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東洋の絵画

3. 石窟寺院

2019.12.13 04:29

仏教の伝来と石窟寺院

後漢の時代にインドから伝わっていた「仏教」が中国の北朝・南朝の両方にまで広がり、洛陽(らくよう)や建康(けんこう)などでも仏教寺院が多数建立され、堂内には壁画も描かれました。
この時代、竺法護(じくほうご - 人名)や仏図澄(ぶっとちょう - 人名)などの外国人僧も渡来し、それとともに西域やインドの画法も伝わり、寺院の堂内は外国風の壁画で飾られていました。


凹凸寺の例

南朝の梁(りょう - 王朝502~557年)の武帝に仕えた画家、張僧繇(ちょうそうよう - 人名)が建康の一条寺に描いた花の絵が立体的に見えたことから、「凹凸(おうとつ)寺」と呼ばれていたとされています。これは西域画風の陰影法を応用したと言われています。


シルクロードは石窟寺院でもある

この時代から、西域に石窟寺院(せっくつじいん)も切り開かれていきます。
石窟寺院とは、岩壁の岩をくりぬいてその中に仏像を安置したり、壁面に仏像を刻み出すなどした寺院です。 インドのアジャンタ、中国の雲崗(うんこう)、敦煌(とんこう)、竜門などがよく知られています。

石窟寺院群は様々な文化の通り道となっているシルクロードに沿うようにも点在しています。西安から西へ、河西回廊一帯には、麦積山(ばくせきざん)、炳霊寺(へいれいじ)、天梯山(てんていざん)、文殊山(もんじゅさん)、楡林(ゆりん)・敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)などがあります。さらに西方のキジルやホールターヘンと続きます。

石窟寺院は長期に渡って造営が続けられ、描かれている壁画はそれぞれの時代の遺品として大変貴重なものです。


敦煌莫高窟

4世紀中ごろに開削され、1000年以上に渡って造営・修復がなされてきました。
北魏と西魏の時代(386~556年)の壁画では、主に、釈迦の伝記を綴った「仏伝(ぶつでん)」や釈迦の前世の物語「本生譚(ほんじょうたん)」が描かれていました。山や樹木で場面を区切ったり、異時同図法(いじどうずほう - 異なる時間を一つの構図に描き込むこと)が用いられています。また、「サッタ太子本生(捨身飼虎(しゃしんしこ))」なども多く描かれています。

人体などで表現された隈取りは凹凸を表現した陰影法によるもので、中国画とは異なるキジル地方の画法に似た彩色法が用いられています。伏羲(ふくぎ - 神話の人物)や女媧 (じょか - 神話の人物)などといった中国古来の神話の人物が描かれ、敦煌が東西文化の合流点であった影響を受けています。


敦煌壁画に見る随・唐の仏教絵画

敦煌の仏教石窟の造営は随、唐の時代に最盛期を迎えました。

晩唐の張彦遠(ちょ げんえん - 人名・著述家・絵画史家)の「歴代名画記」には、長安と洛陽の寺院には数多くの仏教壁画が描かれていたと記載されています。大変残念なことに、今日ではそれらは全て失われてしまいましたが、敦煌の壁画には唐が最も栄えた時代の絵画様式が反映され、現存しています。

壁画だけではなく、敦煌第十七窟からは大変多くの古文書や経典も発見され、絹や紙に描かれた仏教絵画や挿絵入りの経典もあり、唐の中期から後期、五代(唐衰退後、北宋が興るまで華北に興亡した後梁、後唐、後晋、後漢、後周の5つの王朝のこと)のころの貴重な資料や、絵画を残しています。


浄土図

石窟の壁画には阿弥陀(あみだ)、弥勒(みろく)、薬師(やくし)など、大乗経典に説かれた浄土のようすを透視図法により俯瞰的に描いた浄土図が見られます。随から唐のはじめにかけては主要な仏や菩薩が大きく描かれ、楼閣(ろうかく)などは背景の一部に過ぎませんでした。唐の最盛期には、石窟が大規模になり、それにともなって壁画も大きくなります。

前方に宝池(ほうち)、露台(ろだい)、左右には宝石で飾られた樹木や重層の楼閣、上方には天人や飛楽器などを細密となります。「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう - 大乗仏教の経典の一つ)」にもとづく阿弥陀浄土図の周囲には、阿闍世王の物語や十六観などの説話がシーンを分けて描かれているなど、こういった浄土図が当時の東アジア全域で流行していたとされています。

敦煌壁画に描かれた帰義軍節度使

唐朝末年頃、五代十国から宋朝初年に至るまでの期間、河西回廊の敦煌を中心として帰義軍(きぎぐん)が支配していました。唐時代から浄土図の構成が複雑化していましたが、帰義軍節度使(きぎぐんせつどし)の時代には整理されていきました。

帰義軍節度使は吐蕃(とばん - 7世紀初め~9世紀中ごろのチベットの統一王国)の支配から敦煌を奪い返したこの地方の漢族の武将(張議潮(ちょうぎちょう)や曹義金(そうぎきん)など)です。

このころの敦煌壁画にも、彼らが騎馬隊を編成して出征する様子を描いたものなど、仏教画の他に世俗画も描かれています。



時代とともに移り行く敦煌壁画のモチーフ

【北魏・西魏・北周 5~6世紀】
西域との交流が盛んなこの時期、キジル風の人物描写、隈取りによる凹凸画法により、仏伝図、本庄図が多く描かれています。

【随~唐初 6世紀末~7世紀】
国力が強くなり、西域と中国絵画の混淆(こんこう - 入りまじること)により、浄土図、維摩経変(ゆいまぎょうへん - 大乗仏教経典の一つ)などが描かれています。

【盛唐~中唐 8~9世紀】
中央文化が隆盛(りゅうせい)し、華麗な中央様式の影響を受け、大規模な浄土図が多く見られます。またこの時期に敦煌が吐蕃に占領されました。
密教の要素が混入し、密教図像も描かれています。

【晩唐以降 9世紀以降】
帰義軍節度使が勢力を得、西夏が侵入してきたこの時代には、さまざまな地方の様式が取り込まれ、図像がパターン化してきました。従来の画題を継承しながら、世俗、地方的画題が描かれました。