鳥籠
子どもたちも自由人だったが、
我が家で1番の自由人は
夫だった。
その自由ぶりは
筋金入りだった。
市内の中学に行くために
小学5年生から親元を離れて
おばあちゃんの家で2年間過ごした。
中学から寮に入り
大人になるまで
ずっと親元を出たままの
夫は
子どもの頃から
良いも悪いも
自分で決めてきていた。
ホームシックすら感じる間もなく
毎日を楽しく過ごすことにだけ
を念頭に大きくなっていた。
強く主張しなくても、
人に振り回されることなく
サラリと自分の道を行く。
結婚前はその自然体なところをいいな、
と思っていたはずだった。
でも結婚したら、
毎日が生活になったら、
そこが許せなかった。
自由に育った夫に比べて
教師の父親と保守的な母に
育てられたわたしは
常識的に、約束事を守る、きちんと考える
の言葉を繰り返し言われてきた。
誰とどこに行って何時に帰る。
それを伝えて出かけるのは
当たり前のことだと思っていた。
結婚してすぐにその環境による
考え方の違いにぶち当たる。
夫の仕事の関係で
初めての土地で新婚生活を送る。
土地勘もなく、知合いもいなかった。
どこに行くとも言わずに
休みの日に夫がいなくなった。
何時間も戻らなかった。
夕方になって帰ってきたので
待ち構えて文句を言う。
すると
びっくりしたように、
「なぜ、どこに行くのか
言わないといけないのか?」
と、真顔で聞かれた。
なぜ? 考えたこともなかった。
家族はそういうものだと、
思っていたから。
一人で暮らすことが
当たり前だった人と
家族と暮らすことが当たり前の人の
食い違いは大きかった。
小さな闘いが続く。
夫にしてみれば
今まで通りにしていることに
いちいち文句を言われることが、
不満で仕方なかったらしい。
最近聞いたが、
新婚当初、いなくなってくれと
心から願ったそうだ。
夫はずっと1人で暮らしていたから
相手の立場を考える、
という作業をしない。
その習慣を身につけるのは
至難の技だった。
毎回、わたしの感じ方を説明し
こういう時はこうしてほしいと伝える。
しぶしぶでもなんとか
連絡くらいはしてくれるようになった。
1年後に夫の実家に戻り、
同居生活が始まった。
また困った。
夫が自分の両親ともきちんと
コミュニケーションを取らないからだ。
夫も20年ぶりの親との同居だった。
なぜかわたしが親子の橋渡しをする。
結婚して
夫とわたしから
今度は
夫と夫の家族と、
わたしになった。
なんだか多数決ではないけど、
自由な家族だから
考え方という点で負けてる気になる。
だから夫には
わたしの立場を主張していた。
わたしの気持ちも
わかってほしかった。
そんな時に
妊娠した。
嬉しかった。
わたしたちの子どもだけど、
お腹にいるうちは
わたしだけの子ども。
わたしの味方を宿した気持ちだった。
妊婦の時に切迫流産になりかけ
1週間入院した。
夫が
イヤホンとiPodと本を持って
お見舞いにきた。
一言二言話をすると、
イヤホンで音楽を聴きながら
本を読んでいた。
30分経ったら、イヤホンを外して、
「もう帰ってもいい?」
と言った。
「何しに来たの?音楽聴きながら本読みに
来たの?」
と嫌味を返した。
「他にもいろいろ用事があるからさー。
とりあえずお見舞いしたじゃん?」
全てがそんな感じだった。
わたしに言われて、しぶしぶ約束事を果たす。
自分の一番以外はホントに義務的だった。
普段は楽しい人だけれど
こういうことが続くと
なんでこの人と結婚したんだろう?
と思ってしまう。
考え方も価値観も違いすぎた。
そんなことも感じながらも
母親になると
気持ちが強くなる。
守るべきもの。ができた。
守るべき味方、ができた。
でも生まれてきた子どもも
赤ちゃんのうちは
私に全幅の信頼を寄せてくれたけど
2歳を超えると
やはり自由人だった。
夫の遺伝子の濃さにおどろく。
1人目も2人目も3人目も。
なんだか更に負けた気がしていた。
子どもが成長していくと
判断しなければいけないことの
連続だった。
いつも自分から見た答えと
周りから見た答えを考えてしまい
迷ってしまう。
夫は状況を見て、
本人はどうしたいのか。
今決めること、
もう少し先でもいいこと、
そこから考える。
そして、必要な時期に判断しよう、
と言う。
いつも前のめりに答えを出そうとする私と
焦らなくていいと言う夫。
ヤキモキする。
夫はいつもわたしの依頼を
命令と呼んで
子どもたちを自分の仲間にしていた。
「また、お母さんに命令されたよ」
子どもたちも真似して
「また命令が始まったよ。」
と、言う。
1対4を感じる場面だ。
思い出すと腹が立つ。
自由な人というのは
子どもと同じなのかもしれない。
自分の要求が一番で
そのほかのことはどうでもよくて
仲間同士の夫と子どもたちは
いつも楽しそうだった。
夫がいるたまの日曜には
子どもたちと一緒に
野イチゴを積みに行ったり、
犬のクッキーと長時間の散歩に行ったり
自然の中でのびのびしていた。
子どもたちの朝の登校にも
夫はクッキーと一緒にお供していた。
朝のみんなの登校時の後ろ姿は
今思い出しても
素敵なシーンだ。
そしてチクリと胸の痛みも伴う。
いつも、本当は
楽しそうだなぁ、
思っていたけれど、
何かやかと忙しくして
入っていかなかった。
やろうと思えばやることは
たくさんあったし、
いつも
楽しく過ごすことを一番には
できなかった。
今思い返してみると
ただ、
夫の自由さが、
自分の一番をわかっていることが、
うらやましかった。
そう、本当は
うらやましかった。
私も
夫と子どもたちの中で
自分も一番を優先して
遊んでみればよかった。
わたしのいつも負けた感じは
何なのかがようやくわかった。
やらなければいけないことを
一番にして、
自分の一番が何なのかを
感じようとしなかった。
自分だけが他のひとのために
頑張ってる気がしてた。
だから悔しかった。
だからつい、夫を責めていた。
9年前から子どもたちと進学のため
地元の田舎を離れて
市内で暮らしてきた。
夫とも離れて暮らした。
週2〜3回昼間に地元に通い、
週末は夫が市内にきた。
子どもたちは淋しそうだったけど、
それそれの成長と共に、
徐々に自分の世界が広がっていく。
次第に
わたしの時間が持てるようになり
誰の干渉も受けないと、
自分が感じられるようになった時に
自分のやってみたいことが
できるようになった。
やらなければならないことより
やりたいことを優先できる
ようになった。
夫の気持ちや
こどもたちの気持ちが
少しずつ理解できるようになった。
そして気づいた。
以前も誰も干渉していなかった。
わたしだけが楽しいことは
後回しと思いこんで
自分の自由を自分で狭めてきた。
いろいろやりたいことができて
外出したり、
時には泊まりがけで出かけても
夫は「どうぞ〜」と言った。
そして子供たちも、
「行ってくれば?」
と、言ってくれるのである。
なんだ。
わたしも自由だったんだ。
わたしも選ぶことができたんだ。
鳥籠の扉は空いていた。
自由を体験したら
人の自由も尊重できる。
昔読んだ「カモメのジョナサン」の作者、
リチャード・バックの
「イリュージョン」
という小説の一部を思い出す。
ラジオ番組に出た救世主たるドンと
聴衆の男性との会話だ。
「みんながあんたの言うことを聞いて
片っぱしからやりたいことをやったら
どうなると思う?」
「教えてやろう、
この星が銀河系の中で一番幸福な
惑星になるのさ」
20年前、読んでいたころは
それはどうかな、と思っていた。
でも今は
もしかしたらそうかも、と思う。
一番小さな社会である家庭の中で
できるたけ、
それぞれの一番を優先して
お互いの自由を尊重できたら?
みんなが自分の一番を大切にして
あとのことをゆずりあうことができたら。
一番がかなった喜びを
存分に味わうことができたら、
意外と二番目以降の希望はどうでも
いいことなのかもしれない。