「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」24 アンドレイ公爵⑭
アンドレイの前にひざまずいたナターシャは、彼の手を取り接吻し許しを請う。
「『おゆるしくださいませ!』と顔を上げて、じっと彼を見つめながら、彼女はささやくように言った。『あたしをおゆるしくださいませ!』
『あなたを愛しています』とアンドレイ公爵は言った。
『おゆるし・・・』
『何をゆるすのです?』とアンドレイ公爵はたずねた。
『おゆるしください、あたしが・・・したことを』とナターシャは聞こえないほどのとぎれとぎれのささやき声で言うと、何度も何度も、わずかに唇をふれながら、彼の手に接吻しはじめた。
『ぼくはまえよりももっと強く、もっと純粋に、あなたを愛しています』と彼女の目が見つめられるよう
に、片手で彼女の顔を上へ向けながら、アンドレイ公爵は言った。」
この日以来、ナターシャは重傷のアンドレイのそばをはなれなかった。ふたりのあいだに親密な関係がかたまったことから、アンドレイの傷が癒えたら以前の婚約関係が復活するのではないかと思われた。しかし、アンドレイの妹マリヤが兄のもとを訪れる2日前に、状況は急変する。病状を聞くマリヤにナターシャがこう告げる。
「『二日前でしたわ・・・急にそれが起こったのです・・・』」・・・二日前にそれが起こったという言葉でナターシャが言おうとしたことが、公爵令嬢マリヤにはわかっていた。それが彼が急に柔和になったことを言っているので、このようにやさしくおだやかになるのは死の前兆であることを、彼女は知っていたのである
。」
アンドレイに起こったことを、マリヤを通してトルストイはこう表現する。単純に「仏のように穏やかになった」わけではない。
「言葉に、口調に、特にこのまなざし――冷たい、ほとんど敵意のこもったようなまなざしに、生きている人間をぞうっとさせるような、この世のすべてからの絶縁が感じられた。彼は生きているすべてのものを理解することがむずかしいようだった。だが、それと同時に、彼が生きているものを理解できないのは、理解する力を奪われたためではなく、生きている人たちが理解していない、また理解することもできないような、何か特別なものを理解し、それにすっかりのみつくされているためであることが、感じられた。
この「何か特別なもの」が何かをトルストイは明確には語っていない。夢の話でこう表現しているだけだ。
「彼が力なく不様にやっと扉にはいよると同時に、この何か恐ろしいものが、すでに向こう側から扉を押しあけて、部屋に押し入ろうとしている。人間ならぬ何ものかが――死か――扉口から押し入ろうとしている。入れてはならぬ。彼は扉に手を当てて、最後の力を振りしぼる――掛金をかけることはもうできぬ――せめて扉を押さえるだけでもせねばならぬ。だが、彼の力は弱いし、ふんばりがきかない、そのために、恐ろしい力に押されて扉が開きかける、そしてまた押し返されて閉まる。
もう一度扉が向こうから押された。人間の限界を超えた最後の努力もむなしく、扉は左右に音もなく開いた。それがはいってきた、そしてそれが死であった。アンドレイ公爵は死んだ。
ところが、死んだとたんに、アンドレイ公爵は、自分が眠っていることを思い出した、そして死んだまさにその瞬間に、力を振りしぼって、目をさました。
『そうだ、あれは死だった。おれは死んだ――とたんに目をさました。そうだ、死は――目ざめなのだ』と、ふいに彼の心の中にひらめいた、そしてこれまで知りえぬものをかくしていたとばりが、彼の心の目の前に開かれた。彼はそれまで縛られていた身内の力が解放されたような気がして、それ以来彼を去らなかったあのふしぎな軽さを感じた。」
この数日後、アンドレイは静かに息をひきとった。
BBC「戦争と平和」アンドレイと妹マリヤの再会
トルストイ 1885年