F.CHOPIN、ショパンとサンドの冬のパリとクレンゲルとの再会
ショパンは、冬の厳しい寒さのパリで毎年体調が悪いのだ。しかし、今年は違うのだ。
ショパンの他の家族とも呼べぬ一緒に暮らす全員がとうとう倒れてしまったのだ。
パリは街中が風邪であると、ショパンは姉ルドヴィカに伝えた。
「今日は12月24日です。私はあなたに尋ねたいです。どうやったら、新年の前に頭をその人の肩よりも上に保つことができるのか?
扉の呼び鈴は止まらず、アパルトマンに鳴り響いています。今日は全員が我慢できず風邪でダウンしていてます。
僕は驚くような咳をすることはありませんが、サンド夫人は風邪をひいていて、のどが痛くて部屋から出られないため、彼女はひどくいらいらしています。」
サンドは持病のリュウマチで足を引きずって歩く以外は、その他は普段はほぼ元気なのだ。
そのサンドが風邪を珍しくひいて機嫌が悪いのでショパンは手に負えないのだ。
それに比べて、ショパンはというと、普段から体が思い通りにならなくても子供の頃から耐えて生きて来たことを自負していた。「普段から健康であればあるほど、病気には忍耐力がなくなる。それに対する治療法はなく、それについて誰もが納得できないのだ。
今週はパリ中が咳をしています。」
ショパンはこんな時は、・・・自分は子供の頃から病気と闘って来た、そのうえ人には出来ない仕事をこなして来た、体の調子はいつも良くはない、それでも耐えて生きた来た、・・・つまり自分が一番丈夫なのだと思っていたのでした。
「昨日の夜はすごいことがありました。雷鳴と稲光、雹(ひょう)と雪を伴う嵐でした。」
天候の悪い冬のパリの街は真っ暗で落雷とひょうが降り世界の終わりのような日にショパンの目には映ったのでした。
「セーヌ河は途方もなく巨大です。特に寒いわけではありませんが、湿気がひどいです。」
天候の悪さでセーヌ河が増水し、パリの街は湿気に見舞われ、当時深刻だったセーヌ河の
汚染で町は悪臭に覆われ病気が流行ったのである。
「クルンゲルがドレスデンからニシェオフスカ夫人 と一緒にパリに来ています。
彼は私に会いに来ました。クレンゲルはニシェオフスカ夫人を呼ぶと僕に約束した。おそらく、彼らについてあまり公然と話すべきではありません。」
クレンゲルとは、ショパンが20歳の時に、プラハで出会った作曲家のクレンゲルである。駆け出しのショパンをお世辞ではなく褒めてくれ、ショパンと気が合った仲であった。そのクレンゲルが一緒にパリに来たニシェオフスカ夫人とは、ポーランドの貴族の出身のポーランド人である。彼女もまた、ショパンがプラハに滞在したときに、クレンゲルが紹介してくれたドレスデン在住のポーランド貴族の侯爵夫人であった。プラハ滞在中のショパンはニシェオフスカ侯爵夫人の邸宅へクレンゲルに連れられて訪問したことがありました。
その時の事は「ニシェオフスカ夫人の邸宅で随分長居をしました。」とショパンはワルシャワの家族に話していました。
それから15年の歳月が経ち、ショパンは随分大人になりました。パリに来たクレンゲルが自分をニシェオフスカ夫人に会わせようとしている目的は何かをショパンは慎重に伺っていました。ショパンが15年前にニシェオフスカ夫人にプラハで会った時はポーランドの11月蜂起の数日前のことでした。当時、ドレスデンにはロシアの貴族の使節団が来ていて、ショパンはロシアの使節団の貴族にもクレンゲルに連れられて面会しました。
ドレスデンといえば、ロシア寄りのポーランド貴族のマリア・ヴォジンスカの一家もドレスデンに住んでいました。
ショパンは、それらのことを思い出し、その昔、純粋にクレンゲルを尊敬していた頃のようにはクレンゲルを見れませんでした。そのため二人の訪問を慎重に捉えていました。
セーヌ河19世紀頃