だ。