愛と裏切り、歌に隠して
名前を呼んであげると澄ました顔が少しだけふわりと和らぎ、隠しきれない嬉しそうな雰囲気が感じ取れるから、声を出すのがすきだった。
世界で一番大事な弟が自分の声を求めているという事実は、ウィリアムにとって心地良い優越感を与えてくれる。
だから名前を呼ぶことも教え導くことも苦ではないし、自然と音にも敏感になった。
間違いのない音感で発音すれば歌になることに気付いてからは歌うことも増えていく。
ウィリアムが歌えばルイスが喜んでくれる。
普段から意識して歌うこともあればリラックスした状態で無意識に歌うこともあった。
ウィリアムにとって歌とはとても身近で、自分の気持ちを表現するための手段なのだ。
ルイスが愛しいと表すための、最も身近で手軽な手段。
大事な弟を喜ばせるために身についたその癖は、貴族の姿が様になった今でも治ることはない。
「ウィル君は歌がすきなんだね」
「いきなりどうしたんだい、ボンド」
「だってほら、よく歌ってる」
ウィリアムとルイスがリビングでゆったりとしたティータイムを楽しんでいた頃合いに、出ていたボンドが帰ってきた。
当然ルイスは帰宅したことに気付いていたが、ウィリアムがこの場にいてアルバートは遅くまで帰らないという事実を記憶していたから、敢えて出迎えることもせず紅茶を口に含んだのだ。
リビングにやってきたボンドの姿を見て、お帰りなさい、と声を掛けてから彼の分の紅茶を用意する。
そうして一息ついた後のボンドの言葉がそれである。
「そんなに歌ってるかな」
「そうだなぁ。僕がここにお世話になってから、もう何度もウィル君の歌を聞いた気がするよ」
ボンドが扉を開けるまでの間、綺麗で鮮やかな色が瞼に浮かぶような歌声が響いていた。
まるで彼が持つ緋色のように鮮烈で印象的なとても美しい歌声。
耳に届くその歌声を頼りにこの部屋に向かったのだから間違いはない。
声の持ち主は、元より澄んでいながらも迫力に満ちた声を持つウィリアムだ。
完璧そのものを描いたような彼らしく、一音の間違いすらない音階での歌声は見事と表現する他ない。
ボンドが捨てた己の過去を思い返さずとも、穏やかで優しさに満ちたウィリアムの歌声は聞く者を魅了してやまない芸術そのものだった。
どこよりも華やかで煌びやかな、けれども確固たる実力に裏付けされたあの舞台上を思い出すようだ。
「驚くほど上手いね。僕が知っているオペラ歌手とも遜色ないように思うよ」
「ウィリアム兄さんは学生時代の聖歌隊でソロを勤めたことがあるほどのお人です。当然でしょう」
「へぇ、そうなんだ?イートン校でのソロだなんてさすがじゃないか、ウィル君」
「ふふ、昔のことだよ」
ウィリアムへの賞賛をまるで自分のことのように誇るルイスと僅かに照れているようなウィリアムを見て、ボンドは殺伐とした日常の中の潤いを実感するようだった。
歌とは誰かへの思いを音に乗せて言葉を紡ぐものだ。
ゆえに歌うという行為には自分であれ他人であれ、誰かその歌声を受け止めるための存在が必要になる。
ウィリアムが誰を想い誰のために歌っているかなど、問いかけるのも野暮だろう。
過去にボンドが何度か聞いたウィリアムの歌声の隣には、いつも決まってルイスがいた。
「もう癖になってしまっていてね。気を抜いたらつい歌ってしまうことがあるんだよ。何度も聞かれていたなんて恥ずかしいね」
「恥ずかしがるような歌じゃないだろうに。ウィル君ならもっと大々的に歌っても良いと思うよ」
「ふふ、遠慮しておこうかな」
ボンドがやって来る前、ウィリアムとルイス二人だけのティータイム。
気兼ねなく愛しい弟と過ごす時間は心が洗われるようで、隣に座る温もりが心地よくて仕方がなかった。
何を話すわけでもなく、ただ同じ方向を見つめて寄り添い合うだけの時間が自分たちにとってどれだけ大切なものか、二人はよく理解しているのだ。
本当ならば穏やかで甘やかな時間など、ウィリアムにもルイスにも相応しくはないのだろう。
どちらの手も既に血で染まっており、導かれる厳しい未来も受け入れる覚悟が出来ている。
だから、束の間だ。
本当に束の間の休息でしかないこの時間が、ウィリアムとルイスにとって何物にも代え難い愛しい時間だった。
寄り添い、腕を合わせ、指を絡め、互いの体温を感じながら静かな時間を過ごす。
そんなささやかな時間こそが大切で、狂おしいほどに求めてやまないものなのだ。
窓の外から風の音が時折聞こえてくる以外は静寂な空間に、最初の音を表現したのはルイスだった。
兄さんの声が聞きたいです
赤い瞳で見つめられ、まるで幼子のように甘えた様子のルイスを見て、ウィリアムは返事をするように互いの鼻先を擦り合わせる。
すり、と望まれるまま甘やかすように顔を動かし、広い部屋の中でもルイスにしか聞こえない声で名前を呼んであげた。
そして何を話そうかと悩むまでもなく、慣れた歌詞を馴染んだメロディーに乗せて歌い始める。
肩に乗せられた頭の重みを感じ、ルイスだけを想い、ルイスだけに響く歌。
静かに瞳を閉じてウィリアムの歌声に聞き入るルイスは無意識に表情が緩んでいる。
目的のためどれだけ冷酷に在ろうとしても、やはりウィリアムは誰より優しいのだと、この歌声から実感できた。
芯が強く、決してブレることのない確かな声。
この声に何度も励まされ、覚悟を分けてもらって生きてきた。
ウィリアムがいたからこそ、ルイスは今まで生きることが苦ではなかったのだ。
自分を包み込んでくれる歌声があったから何でも出来たし、これからも何だってしてみせる。
綺麗な声で、素敵な歌だな、と極々一般的な感想しか出てこないが、胸に響き渡る感情をルイス一人が表現するには難しかった。
「…兄さんの歌、だいすきです」
「ありがとう、ルイス」
うっとりとした声で思いのままルイスが言葉を出せば、ウィリアムも抑えきれない愛しさを込めて名前を呼ぶ。
歌に興味はなかったのに、ルイスが求めるのならばより良いものを与えたいと思ったのだ。
孤児だった頃はろくな遊び道具もなくて、貸本屋に住まうまでは本に触れる機会もなかった。
そんな中でも歌ならば身一つで楽しめるし、何よりルイスが嬉しそうに笑ってくれる。
耳が良かったのも幸いして、少しでも聞きかじった歌を代わりにルイスへ歌ってあげるのが習慣になったのだ。
誰より大切で愛おしい、僕の弟。
与えられるものが何もない頃でも歌を届けることは出来たから、ルイスがウィリアムの声と歌を気に入ってくれていたのはもはや運命なのだろう。
ルイスが褒めてくれるからウィリアムも自分の声に自信を持つことが出来て、ふと気付けば無意識に歌っているほど歌がすきになれたのだ。
自らの声に乗せたルイスへの想いを、ちゃんと彼が受け止めてくれていることがその表情からよく分かる。
繋いでいた互いの指を軽く握り、今度は鼻先ではなく淡く色付いている唇にそっとキスをした。
そうした頃に、二人はボンドの気配を感じ取ったのだ。
「ルイス君はいいね。いつでもウィル君の歌を聞き放題だ」
「僕だけが特別というわけではありません。アルバート兄様もよく兄さんに歌ってほしいと頼んでいますから」
「アル君も?そっか、兄弟だけの特権なんだね」
ボンドが帰ってきた気配を感じ、自然と離れた体を少し寂しく思いながら、二人はゆっくりと紅茶を飲んだ。
新しく仲間になったボンドは察しが良く空気も読める。
二人の関係に何を思うでもなく、ただそこに在るべきものとして受け止めてくれていることを有り難く思う。
ボンドの言葉に返したルイスの発言は事実だ。
ルイスのために歌ってきたウィリアムの声は、今ではルイスだけでなくアルバートをも魅了している。
それでもやはりウィリアムの歌はルイスのためのもので、たとえ無意識に歌っていようとアルバートへ歌っていようと、その根幹には弟の存在が必ずあるのだ。
「ご馳走様。お邪魔してしまったね、僕は着替えて部屋に戻るよ」
「分かりました。夕食はいつもの時間に用意しますので、遅れないようお願いします」
「了解。じゃあね」
淹れられた紅茶を早々に飲みきり、軽く片目を閉じてボンドはリビングを後にする。
ご馳走様、とは紅茶だけにかけられた言葉ではないのだろう。
やはり察しが良く空気も読める男だと、ウィリアムは感心するように瞳を細めて見送った。
三人で過ごす時間も悪くはないが、もう少しだけ歌いたい気分なのだ。
他の誰でもなく、ルイスだけに聞かせたい歌がある。
「ルイス、おいで」
「はい、兄さん」
離れた距離を戻すように、再び二人は体を寄せ合う。
うっすらと冷えたように感じる体を温めるように抱きしめ合い、ウィリアムはルイスの腰に、ルイスはウィリアムの背に手をやった。
そうして抱き合えば間近で顔を覗き込むような姿勢になり、その近さに思わずルイスが笑い出してしまう。
「ふ、ふふ…兄さん、近いです」
「何を今更。もっと近く寄ったこともあるだろう?」
「ん、…んん」
綺麗な弧を描く唇を食べてしまうようにキスをして、舌で表面の薄い皮膚を舐めていく。
笑っているルイスの唇はどこか柑橘を思わせるような爽やかさを感じる。
そうしてしばらく唇を重ね合わせていると、爽やかさが段々とこっくり甘く変化していくのだ。
不思議なものだと、ウィリアムは瞳を閉じてキスを受け止めているルイスの表情をすぐ近くで堪能しながら翻弄していった。
「ん、ふ…もう、兄さん」
「ふふ」
「ボンドさんを追いやったということは、僕に何かあるのでしょう?何でしょうか?」
さほど態度を変えていたつもりはないが、察しの良いボンドとルイスには気付かれていたようだ。
追いやったというほどウィリアムが何をしたわけでもないが、他に表現する言葉もないのだから正しいのだろう。
キスを終えたばかりで赤く染まった頬のまま、そして瞳の奥も僅かにとろんとしているルイスを見て、ウィリアムはにっこりと微笑んでもう一度その名前を呼んだ。
「ルイス。この前、声楽科の教授から楽譜を貰ったんだ。せっかくだから歌ってみたいんだけど、聞いてくれるかい?」
「はい、是非」
「ありがとう」
たまたま覗いた講堂での声楽科による公演。
心に残るメロディと印象的な詩を聞いて、どうしても歌いたいと思ってしまった。
神に祈りながらも許しを乞うその歌詞はまるで自分とルイスのようだと思う。
神など信じてはいないし、ウィリアムが信じられるのは目的を同じにした仲間だけだ。
それでもルイスだけは本人の意思など無視をして、穢れのない世界で無垢なまま生きてほしいと願うほど神聖視してしまっている。
堕ちた自分と、そんな自分を追いかけて堕ちてしまった弟。
同じ未来を生きると決めているけれど、ルイスだけは生きてほしいと足掻くように今際の際で望んでしまいそうなエゴイズム。
そんな自分の感情にウィリアムは気付いていて、無視することも出来ていない。
いつも一緒だと言ったのに、心のどこかでは一緒に居たくないと願う自分のことを許してほしかった。
でもきっと許してはくれないし、何をどう願ってもルイスはウィリアムに付いてきてしまうのだろう。
明かせない望みを隠しておくのは気が咎めてしまい、そんな最中に聞いた歌がこの歌だったのだ。
自分の感情を歌に託してルイスに届けたいと思い、気付けば声楽科の教授室に赴いて楽譜を一枚借り受けてしまった。
頭の中で何度も何度も音階を反芻してイメージを固めてはいたが、実際に声に出して歌うのは今が初めてだ。
初めて歌う歌を、ルイスに聞いてほしいと思う。
「ねぇルイス」
一緒に堕ちてきてくれたこと、とても嬉しく思うよ。
けれどやっぱり、君だけは生きてほしいと願ってしまうことを許してほしいんだ。
どこまでも君を連れて行きたいけれど、このままここに置いて行きたい気持ちもある。
未来の自分がどういう行動を取るのか、今の僕でははっきりしたビジョンが見えてこない。
だから、君に選んでほしいんだ。
ルイス、僕のたった一人、愛しい弟。
決め切れない想いを歌に乗せて、どうかルイスがウィリアムの葛藤に気付いてくれるように願う。
その葛藤に気付いて考えを改めるとは到底思えないけれど、それでも何もしないよりは良いのだろう。
ともに居ることも離れて居ることも、どちらもウィリアムにとってルイスへの無限の愛だ。
その愛にルイスはどう気持ちを返してくれるのだろうか。
ウィリアムは愛しい気持ちとルイスへの裏切りを歌に込め、耳元で囁くように小さく小さく歌っていった。
(〜〜〜♪)
(やぁ機嫌が良さそうだね、ウィル君)
(ボンド、おはよう。…ルイスはどこかな?)
(ルイス君は朝早くに用があると言って町に出ていったよ。すぐ帰るって言ってたけど)
(そうか。ありがとう、教えてくれて)
(…ウィル君さ、ルイス君がいないと分かると途端に声が小さくなるね)
(え?)
(ルイス君がいるときは気にせず普通の声で歌ってるのに、ルイス君がいないと分かるとすぐ声に張りがなくなってる)
(…よく見ているね、ボンド)
(まぁね。屋敷の中だからか、ウィル君も案外分かりやすいんだね)
(ここでまで気を張っていたらさすがに疲れてしまうから。さぁ、僕はルイスが帰るまでしばらく本でも読んでくるよ)
(いってらっしゃい)