Kii Peninsula 紀伊半島 10 (17/12/19) Shingu Castle Ruins 新宮城跡
花窟神社
熊野古道
新宮城跡
佐野一里塚
花窟神社 (はなのいわやじんじゃ)
熊野市の宿を出発してすぐに所にこの神社があった。伊弉冉尊 (いざなみのみこと) と軻遇突智尊 (かぐつちのみこと) を祀っている。日本書紀に、伊弉冉尊は軻遇突智 (火の神) の出産時に陰部を焼かれて死に、紀伊国の熊野の有馬村に埋葬されたとある。それ以降、ここの住人は、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭った。それがこの神社がある所と伝わっており、社名も「花を供えて祀った岩屋」と言われる様になった。
軻遇突智の墓所と伝わっているのが写真右中。
御縄掛け神事というものが行われている。これも説明を読むと面白い。
巨岩が伊弉冉尊の墓所と伝わっている。
日本の神話に関わる史跡がこの紀伊半島には多く見当たる。その史跡の説明を見ると面白い。創造力が凄い。一度読んでみたい。
道標
熊野古道の道標
熊野古道
昨日も熊野古道をいくつか見かけた。ここに来るまでは、熊野古道がこれ程多くあるとは知らなかった。良く考えて見ると、熊野三山 (熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社) へと通じる参詣道の事であるから様々な所からこの三山を目指す。当然様々な参詣道が出来る。今回の旅では東海道で時間を使い過ぎた為、じっくりと熊野古道を歩く事は断念した。いつか歩いてみたい。
熊野市から海岸線に沿って浜街道と呼ばれる熊野古道の一部が残っていた。松林の中に数キロに及び道が残っている。石畳ではないので、自転車で走ってみた
熊野古道と並行に七里浜に防波堤の上に遊歩道がある。ここも走って見る。
新宮城跡
熊野市から20キロほど新宮市に入る。ここでは新宮城に行く。熊野速玉大社と新宮城がここでは見所なのだが、二つとも見るのは時間がない。新宮城を優先。ここには石垣などの遺構が残っており、写真で見たときに是非来てみたかった城跡だ。
新宮城は別名を丹鶴城という。この地に源為義と平安時代末に熊野三山を支配した熊野別当の娘の子である丹鶴姫の住まいがあったことによる。城跡に丹鶴姫碑がある。丹鶴の弟は有名な熊野地方を統治した新宮氏の祖とされる新宮十郎行家では源頼朝の叔父である。
1601年 (慶長6年)に紀州藩主となった浅野幸長の重臣の浅野忠吉が築城。1615年 (元和元年)、一国一城令により廃城となるが、1618年 (元和4年) に再び築城を開始。1619年 (元和5年)、浅野氏が備後三原の三原城へ転封となり、紀州藩主の徳川頼宣の付家老の水野重仲が城主となり、現在に見られる近世城郭が完成させた。
二の丸があった場所から城跡への登城口がある。松の丸に向かう。
松の丸
松ノ丸の虎口から入る。
鐘ノ丸
松ノ丸と本丸の間にあり、浅野氏の時代には二ノ丸であった。松ノ丸からは枡形になっている虎口から入る。
本丸
最高所 (標高約60メートル) に位置し、鐘ノ丸からの虎口と北面には搦手の枡形虎口が残っている。本丸の南端の天守台には3層5階の天守閣があったといわれるが天守台の石垣は崩壊して現存していない。
出丸
本丸の北西の熊野川や水ノ手を見下ろす位置に突き出た長方形の別郭。本丸側に入口の石段があるが、浅野氏の時代には本丸とつながりその間に城門があった。水野氏の時代には完全に切り離されていた。
水の手
水ノ手には、北側の熊野川に面した船着き場が置かれていた。
城跡からの風景
佐野一里塚
熊野古道にもやはり一里塚があったのだ。これは復元されたもので、そのままは残っていない。説明によると自動車道を作る場所の選択肢が熊野古道とどうしても重なってしまう地理なので、一里塚はほとんどが破壊されてしまった。確かにその様な地理的制限があるのはよくわかる海岸から平地は少なく山が切り立っている。この平地が昔も現代でも道を作る唯一の場所だ。
今日の宿のある串本ヘ30キロ地点で自転車野郎と遭遇。昨日、走行中に追い抜かれたときに挨拶をしたので覚えている。旅に出て来月で2年が過ぎるという。冬でもテントで野宿している。登山もやっている。荷物が凄い量だ。50キロはあるだろう。豪傑だ。話した感じではこの旅で多くの事を感じた様だ。仕事を辞めてこの旅をしているのだろうが、過去に何があったかは知らないし、それはもはや関係なく、この旅はきっと彼のこれからの人生にポジティブな影響を与えて行くだろう。この様な若者を見ると嬉しくなる。まだまだ、この様なチャレンジをしてみようという若者がいる。
昨日はルートの殆どが山間部だったが、今日は大部分が海岸線で風景が一変した。
今日はそれほどタフな道で無かったので腓返りは起きなかった。このまま行ければと思う。明日は紀伊田辺まで行く予定だ