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Kazu Bike Journey

Kii Peninsula 紀伊半島 6 (13/12/19) Ise Shrine 伊勢神宮

2019.12.14 03:47

河崎商人館街

河辺七種神社

杉木晋齋邸跡

Ise Shrines 伊勢神宮

昨夜、伊勢街道を通って伊勢で泊まったのだが、伊勢街道はまだ内宮迄続いている。今日はその街道を通り、外宮、内宮の見学をする。一般的には格の高い神社から参拝をするのが普通だが、伊勢神宮は外宮からの参拝が慣習となっている。(外宮先祭) もっとも、参拝をするわけではなく、見学なので順番は問題ではないのだが....


河崎商人館街

江戸時代から残っている伊勢商人が商いを営んでいた地域で勢田川に沿ってあり、この川を水運交通と利用して栄えた。史跡としては同じ商人の地としての松坂よりも素晴らしい古い街並みが残っている。なんとなく当時の様子が想像できるくらいだ。

伊勢河崎商人の館が資料館として公開していたが、朝一番で来たので、まだ開館前だった。ただ門が空いていたので中に入り、外観や、扉の空いている所にはお邪魔した。まだ室内は蛍光灯が消えたままで薄暗いのだが、見るには十分だった。後でわかったのだが、ここは有料の資料館だった。準備中の時に勝手に見学してしまった様だ。

河辺七種神社

河崎商人の町の氏神で商人街の通りに面した所にある。今はもう一つ冴えない神社だが、当時は活気があったのだろう。

杉木晋齋邸跡 (すぎきふさい)

普斎は御師 (おんし) としてこの伊勢に住み、西国に旅立つ折々に京都で、千宗旦に茶の湯を学び茶人として普斎の号を与えられ、宗旦四天王と言われるていた。ここで興味を引いたのは御師という職業。初めて聞くので何を生業にしているのか調べた。御師とは元々は御祈祷師と呼ばれ、特定の神社に属して、各地に赴き、祈祷をしていた。その後、属している神社に参詣をする人の旅や宿の手助けをする様になった。下級神官の様な立場だった。特に熊野講、富士講と言った各地から参詣がブームになった際は、御師が多くいた。伊勢もそれにもれず、各地から多くの人が訪れるので御師の数は多かった。江戸時代には二千人あまりの御師が活躍し、その館も外宮方面だけでも六百軒あったともいわれている。この一見、ツアーコーディネーターの様な役割だが、もう一つ重要な仕事がある。それは各地にその神社の檀那を作ることだった。(檀那はサンスクリット語源ダーナで布施をする人を意味する) ようするに布教活動である。旅のお世話はサービスで、本当はこちらが目的であったと思う。江戸時代の文献では420万の檀那が記されている。檀那からはお布施や寄進の神社にとっては経済的な支援が得られる。多くの全国に信者 (檀家、檀那) を持っている神社や寺院はこの御師により拡大をした。出雲大社を訪れた際に、全国に信者を抱える出雲大社教の事を知ったが、それはこの御師の布教活動によるものだ。伊勢神宮も全国に檀那を抱えている。この背景には伊勢神宮は天皇家のみに参詣が許され、一般庶民は参詣は禁止されていた。伊勢神宮が経済的に苦しくなり、その資金集めのために、この御師が活躍をし、同時に、伊勢信仰を一般庶民に広める役割をになった。現在の伊勢神宮のあり方には、この御師の功績が大きいだろう。これは意図的にこの様な制度を作り上げたのかは分からないが、非常に面白い仕組みだ。この御師の活動が伊勢神宮をいわゆる観光地に仕立て上げ、同時にロイヤルカスタマーの檀那も作っている。庶民特に金持ち層は観光 ができ、信心という漠然とした心地よさに浸れる。これは現代でも観光事業の中で取り入れるヒントになるのではと思う。江戸時代以前にこの様な事が行われていたのは驚きだ。ちなみにこの檀那が現在よく使われる旦那の元になっている。

Ise Shrines 伊勢神宮

伊勢神宮には小学校の修学旅行と一番上の娘が1歳になった時に来た。今回で3回目。修学旅行では拝礼の仕方を学校で何度も練習させられたせいか、拝礼をしているところしか覚えていない。伊勢神宮は内宮と外宮で構成されていると思っていた。他の神社では内宮と外宮が同じ敷地にあるのだが、伊勢神宮は3キロも離れている。不思議に思っていた。他のグループにガイドしているのを聞くと伊勢神宮は伊勢にある神宮で、正式には神宮だけでいいのだそうだ。内宮と外宮だけでなくは、別宮、摂社、末社、所管社を含めた合計125の社宮が「神宮」の構成になっている。

伊勢神宮とは一体どの様な位置づけの神社なのだろうか?他の一般の神社とは格が違うのはわかるのだが、具体的にと言われるとハッキリとは答えられない。伊勢神宮の起源については昨日訪れた斎宮のところで触れている。この時代には皇室の氏神として、天皇以外の奉幣は禁止 (私幣禁断) されており、それが今でも続いている。一般庶民のお詣りも禁じられていた。江戸時代以降一般庶民も参拝するのだが、私幣禁断は続いており、賽銭箱が無いのもそれが理由。私的な願い事も禁止とされている。つまり、庶民の為の神社では無いという事は今も変わりが無い。。平安時代後期に、神社の格付けがなされた。伊勢神宮は全国の神社を束ねる総本として格付けの対象外であった。この格付けが面白い、当時の官位と同じ様に神様にも官位が与えられていた。格付けがもらえる神社とは国の保護を受けた神社という事になる。この格付けは時代で変わってはきたが、第二次世界大戦の敗戦迄続いていた。

豊受大神宮別宮 (外宮 がいくう)

第21代天皇の雄略天皇の代 (5世紀半ば) に、天照大御神が天皇の夢に現れてお告げがあり、(一人では食事が心許ないので呼び寄せる様にと) 丹波国の比沼真奈井原 (まないはら) から、ここ伊勢市の中心部、高倉山の麓の山田原へ遷座したことが起源とされている。祭神は豊受大神 (とようけおおみかみ) で神話の伊邪那美命 (イザナミ) の尿から生まれた和久産巣日神 (ワクムスヒ) の子の食物・穀物を司る女神トヨウケビメの事。(日本神話では尿や糞などから神が生まれている。神様も排泄をする。喜怒哀楽もあり非常に人間に近いものとして表されている。これは面白い。人間とは異なる超越したものではなく人間より少し超能力のあるものとして神が描かれていることに、古事記や日本書紀の筆者の巧妙な意図がある様に思える。)

日本神話の登場人物の系図があった。これでそれぞれの宮に祀られている神を見ていこうとしたが、全てを網羅している系図は見当たらない。相当の数の神々が創造されているので一枚に収める事は無理がある。しかも文献により、名前も変わり、表記している漢字もまちまちで調べるにかなりの時間をかけた。表の中に別宮や所管社なども含め内宮と外宮に祀られている神をハイライトしてみた。内宮は赤、外宮は青、その神に関連して説明に登場する神は緑で囲っている。これでそれぞれの神の関係が大まかに把握できる。

伊勢神宮の参拝はまずこの外宮を済ませて内宮へと言われている。古事記や日本書紀の記述から推定すると内宮の起源がが紀元前一世紀後半なので、外宮は500年ほど後でできている。当然の事なのだが、内宮より下位に位置付けられていた。江戸時代には内宮と張り合い同格であると主張していたが、明治時代になり国家神道になる時に明確に内宮が上位に位置付けられた。

[表参道/火除橋/一の鳥居]  外宮への玄関口。外宮は左側通行、内宮は右側通行。理由は不明だが、神宮の説明では手洗場 (みたらし)が内宮は右側、外宮は左側にあるからとしている。火除橋の真ん中は神様の通路なので歩かないでくださいと言われていた。

[御厩 (みうまや)、忌火屋殿 (いみびやでん)]  御厩は神様の乗り物とされる神馬がいる場所。神馬は、毎月1日、11日、21日に正宮にお参りをするらしい。馬はいないのだが、馬のプロフィールと「餌をあげないで下さい」の注意書があった。馬はいるのだろうか?

忌火屋殿は饌を整える「神様の台所」。忌火は、清浄な火という意味らしい。今でもここで供え物を準備しているのだろうか?

[三ツ石 (川原大祓所)] 御装束神宝 (おんしょうぞくしんぽう: 正殿の内外を飾りの品々や、武具、馬具、楽器などの調度品のこと) や奉仕員を祓い清める20 年に一度の式年遷宮 (天武天皇が制定) の川原大祓が行われる場所。ここはパワースポット? この三ツ石で右手をかざすと、強力なパワーが貰えるそうだ。遷宮の為なので内宮にもある。

[九丈殿と五丈殿/神楽殿] 九丈殿と五丈殿はお祭りが雨天の場合、神饌 (しんせん) などを祓い清める場所。20年ごとの式年遷宮の饗膳の儀もここで行われる。神楽殿は正宮に向かう参道の途中にある銅板葺、入母屋造りの建物。元々は神楽を演奏する場所の意味だろうが、今は祈祷をしている様だ。

[正宮 (しょうぐう)] 天照大神の食事を司る御饌都神 (みけつかみ) として豊受大神を祀る。中には入れず見れないのだが、正宮の奥に位置する御饌殿 (みけでん) では朝と夕の二度、天照大御神と豊受大神を始め内宮/外宮の相殿 (あいどの) 及び別宮の神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭 (ひごとあさゆうおおみけさい) が続けられている。

[土宮/多賀宮/風宮 (豊受大神宮別宮)] 正殿の奥には土宮、更に階段を登り多賀宮、降りると風宮の3つの別宮 (わかれのみや) がある。別宮は独立した社宮として位置付けられてており、この3社は外宮式内にある。もう一社は外部にある月夜見宮でこの後訪問予定。

  • 多賀宮 (たかのみや) は、外宮に所属する四別宮のうち、第一に位置し、殿舎の規模も他の別宮よりも大きい。祭神は、豊受大御神の荒御魂 (あらみたま)。これは興味深い。神様の感情を抜き出して祭神にしている。魂のおだやかな働きは和御魂 (にぎみたま) 荒々しく神威をあらわす働きを、荒御魂と言うらしい。
  • 土宮 (つちのみや) の祭神は大土乃御祖神 (おおつちのみおやのかみ)。大年神と天知迦流美豆比売神の間に生まれた。元々は山田原の鎮守の神であったが、外宮の鎮座以後は宮域の地主神、宮川堤防の守護神となり、平安時代末期に別宮に昇格。(神様にも昇進があるのだ!)
  • 風宮 (かぜのみや) の祭神は、風雨を司る級長津彦命(しなつひこのみこと 古事記では志那都比古神) またの名を級長戸辺命 (しばとべのみこと) で、イザナミが朝霧を吹き払った息から生まれたとされている。内宮別宮の風日祈宮 (かざひのみのみや) の祭神と同じ。農作物に大きな影響を与える雨風を司る。

先の系図で見当たらない神もおりそれはこの系図に載っている。

[斎館] 法会・写経・神事等の儀式が行われる前に、祭主や神職が、一定期間ここにこもって食事や行動を慎み、沐浴などをして心身を清めるための施設。

[せんぐう館] 式年遷宮に関しての資料館がある。

[北御門 (きた御門)/手水舎/火除橋/北御門鳥居] 昔は北御門が正面口だったが、明治時代に伊勢市駅ができたことで、表参道が正面口になった。

これで外宮見学を終えて、神路通と呼ばれる通りで外宮の四つ目の別宮の月夜見の宮に向かう。

神路通 (かみじどおり)

外宮の裏参道と月夜見宮とを結ぶこの道を「神の通う路」と呼んでいる。外宮の別宮である月夜見の宮の神様 (月夜見尊) が、外宮の神様 (豊受大神) のもとへ通う路。神様は夜に宮の石垣の一つに杖をあてて白馬にかえて乗って行くと言われている。夜、この道を通る人は、神様に出逢わないよう畏れつつしんで、道の真ん中をさけ端を通ったそうだ。

月夜見宮 (豊受大神宮別宮)

神路通を抜けると月夜見宮。祭神は月夜見尊 (つくよみのみこと 月読命)。天照大御神の弟神で内宮別宮 月読宮の祭神と同じ。月夜見尊は伊弉諾尊 (いざなきのみこと) の子供のうち三神を三柱の御子神に命じた。左目から生まれた天照大神は高天原 (日の世界)、右目から生まれた月夜見尊は天界 (夜の世界)、鼻から生まれた素戔嗚尊 (すさのおのみこと 須佐之男命) は青海原を治めるように命じたと記されている。これには続きがあって、月夜見尊は保食神 (うけもちのかみ) を殺した時に保食神から五穀と稲が取れ、そして養蚕の道が開かれたという。これが現在でも宮中において天皇が田を耕し、皇后が養蚕を行っている理由。

皇大神宮 (内宮)

伊勢信仰の中心となる神社がこの皇大神宮 (内宮) で全国に皇大神宮 (内宮) を総本社とする神明神社が4,500程存在すると言われている。神明神社に分類される神社は神明社、神明宮、皇大神社、天祖神社などともいい、通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。祭神は八咫鏡が神体の天照大御神で太陽を神格化した神であり、皇室の祖神 (皇祖神) とされている。相殿神は岩戸隠れの際はアマテラスが岩戸から引きずり出したと言われる天手力男神 (あめのたぢからおのかみ) と造化三神の一人の高皇産霊神 (たかみむすびのかみ) の娘とか孫と伝えられている万幡豊秋津姫命 (よろづはたとよあきつひめのみこと)。起源は第11代垂仁天皇26年 (B.C.4年)、倭姫命が五十鈴川上流の現在地に祠を建てて祀り、磯宮と称したのが始まりとされている。

ずうっと気になっていたのが、伊勢神宮と天皇家との関係、その組織、その資金は何処からなのかと言う事。伊勢神宮の組織はその他の神社とは異なっている。神職の最上位には「祭主」が位置し、それを補佐する「大宮司」がその次にくる。この二つは代々、皇族が就任することになっている。この下に「小宮司」がおり、これが一般の神社の宮司にあたり、日々の運営はこれ以下の組織でおこなわれている。この伊勢神宮特有の祭主と大宮司は祭主が女性になった事で外観的には昨日訪れた斎宮の昔の斎王に近い形になった様だが、祭主という地位は古代から存在しており、大中臣氏の貴族が務めていた。この昔からの祭主を皇族が担うという形になったと言った方が適切だろう。第二次世界大戦で敗戦、GHQの統治の元で、国家神道が廃止され、明治以降、国の組織の一部であった伊勢神宮も宗教法人の一つとなった。宗教法人神社本庁という日本全国の神明神社の総括団体が出来上がった。この神社本庁のトップの総裁は先ほど触れた歴代祭主が就任している。皇族との関わりがかなり深い事を表している。神社本庁の職員は600名で、そのうち100名が神職にあたる。神社としては非常に大きな組織だ。先にも書いたが、伊勢神宮には賽銭箱がない。一般の人の神社では無く、天皇家だけの為の神社だからだ。そこで気になるのはどの様な仕組みでこの大所帯を維持しているのだろうか? 神社本庁の傘下には約8万の神社があり (各都道府県ごとに神社庁が置かれている)、各神社からの寄付金と称した上納金が一つ。金額はその神社の氏子数や状況を加味して決められている。零細神社には年間数千円で法外な金額ではない。年間で約10億円程の収入だそうだ。二つ目は皇大神宮の神札の各神社への委託販売の売り上げで年間70億円にもなる。ノルマがあり、それに応じて皇大神宮の神札が各神社に配布される、売れ残りは各神社の買取となる。それ以外に財界などからの寄付金が莫大な額になっている。これにより、年間運営費や20年毎に行われる550億円にもなる式年遷宮の建て替え費用が賄われている。神社本庁には多くの下部組織があり、その一つの神道政治連盟には300人もの国会議員が加盟して、安倍晋三が会長を務めている。政治的に影響力がある。

国家神道時代からの特権的立場は主教法人となった今でも続いており、組織運営には問題があり、神社本庁を離脱する神社や、反旗を翻す所が出てきている。ブラック企業の様だ。あきらかに皇室や日本政府がバックにいるという高慢な姿勢が反発を呼んでいる。

神社本庁の話はここまでにして、伊勢神宮見学に戻る。伊勢神宮のホームページではガイドコースが載っていたのでそれに沿って見学をすることにする。

入口前の様子。駐車場と参道商店街

❶ 宇治橋/五十鈴川

内宮への入口は五十鈴川にかかる宇治橋になる。宇治橋の正面には大鳥居。この鳥居も20年毎に新しくなるのだが、内側の鳥居は、内宮の旧正殿の棟持柱が、外側の鳥居は外宮の棟持柱が再利用して建てられ、20年後には内側の鳥居は鈴鹿峠の関の追分、外側の鳥居は桑名の七里の渡しの鳥居となるそうだ。訪れた桑名の七里の渡しの鳥居はここから持って行ったのか。橋の横に別の橋の柱の様なものが建っている。式年遷宮で橋を架け替えるのに使うのかと思っていたら違っていた。これは木除杭 (きよけぐい) とよばれ、五十鈴川の増水や氾濫の際に、上流から流れてくる流木が宇治橋の橋脚へあたることを防ぎ、橋を守る役目をしているそうだ。。

❷ 手水舎/御手洗場

宇治橋を渡ると広い広場 (神苑) がありそこを進む。

お参りのための手水舎

[御手洗場]  五十鈴川は、御裳濯川 (みもすそがわ) とも呼ばれ、再三再四登場する倭姫命が御裳のすそを濯いだことから名付けられた。参道から少し下り五十鈴川には、元禄5年 (1692) 徳川綱吉の生母の桂昌院が寄進した石畳を敷き詰めた御手洗場がある。ここでは手水舎と同じでお清めの場所、どちらか一方だけでも良いそうだ。お参りでは無く、見学なので両方スキップ。

❸ 瀧祭神

内宮の所管社30社のうち第1位に位置付けられており、内宮の所管社ながら祭典は別宮に準じる。祭神は五十鈴川の水源の神とされる瀧祭大神 (たきまつりのおおかみ) でここは祭殿がなく、板張りの中に神体の石があった、板の隙間から撮影させてもらった。

外宮にもあった川原祓所は、この滝祭神の南側の河合淵端 (かわいぶちはた) と呼ばれる川原にある。

❹ 神楽殿

宇治橋から正宮に至る参道の中間地点に内宮神楽殿がある。銅板葺の入母屋造の建物。写真左上が神札授与所で上で触れたが伊勢神宮の貴重な収入源のお札販売や次回の式年遷宮の寄付を募っていた。右上が神楽殿でここで神楽を奉納する事ができる。私幣禁断であったため、明治時代以前は、この神楽奉納は御師の宿泊所で行っていた。御師は日本各町を回って、祈祷や神楽奉納の儀式も行なっていた。これにより伊勢大神楽が全国的に展開していった。伊勢神宮では当時は神楽を奉じるの機会が限られており、自前の楽団を持っていなかった。明治以降にやっと自前の神楽団を組織したそうだ。

[御厩 (みうまや)] 神様の乗り物とされる神馬がいる場所。神馬は、毎月1日、11日、21日に正宮に参拝。今日は馬は不在。参拝の日にしかいないのだろう。

[五丈殿]  外宮には九丈殿もあったが内宮には五丈殿のみ。

[由貴御倉 (ゆきのみくら) /御酒殿 (みさかどの)] 御酒殿 (左) は酒の神の御酒殿神を祀っている。昔は神様に供える神酒を醸造していたが、現在では醸造はしていない。由貴御倉 (右) には供物や果物などを守護する神様の由貴御倉神が祀られている。(由貴の言葉の意味は穢れなくとか清浄で貴い) 倉とは書かれているのだが、伊勢神宮内宮 (皇大神宮) の所管社で一つの神社に数えられる。由貴御倉神は御饌津神 (みけつかみ) と同じ神様とも宇迦之御魂神 (うかのみたまのかみ) とも言われている。

[忌火殿 (いみびやでん)] 神饌を準備する「神様の台所」。(忌火とは“清浄な火”という意味)

[御贄調舎 (みにえちょうしゃ)] 神様に捧げるための食事を調理する場所で、内宮での祭典の際、外宮の豊受大御神を迎え、贄 (神や天皇に供える食事) の代表としてアワビをととのえる儀式が行われる。ちなみに神様の食事は1日2回あるそうだ。食べ残しはどうしているのだろう? (全部食べ残してしまうのだろうけど)

❺ 正殿

天照大御神を祀っている場所。ここも神聖な場所として階段から上は撮影禁止だそうだ。これは神社や寺によってずいぶんと違う、お寺でも、仏像は撮影はダメというところもあり、最近行った一身田の専修寺は撮影完全自由で、神社では撮影禁止は伊勢神宮ぐらいだろう。これは国家神道の特権的な意識の名残が残っているのだろう。

❻ 御稲御倉 (みしねのみくら)

三節祭で供えされる神田で収穫された米が一年分納められている。供物のほとんどは神宮の関係施設でまかなわれている。(伊勢神宮では供物専用の水田、畑、塩田などが運営されている。スーパーで売っているものではいけないらしい。同じ神様を祀っている一般の神社はスーパー品をお供として使っているが、その神様の祟りなどは聞いた事が無いのだが、伊勢神宮は特別だ。と言うより変だ。別格である事を表したいのだろう。) 倉にも祭神がいるらしく、ここは御稲御倉神で宇迦之御魂神 (うかのみたまのかみ) の事と言われている。宇迦之御魂神といえば先ほど見学した由貴御倉の祭神と同じだ。更にしらべると、外宮の豊受大御神のことと書かれてあった。

[外幣殿 (げへいでん)] 古神宝類 (こしんぽうるい) が納められている。この神宝とは神様が日常生活を送るのに必要なものだそうで、日用品、織り機、手箱、枕、食器、刀、馬具、衣服、鏡、玉、楽器、文具など1600点にも及ぶ。20年毎の式年遷宮の度に新しいものが用意されて、それまでのものは、処分される。この品々は熟練の職人が作るもので、それなりの素晴らしい品物らしい。それをただ置いておいて使わずに捨てる。古来からのしきたりとは言え、これでいいのだろうか、これはやめるべきでは無いのだろうか? 採用された職人は選ばれた事は名誉かもしれないが、少し複雑な心境では無いだろうか。これをさらりと説明している伊勢神宮も感覚がおかしいのでは無いのか?

❼ 荒祭宮 (あらまつりのみや) 荒祭宮は、内宮に所属する10の別宮の第一位。正宮に次ぐ大きさ。祭神は、天照大御神の荒御魂 (あらみたま)。ただ、古代の文献では瀬織津姫 (せおりつひめ) が正式の祭神と言われている。又別の説では天照大御神の荒御魂が瀬織津姫ともある。

[四至神 (みやのめぐりのかみ)]   至とは神域の四方を意味し、神宮の境内の東西南北の方角を守護する神。社殿や御垣はなく、石畳の上に祀られます。元々は相当の数の遥拝所である四至神が内宮や下宮の境内にあったのだが、処分されたりして、どれが四至神か他の神社の遥拝所なのかは分からなくなっていたのを明治時代に今の四至神を決めたそうだ。見るとただの石なのだが、これでも所管社である。これを見ると、3ヶ月滞在した沖縄の神を思い起こさせる。至る所の石積みの拝所や遥拝所があった。古代の拝所や遥拝所はにほんも沖縄もほぼ同じ様な石積みだったのだろう。日本は権威づけもありその上にありがたく見える社を被せているだけで同じものかもしれない。この四至神は荒祭宮で登場して来た瀬織津姫、速開都比売神 (はやあきつひめ)、気吹戸主神 (いぶきどぬし) と速佐須良比売神 (はやさすらひめ) を指す。

❽ 風日祈宮 (かざひのみのみや)   祭神は、伊弉諾尊 (いざなぎのみこと) の御子神で、風雨を司る神の級長津彦命と級長戸辺命。雨風は農作物に大きな影響を与えるからおとなしくしてもらうために祀っている。

❾ 参集殿

参拝者向けの無料休憩所。中央には能舞台があり、能や狂言など各種行事が奉納される。

大山祇神社 (おおやまつみじんじゃ) / 子安神社

共に内宮の所管社。大山祇神社の祭神は大山祇神 (おおやまつみのかみ) で山の守り神。大山祇神は (いざなぎのみこと) と伊邪那岐命伊邪那美命 (いざなみのみこと) との子神。式年遷宮で使われる檜は昔はこの伊勢の神宮の所轄の神路山、高倉山、島路山の3山から伐採していたが、必要な樹齢800年から900年の木材が中世には取れなくなり、それ以降は宮内省管轄の木曽の山から調達している。昔から植林もしていたので、100年後には伊勢の3山から調達できる様になるそうだ。伊勢市の山林の半分が伊勢神宮管轄の土地だそうだ。(民間から調達しても良いと思うが、とにかく自給自足にこだわっている。)

大山祇神の娘が石長比売 (いわながひめ) と木花之佐久夜毘売 (このはなさくやびめ) で妹の木花之佐久夜毘売は隣にある子安神社に祀られている。木花之佐久夜毘売の夫神は天照大御神の孫神の邇邇芸命 (ににぎのみこと) で、妻神の子供の父親が自分かどうか疑いを持っていた為、木花之佐久夜毘売は出産の時に産屋に火を放ち邇邇芸命が父親であれば無事生まれるはずとし、木花之佐久夜毘売は無事に3人の子神を出産したと言う神話から安産や子育ての神となっている。この子供のうち二人が海彦と山彦の神話で有名な火照命 (ほでり[古事記]、火闌降命[日本書紀]) と火遠理命 (ほおり[古事記]、彦火火出見尊[日本書紀])

これで内宮見学を終了し、参道にある商店街をぶらぶらする。

おはらい町

宇治橋から五十鈴川に沿って800mの石畳通りがおはらい町で、切妻、入母屋、妻入り様式の土産物店や飲食店が連なっている。

江戸時代には鳥居前町として栄えたおはらい町は、参宮客が年間200 - 400万人も押し寄せ、当時は御師がこの通りに館を連ね、客人をお祓いや神楽でもてなしたことから、いつしか「おはらい町」と呼ばれるようになったという。高度経済成長期にはこの地域も近代化が進み昔の面影が失われていった。1970年代後半には年間参拝者500万人に対しておはらい町を訪れる観光客は年間20万人まで落ち込んでしまう。そこで立ち上がったのが、伊勢の老舗の赤福で、おはらい町の再生を進め、石畳を敷き、街並みも昔風に変え、10年で江戸時代の町並みを復活させた。赤福は1993年の式年遷宮に合わせておかげ横丁を開業。2002年には入込客数が300万人を突破し、お蔭参りの頃の賑わいを回復。これは凄い事だ。観光客の流れを引き込んだ。この事例を研究すれば、他の地域活性化を進めている地方都市には参考になるのではないか。ただ一つ言えるのは、次から次へとアイデアを出し実行する赤福の様なリーダーがいた事が一番の重要なポイントに思える。

赤福本店も立派な店構えだ。

おかげ横丁

赤福の活性化計画のひとつ。江戸期から明治期にかけての伊勢路の代表的な建築物が移築・再現されたおかげ横丁。大勢の人で賑わっていた。

月讀宮 (つきよみのみや 皇大神宮別宮)

内宮と外宮の間の五十鈴川沿いに位置している。外宮から内宮への伊勢街道はいくつもあり、五十鈴川沿いに行くと6キロ程、距離の短いのは4キロ程で、行きは短い方、帰りは五十鈴川沿いを通った。ここは内宮見学を終えた帰りに立ち寄った。

月讀宮は内宮の別宮になりい祭神は月読尊 (つきよみのみこと)。天照大御神の弟神で、外宮別宮 月夜見宮が祀っている祭神と同じ。月の満ち欠けにより暦を司る神。ここには月読宮だけでなく、後三つの別宮がある。

案内板では参拝順序が決まっている様だ。四つの別宮が並んで建っている。向かって右から月読荒御魂宮②、月読宮①、伊佐奈岐宮③、伊佐奈弥宮④で、①から④の順番で参拝との事。

それぞれのの別宮の祭神は月読荒御魂宮が月読尊の荒御魂、月読宮が月読尊自身、伊佐奈岐宮が伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)、伊佐奈弥宮が 伊弉冉尊 (いざなみのみこと) となっている。伊佐奈岐と伊佐奈弥は宮の名と神の名で漢字表記が異なっている。何故かは不明。ここにも荒御魂を切り出して祀っている。古代は自然の脅威を神の仕業と恐れていたので、特に荒ぶる神の状態を鎮める為に祀っているのだろう。

宮は国道沿いに土塁と水濠で囲まれている。昔から、この様であったかはわからないが宮の敷地は広大だ。ただし、参道と拝殿以外は縄で仕切られて、立ち入り禁止。伊勢神宮のほとんどがこのように立ち入り禁止の所だらけだ。神聖な場所である事を強調しすぎている様に思える。

月読宮から外宮近くまで戻って来た所に倭姫宮 (やまとひめのみや) があり、今度はここに行く。国道を走って向かうと、大鳥居が見えて来た。ここから倭姫文化の森という公園が始まり、倭姫宮はこの公園の入り口にある。

倭姫宮 (やまとひめのみや)

伊勢の倉田山という丘に、内宮の別宮として倭姫宮が鎮座し、第11代垂仁天皇の第4皇女で、2代目の斎王、伊勢神宮の創建者でもある倭姫命が祀られている。神宮の多くの宮は日本神話の初期の神々を祀っているのだが、ここは日本神話の神ではなく、皇女であり斎王であった倭姫命を祀っている。確かに内宮の創設者ではあるが、少し毛色の違う祭神の様に思え、この宮ができた時期が気になり調べると、1923年 (大正12年) で最も新しい別宮であった。明治から大正にかけて、この宇治山田地域の住民が中心となりこの神社の創建運動が行われた結果、創建が許可された。成る程、ここは少し成り立ちが他の宮とは異なっているはずだ。

神宮微古館/神宮美術館/神宮農業館

宇治山田の住民が中心になって、1886年 (明治19年) に、民家の火災が神宮への延焼を防止する目的で、財団法人神苑会が結成され、1891年 (明治24年) に外宮前に日本最古の産業博物館である神宮農業館 (写真右下) を創設、1911年 (明治44年) にはヴェルサイユ宮殿を模した神宮徴古館 (写真上) を建設して共に神宮に奉納されている。この神宮徴古館の完成後に神苑会は解散している。この非営利団体の神苑会などは地元住民のお伊勢さんへの想いが強い事が感じられる。赤福の活動もそうだが、今の伊勢神宮を中心とした伊勢市はこのような住民の想いで発展して来た事には敬意に値する。この公園には式年遷宮記念神宮美術館 (写真右中) があり、これは神苑会とは関係はなく、平成5年の第61回神宮式年遷宮を記念して創設。文化勲章受章者・文化功労者・日本芸術院会員・重要無形文化財保持者(人間国宝)などが式年遷宮の際に伊勢神宮に奉納した絵画・書・彫塑・工芸を収蔵・展示している。

公園から倭姫命御陵に向かおうとしていた時に公園に散歩に来ている爺さんに会い、立ち話をした。旅の話やいかに伊勢が素晴らしい所かを話していると、爺さんは「そんなに伊勢は良い所か、その様に思った事が無かった」と嬉しそうに言っていた。多くの観光地の住民は同じ様な感覚だ。地元の良さは毎日見慣れているので、実感していない。外から訪れる人の方がそれを感じる事が出来る。地域活性化についても、個人的意見だが、その地域の行政や住民で閉じた計画よりも、思い切って外部に計画を委託した方が良いアイデアが出ると思う。そうやっている所も有るが多くは形だけや助成金目当ての物で、成功のカギは地域行政の真剣なやる気にあると思う。

倭姫命御陵

倉田山に隣接する間の山(あいのやま)に尾上御陵(おべごりょう)と呼ばれる小さな古墳がある。円墳とする説と前方後円墳とする説があるが、この尾上御陵は昔から倭姫命の陵墓とする伝承があった。これが住民に倭姫宮の創建の大きな動機となったのだろう。1928年 (昭和3年) に倭姫命御陵墓参考地に指定、現在は宮内庁管理となっている。

例の如く柵の隙間から内部に侵入をしたが、先程、爺さんと長話をしたので、日暮が近く中は樹々で覆われて良く見えない。中には参道の様なものもありそれなりに整備されていた。見学を終えるとどっぷりと日が暮れている。ここから昨日と同じ宿に帰る。明日は二見に行く予定。