「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」19 モスクワ遠征②
9月15日、モスクワ入城。ロシア軍は聖都を放棄した。住民の多数は脱出していた。ナポレオンを迎えたのは、不気味な静けさ、そして火災であった。モスクワ司令官ラストプチンがモスクワを放棄するさい放火を指示していたことは、ナポレオンのまったく予期せぬことであった。クレムリンにまで迫る火の手を、ナポレオンは呆然とみながらつぶやくように言った。
「これがやつらの戦争のやり方か!われわれはサンクト・ペテルブルクの文明にまどわされたな。やつらはいつまでたってもスキタイ人だ!」
ロシアが相手ではヨーロッパ式戦法が通用しないことを、ナポレオンはあらためて思い知らされた。地獄の劫火とも思えるモスクワの火事は4日間炎上を続けた。ナポレオンは食料が底をつかないうちにアレクサンドル1世と和を結ぼうと必死であった。モスクワに長居をすれば、それだけ全軍の飢餓の危機がはやまるだけである。9月20日、ナポレオンはロシア皇帝に親書を送り、講和の用意があることを伝える。
「・・・・美しく素晴らしいモスクワ市は、もはや存在いたしません。・・・家屋の4分の3が焼け落ちて、4分の1が残っているだけです。・・・私が陛下と戦争をしたのは、敵意があったからではありません。いちばん最近の戦闘の前にせよ後にせよ、陛下からせめて手紙一通でもいただけたら、進撃を止めたでしょうし、モスクワに入る喜びも陛下のために犠牲にすることをいとわなかったでしょう。陛下が多少なりとも私に対して昔通りの気持ちを持っておられるならば、本状の真意をくみとってくださいますでしょう」
ナポレオンはロシア帝国の誇りである聖都モスクワが陥落したからには、アレクサンドルも必ず和平に応じるであろうと信じていた。しかし、アレクサンドルはナポレオンの親書を黙殺した。次のように言ってのけたロシア軍司令官クトゥーゾフの強気は、皇帝の内心を代弁するものだった。
「われわれが戦争をしているのはモスクワのためではない。わがロシア帝国のためである!したがってある価値でも、より重要な価値には席を譲らなければならん」
その後、ナポレオンは二度もクトゥーゾフに休戦を申し入れたが、ロシア側はこの提案をフランス側の弱さの証とみていた。そして10月18日、ロシア軍はモスクワ南野ウィンコヴォでナポリ国王(ナポレオンの義弟)ミュラーの指揮する前衛部隊を奇襲してその提案にこたえた。このロシア軍の初めての勝利がモスクワ撤退を決定づける。翌10月19日、ナポレオンはモスクを発った。モスクワで奪った金銀財宝を積み上げた車両が続けば、軍と一緒にモスクワを引き揚げる女、子供も混じる異様な行列。秩序ある軍の隊伍には程遠かった。セギュール将軍はその様子を次のように書いている。
「悲しい光景が我々の当初の暗い予感を一層暗いものにした。軍隊は前日から間断なくモスクワを出ていった。あらゆる種類の約5万頭の馬を交えた14万人の行列の先方を、背嚢を背負い、武器を手にした10万人の兵士が、550門を超える大砲と2000台の砲車を曳いて行進した。かれらはまだ、なお世界征服の戦士たちのあの怖い風貌をしのばせていた。他の者は、それはものすごい数であったが、獲物の多かった侵略の後のタタール人の群れに似ていた。際限なく続く長い列のところどころに、4輪馬車や荷物箱、豪華な馬車、あらゆる種類の荷車などが混じって見えた。」
この時点でナポレオンは、ロシアからの撤退を考えていたわけではない。スモーレンスクまでさがったら、今度は北上して、アレクサンドル1世のいるペテルブルクに迫る腹だったようだ。
「・・・11月の初めの週にスモーレンスク、ミンスクおよびモヒーレフのあいだで冬営するつもりである。・・・スモーレンスクまで行けば友好国をひかえているからわがほうの必需品を提供してくれるはずで、わたしはペテルブルク戦役の兵力を用意するとともに、私の存在を必要とするところへも赴くことができるであろう」(10月16日 マレ外相宛書簡)
アレクセイ・キフシェンコ「モスクワ明け渡しを決断するクトゥーゾフ」トレチャコフ美術館
炎上するモスクワ
アダム・アルブレヒト「燃えるモスクワを眺めるナポレオン」
ロシア遠征のルート