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「第二の家」ブログ|藤沢市の個別指導塾のお話

作文コンクール「藤沢」をテーマとした代表作品たちのご紹介

2019.12.11 14:43


さぁ、何を書こう。


白紙の用紙、もしくはパソコン画面と向き合って、考えを広げる。思考を巡らす。


書くことの楽しみは、もうそこから始まっている。


自分の中から、言葉を出すこと。足りなかったら調べること。自分と延々と向き合うこと。ちょこっと背伸びしてみること。


文章は自由で、その世界なら僕らは何にでもなれて、どこへでも行ける。制約も縛りも気遣いも無用だ。もちろん人に見せるつもりなら多少は必要だけど、嫌なら誰にも見せなくたっていい。ただ書くことで、自分自身の世界は間違いなく広がっていく。自分は、自分をもっとよく知ることができる。


そして、何より楽しい。


そんな思いを胸に、「みんなにもっと文章を書く機会を」ということで、勉強犬作文コンクールを開催しております。無料で、参加も自由です。コンクール主催者は僕ですが、僕に送らなくてもかまいません。あなたのアウトプットの機会を作れたなら、それだけでもう幸いです。


コンクールなんて言っておりますが、賞など貰っても箔がつくわけでもないですし、賞金も出ません。なのに、参加して僕に素敵な文章を読ませてくれる方々がいるのです。今回もなんと10を超える応募がありました。生徒にも書いてもらっているのできっともっと増えます。


今日はそのうち、「ブログで紹介してもいいですか?」とお願いしたら、「もちろんいいよ」というお声をいただいた皆様の素敵な文章をご紹介していきたいと思います。自由で素敵で素晴らしい作品の数々、どうかお楽しみください。


ま、自由とは言いながら、今回は「藤沢」というテーマの縛りがあったんですが、それは言いっこなしで。


ではでは早速どうぞ。3作品あります。



藤沢



「お題、藤沢っすか」


「いいっすよ、まぁ、今、時間あるんで」


「ゆっても、俺、藤沢で生まれ育ったわけでもねぇし、正直、よく知らないんすよね、この街w」


「まぁ、あれですよ、今、通ってる塾が藤沢と大船の間にあるんですけど、それはいっか」 


「藤沢と言えば、やっぱりあれですか、江ノ島ですか?」


「あぁ、さすがに、あそこは、子供の頃、行ったことありますよ、えのすいは、遠足で行ったなぁ。クラゲ、ヤバい」 


「藤沢って、やっぱり、湘南ですか?湘南って結局、どこからどこまでが、湘南なんすか?」 


「こんな俺なんで、藤沢、知りたいんですよ、
誰か、教えてくれません?」


「今ですか?」


「藤沢駅前にいます」


「いや、別に今日、塾があるわけじゃないんですけどね」


「まぁ、1時間ぐらいいますかね」


「性格なんで」 


「いつも、塾で、この駅来てるんだけど、今日は、違って見えんだよな、藤沢が…」 


「とりあえず、誰か、飯食えるとこ、教えてくれません?」 


「あぁ〜いや、飯ってゆうか、なんか、ほら、せっかくだから、ちょっとオシャレなほうがいいかな。だって藤沢ってオシャレなんですよね
?湘南なんですよね?」




「あっ、スイマセン、ちょっと、もう、行かないといけないんで」 


「土曜日までに、藤沢のオススメコース、ここに送っといてください」




「俺にとって藤沢ですか?」


「たぶん、これから、来る度に、好きな場所になります」




「たまに、藤沢駅前で、1時間ぐらい立ってる奴
見かけたら、多分、俺なんで、声かけてください」 


「じゃあ、また」





感想



「お、俺も藤沢っす」とついつい入っていきそうになる軽妙な作文でした。


どうですか、斬新な文章で、ついつい読んじゃいますよね。なんだかもっと彼の言葉を聞いて正体を掴みたいという気持ちにさせられてしまいました。匿名希望さん、素敵な文章、ありがとうございました。


書いてあるのは一方の会話だけなんですが、その空白感がなんだか不思議な余韻をくれます。だんだんとその彼の像も透けて見えてくる感じ。あなたはどんな彼を想像しましたか?


「文学とは、想像させること」


昔、誰かがそう言っていたのを思い出しました。そんな言葉を借りるとすれば、まさにこれは現代文学ですね。


僕よく藤沢駅使うんで、きっと彼の背中にあるであろう雑踏や背景もイメージができます。「口は悪いんだけど憎めない奴」の彼は、これからこの町でどんな物語を紡いでいくのでしょうか。


きっとどこかでまた会えると思うので、彼に届くように返事をしておきましょう。


うん、またね。




続いては、Twitterでもお世話になっているちるださんの作品です。その筆力に驚嘆ください。



「藤沢」



藤沢といえば、
私が1年予備校生活を終え、入学した大学が藤沢にある。

当時は藤沢校舎、東京校舎があり、私が在籍した食品工学科は一年次が藤沢校舎、 二年次からは東京校舎で講義を受けるシステムだった。


私の自宅は東京にあり、この藤沢校舎までの通学時間は1時間半を余裕に越えてはいたが、

「通学時間が2時間は越えない。かつ、1年しか藤沢には通わない」ということで

東京の自宅から毎日藤沢校舎まで通っていた。


食品工学科は学部1,2を争うほどの授業数が多い学科で、一年次は実習は週1回。

実験は週1回くらいだったけれど、

二年次からは実験が週2回、実習も週1回、それに伴う講義もあるので

月曜日から金曜日まで5限、6限まである感じだった。


親との取り決めで、さすがに学費以外の書籍代、その他もろもろを稼ぐ必要があったので

講義が終わった後、郵便局で非常勤職員をしたり、早朝のコンビニでレジをやったりしながら

勉強に励んでいた。1年回り道はしたけれど、本当に入って勉強したかったことなので

あまり大変とも思ってはいなかった。


学科担任にも恵まれ、勉強もおもしろく、働くばかりじゃなくて、サークル活動もやり

いろんな先輩方にも出会って楽しい学生生活を送っていたが、楽しいばかりではなかった。


3年次だったと思う。牛乳の脂肪分を計量する実験があった。要は試験管に牛乳と濃硫酸を入れて

振り混ぜて、分離した脂肪分を測定するという実験だった。畜産食品系で行う実験のひとつなのだが

危険を伴うため、学生実験では実施せず、デモンストレーションでみせるにとどめる学校が多かった。

が、私の大学では受け持ち研究室の学生が全員手伝うことで学生実験が実施されていた。

たいていは無事に実験を終了するのだけど、何年かに一度、濃硫酸がかかる事故が起こっていた。

で、ちょうど私の学年が事故が起こるといわれる年に当たっていた。学年の出席番号前半のチームは 事故なく終了し、私は後半のチームで、今年は無事に終わりそうとみんな話していたところだった。


そんな話を聞いていたので、気をつけなくちゃと思って実験に臨んだ。実験チームで濃硫酸が入った試験管 を誰が振るか?というところになり、結局私が振ることになってしまった。

厚い手袋をして試験管をさらにタオルで巻き込み、栓をして、その栓を指で押さえて試験管を振り出しだしたところ、

指が外れてしまい、試験管を落とし、液をこぼしてしまった。液は手首を伝い、白衣にもかかってしまった。

液が伝ったところはどんどん焼けていく、白衣も焼けていく。熱いような痛いようなそんな感覚だった。


それを見た担当研究室の学生があわてて処理をし始めた。割ってしまった試験管の片付けは学生さんたちがやってくれた。

私は流しに行き、手首を貯めた水に突っ込んでとにかく冷やして洗い流した。

実験担当の先生にも連絡し、先生方が飛んできた。実験チームのみんなもあとの処理をしてくれた。

自分も片づけをしなければならないけれど、できない申し訳なさ一杯だったが、

まずはかかりつけの皮膚科に急いでいくことにした。 


かかりつけの皮膚科の先生に経緯を話し、診察をしてもらったら、処置が早かったので跡には残らないだろうということだったが、念のため中和剤をかけてくれた。

病院での処置が終わった後、家に帰ると母がいたの で、母にも事情を説明した。すると「あまりひどくなくてよかったねえ。先生も心配しているだろうから、明日先生のところに行って来なさい」と言われた。


母とそんな話をしているときに、大学の担当から電話がかかってきた。

病院の診察結果はどうかということだった。診察結果を話したら、親御さんに電話をかわってほしいとのこと。母に電話に出てもらった。

担当の先生が「こんな事故になってしまって、本当に申し訳ありません」と話をしているようだった。そこで母がこう答えた。

「きっとうちの娘の不注意で起こった事故でしょう。火傷もたいしたことはなかったようですし、先生もあまり 気になさらないでください」と。

親となった私でもきっと同じように答えたと思うのだけど、そうは言わない保護者もいるとは思う。

次の日大学に行って、担当の先生にご心配おかけしましたと話をしてみると、先生もホッとしてらした様子だったので、すこし安心した。これで終わるとそのときは思っていた。


時は流れて、4年次になった。私は都合上、別の大学で卒業研究を行うことになったのでほとんど自分の学校には通っていない。

が、たまたま用があったので学校に久しぶりに顔を出した。すると友だちにたまたま会ったので、話をした。

で、学生実験の話になったときにこう言った。

「あの実験、学生にはやらせなくて、研究室の4年生がやってみせるだけになったんだよ。」と。訳を聞くと、

「あなたが実験事故起こしたじゃん、女の子が事故を起こしたって、先生ショックだったらしくて、もう学生にやらせないことにしたんだよ。」と。

それを聞いた私の方がショックだった。

先生は一言もその話はされなかった。学生実験やめるなんて話はされなかった。


確かに、私たちが実験する前にこの危険な実験を学生にやらせるかどうか迷い続けているとは言っていた。

ほかの学校が取り止める中、安全面に気を配り学生にやらせているというところもあったけど、

もういつ事故が起こってもおかしくないので、事故が起こらないうちに取りやめにしようという気持ちもあると。

だけれどもその迷いがある中で実験をやはり行い、私が事故を起こしたことで、取りやめにしたほうがいいという気持ちを後押しして、その結果学生実験取り止めになった。


私は本当の意味で「責任」を感じた。言葉の意味とかシチュエーションでは理解していたつもりだったけれど、体で、身にしみて、「責任」を感じたのはこの時が初めてだった。友だちからこの話を聞いた後、家に帰って泣いてしまった。私がそんなことを気にしないように、先生は私には直接その話をしなかったんだと思ったけれど、その気持ちが私にはもっと痛かった。私にしっかり話をしてくれても良かったのに。 


そんなことを考えていた時に教養の英語の担当の先生から意外な話を聞いた。その英語の先生は別の学科の教授だったのだけど、食品工学科を卒業したとのこと。

実験も失敗が多く、同じように実験事故を起こしてしまったので、もう食品工学は向かないと転向して、別の学科の先生になったという。

その話をされている最中に、この子も事故起こしたんだよ!と話をしたクラスメイトがいた。私がうつむいていたら、こうおっしゃった。

「実験嫌いにならなかった?もうできないって思わなかった?」と。

なぜか、私はそれだけは思わなかった。

「ならばよかったねえ。実験嫌いにならなくて。また勉強続けなさい」とおっしゃってくれて、ちょっと気持ちが晴れたような感じがした。 


実は実験担当の先生は私たちの学年の担任でもあったので、卒業する前にお会いしたかったのだが、私が次の進学先が決まっていて、両校の卒業式も重なってしまったのでそれが願わなかった。

そして結婚してから、郵送されてきた大学の広報誌にその先生の訃報が掲載されていた。ご存命の間に同窓会に行って話しが出来なかったことが悔やまれる。今も小田急江ノ島線で学校を通過するたびにちょっと心が痛い。 




感想



これまた一気に読み入ってしまいました。


スムーズにテンポよく進む前半と、ある事件の対比。苦い記憶とその消化のエピソード、なんとも言えない大人な後味。いやもう圧巻でしたね。


なんだかほのぼの始まった前半から、怒涛の後半への転換点「楽しいばかりではなかった」から溢れ出る嫌な予感。もう目が離せなくなってしまいますね。こういう「未完了課題は心に残る」仕組みのことをツァイガルニク効果と言います。いらないですかね、こういうの。


そこから語られる、ある痛みの記憶。淡々と、だけど圧倒的なリアリティを持って、当時の事件と想いが綴られていきます。いやはや、何度も読んでしまいました。


心をチクリと刺す、苦い思い出。大人ならば、一つや二つは持っているかもしれませんね。


ある場所を通った時、それをきっかけにある記憶が呼び起こされ心を刺す現象のことを僕は「プチフラッシュバックメモリー」と呼んでいます。いらないかもしれませんが続けます。


「プチフラッシュバックメモリー」が起こったときの対処法は、もうじっと我慢しかありません。過去には二度と戻ることはできない。そんな痛みを抱えながら、生きていくしかないのです。でも、その痛みは、その先の人生で、ちゃんと役に立つ。きっと、役に立つ。痛みが気づきとなって、強さや優しさとなって、教訓や経験となって、行く道を照らす。


文章の中から、そんな痛みの先にある静かな希望まで感じ取れる、なんとも趣深いお話でした。作文っていいなぁ。ちるださん、どうもありがとうございました。




最後は、かまくら国語塾でも話題の、すばる進学セミナー中本先生の作文です。必見。



藤沢さん



藤沢さんについて書こうと思う。


30年近く前のことだろうか。吹きすさぶ風が外を灰色にする、そんな1日だったと記憶している。当時独身だった藤沢さんは、父の同僚である。


「いいねぇ」が口癖だった。だから、藤沢さんがウチに遊びに(多くの場合は食を求めて)来た時、取り敢えず今ハマっていることを報告して「いいねぇ」をもらいたかった。承認欲求を満たしてくれる人間SNSである。


ミニ四駆に耽溺していた僕は、手に入れたばかりの「ダッシュ3号・シューティングスター」を最強マシンに仕立て上げるため、軽量化に勤しんでいた。翌日藤沢さんが来るという一報を父から受けた僕は、「超いいねぇ」をもらうために軽量化の限界に挑んだ。


しかし、限界に近づいた製造物は儚くも脆い。人類の夢、バベルの塔が崩れるがごとく、僕の夢、シューティングスターのボディはポキっと逝った。


翌日藤沢さんに無残な姿のマシンを見せた。ある意味、反応を見たかったというのもある。すると、藤沢さんは「いいねぇ」とやはり言った。そして、スタスタと我が家の台所へ赴き、ボンドと爪楊枝とプラスチック破片を母親から入手。腕まくりをして僕の夢と向かい合った。


そこからは、よく覚えていない。でも藤沢さんの目が少年に戻っていたことと、僕が藤沢さんをマジでかっけぇ大人だと認識したことを覚えている。そのあと、シューティングスターで遊んだ記憶はない。だから、きっと直らなかったんだ。



6年前。父の葬式の時。通夜・告別式を経て大企業の重鎮が並ぶ中、(母親が全力辞退を表明したため)僕が遺族代表挨拶をすることになり、父との日々、父の誇りを語った。自分でも出色の演説だったと思う。すると、どこからともなく「いいねぇ、ほんといいねぇ」と号泣している声が聞こえた。白髪だらけになった藤沢さんだった。


全然よくないよ、藤沢さん、不謹慎だよ、と思ったけど、親父の死を聞いてからずっと堪えていた涙がなぜか次から次へと溢れてきて、僕はその場から動けなくなってしまった。




「どうしてそんなに国語が出来るの? すごい!」 その一言は僕を国語教師に向かわせるのに十分だった。ショートカットとエクボが素敵な藤沢さんは、中3の時に恋した女の子である。


中1から始めた塾通い。「中学入ったら塾に行きますよ」という母親の一言は「寒くなってきたから毛布をかけてね」と同じような軽さでスッと僕に入ってきた。バスで10分。高島屋がある駅のまんじゅうみたいな名前の塾を見に行った。バスに乗っていけること、近くに大きな本屋があったこと、楽しげな授業風景が決め手だった。割と適当に決めたが、それがこの先の人生を左右したわけだから分からないものである。


勉強だけしていればいい塾では、中学校にいる時よりも自分らしくいられたのだと思う。気の合う他校の仲間も出来た。仲間の一人と同じ中学校に通っていたのが、かの藤沢さんである。テニス部だった藤沢さんは笑顔が爽やかで、人生で初めて出会ったエクボが魅力的な人だ。小学生の半袖短パンよろしく…と言っては失礼極まりないが、藤沢さんは冬の私服も常にミニスカートだった。きっと美脚を見せつけなければいけない使命感に駆られていたのだろう。


お互い生徒会に所属していて、区内の生徒会イベントで同席することもあり、どこか運命的なものを自己都合で感じ、少しずつ惹かれていったように思う。


国語のテストで全国1位(15,000人くらいの受験者だったはず)を取った時だった。藤沢さんに「どうしてそんなに国語ができるの? 尊敬する。すごい!」と言われて完全に有頂天になるくらいには僕も青かった。然して僕の国語への自信は確固たるものとなるのである。今思えば、現職があるのは藤沢さんのおかげだったのかもしれない。


そんな淡い恋心を大事に大事に暖めていたつもりだった。だが、ある日仲間の一人に指摘される。松田龍平ばりのポーカーフェイスが売りだった僕としては完全に虚を衝かれ、動揺を隠せなかった。そして、その仲間が間髪を入れずに残酷な一言を放つ。「藤沢さん、彼氏いるよ。もう1年以上。学校で一番有名なカップルだぜ。いいの?」──いいわけない。そこに突撃するほどの自信はない。しかも他校だ。


こうして僕の初恋(おそらく)は散った。でも、紛れもなく藤沢さんは可愛かった。気持ちを伝えるだけ伝えれば良かったと今は後悔している。




大学の教室にトローリーケースを引きながら現れる甲高い声の(おカマっぽい)オジさん。お世辞にも人気があったとは言えない藤沢さんは、恩師である。


教職課程の必修科目「教育心理学」の講師が藤沢さんだった。エグい科目として名高く、毎回小テストが出欠確認となっていて不人気極まりないコマである。国文学科の楽勝科目に慣れている身としては大変厳しく、しばらくは授業に行っても半眠状態が続いた。


大学一年生の時から仲良しで超優秀な(結果的に文学部主席で卒業した)森さんも同じ科目を取っていて、よく一緒に受講していた。森さん曰く、「この人の授業、聞いておいたほうがいい。中本くんが教師になるならタメになるよ、絶対」。森さんがそんなに言うなら…と真剣に聞いてみた。確かに面白かった。さすがだよ、森さん。ありがとう。


今でも使える実践が次から次へと紹介され、当時アルバイトをしていた塾で試してみたところ明らかに効果もあった。魅力的で面白い話や感動的な話をすれば生徒がついてくると思っていた金八世代としては、体系化された学びとその効果を知ることは衝撃だった。大学で一番面白かった授業は、と聞かれたら秒で藤沢さんの「教育心理学」を挙げる。でも、授業はいつも気色悪かった。能面のように真っ白な化粧をしたオカマ、もとい中性的な先生は口調もそれだったからだ。


大学3年生のある時、意を決して自分のビジョンを伝えてみた。すると「やりたい教育を実現するなら塾です」、そう自信満々に爽やかさとは無縁の笑顔で言ってくれた。へぇ、塾なんだ。塾経営ってそんなに自由で面白いのか。信頼する藤沢さんのその一言が僕を塾の世界に引き入れた。今、幸せです。先生、お元気ですか?



以上である。



僕にとって藤沢さんは良い。とても良い。


そんな藤沢さんに出会わなくなって久しい。

我こそは藤沢さんである、という人はぜひ僕の前に現れてほしい。





おしまい






思わず「藤沢さん」に改名を考えちゃいました。藤沢にある塾で名前が藤沢さんならなんだかとっても藤沢さんらしくなるのではないでしょうか。意味わかるでしょうか。


いやもう流石の文章ですよね。深夜に頂いたのですが、その場で読んでワクワクしちゃって、夜中の1時半にやたらテンション高い感想メールを返してしまいました。その節は失礼しました。そして、ありがとうございました。


もしも僕が王様だったら「もう存分に文章を楽しむがよい!」と国民全員に配布したい文章です。笑いと感動とドキドキワクワクと気になり具合のバランスが絶妙ですよね。


読めばその凄さがわかると思うので、あえて多くは語りませんが、僕が先生のことをどう呼んでいるか知ればその凄さに納得がいくでしょう。



あっという間にこの文章に魅了されたあなたは、先生の連載小説「漣の果てに。」もぜひ。





書くことって、読むことって、本当面白いねぇ。





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