「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」18 モスクワ遠征①
対イギリス大陸封鎖令に背くロシアを叩くべく侵攻したナポレオンは、みずから総司令官として前線で指揮を執る。ナポレオンはロシア皇帝が本営を置いていたヴィルナでの会戦を予期していた。しかしアレクサンドルは戦わずしてドリッサに退却した。ナポレオン軍が迫ると、この大要塞を捨ててヴィテプスクヴィテブスクに逃れた。ナポレオンは落胆し、さらに侵攻を続けるべきかどうか迷う。それは、ロシア軍の退却が計算外で、遠征が長引くことを懸念したことの他に、兵力の損失が予想以上に大きかったことによるもののようだ。ナポレオンの側近コーランクール将軍は、ニーメン河からヴィルナに至る軍の惨状を次のように記している。
「この疾風迅雷の行軍は、貯蔵庫を持たないために、道路わきの食料資源と住居をすべて消尽し、破壊してしまった。前衛部隊は生き延びたが、軍の残りの者は飢えで死んだ。馬糧不足、夜の冷雨に疲労が重なり、1万頭の馬が死んだ。多くの若い近衛兵が、疲労、寒気、食料不足のために、道路で死に絶えた」
ヴィルナからヴィテブスクへの行軍でも多くの将兵を失った。雨と泥土のなか、病死、落語、脱走が続出し、強行軍を続けながら、遠征軍は戦わずして自壊していった。8月17日、スモレンスクの会戦。ここでもロシア軍は夜になるとまたも退却。すべてを焼き払い、住民もつれて退却した後の町は目も当てられない惨状だった。
「炎を免れたものはことごとく略奪され、燦然たる輝きでわれわれの目を奪う教会に避難したごく少数の住民が見受けられるだけであった。ほとんどが黄金色の丸屋根が、周囲のすさまじい惨状をよそに、夕日を受けてきらびやかに輝いていた。いたるところに人間や馬や家畜の死骸が横たわり、野良犬の大軍に食い荒らされてひどい悪臭を放っていた。井戸という井戸は、死体で埋まっていた。」
(ロシア軍が撤退した直後にスモーレンスクにはいったバーデン辺境伯の目撃談)
ロシアの冬は早い。10月半ばには冬将軍がやってくる。ナポレオンはスモレンスクで越冬するか、モスクワまで前進するかの重大な決断を迫られた。そして彼は自分の首を絞めることとなるモスクワへの前進命令を下すのである。ロシア軍の方では、ただ退却に次ぐ退却をするだけのバルクライに対して兵士たちの不満が募るばかりだった。そこでバルクライは戦うべきだとする政治的圧力に押されて総司令官職を解任され、後任にクトゥーゾフが就任した。だがクトゥーゾフも、大陸軍との早急な決戦で無益な犠牲を蒙ることの愚かさを理解していた。彼は、モスクワの西南西110キロのボロジノに兵力を集結させ、そこに最後の防衛線を築いた。
ナポレオンの兵力は、いまやわずかに12万7千と砲580門に激減していた。兵は焼けつくような暑さで疲労と病に倒れ、「食糧の欠乏やら、そこら中に傷病兵がころがっているのにろくな手当もしてもらえないのが第一の理由で」(バーデン辺境伯)脱走兵があいついだからである。これにたいするの兵力は12万で、ほとんど互角であったが、戦意ははるかにまさっていた。
激戦は12時間後に終了し、血の臭いの立ち込めるボロジノの平原は、10万以上の死傷者で足の踏み場もなかった。ロシア軍は戦傷者6万で、ナポレオン軍の方は死者1万に重傷者2万を数えた。フランス軍にとって、47名の将軍と37名の大佐を失ったのは、取り返しのつかぬ損害であった。この戦いに加わったロシア兵ボリス・ユクスキュルはのちに『回想録』をつづりながら、「殺戮の日、恐怖の日だ!」と戦慄を覚えるほどであった。
この戦いで、ナポレオンの将軍たちは、敵の防衛線を突破する唯一の手段として、近衛部隊の増援を要請したが、ナポレオンは応じなかった。この首をひねりたくなるようなナポレオンの近衛部隊温存策でクトゥーゾフ軍は窮地を脱し、ゆうゆうとモスクワ方面に退却していった。
ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン「ボロジノの戦いのナポレオン」ロシア国立歴史博物館
ジャン・シャルル・ラングロワ「スモレンスクの戦い」ヴェルサイユ宮殿
ルイ・フランソワ・ルジェーヌ「ボロジノの戦い」ヴェルサイユ宮殿