上海ハニー 中
下巻の序章又はブリキ造りの路面電車
モスクワでのあの出会いが、
人生を大きく変えてしまうだなんて予想できなかった。
大津波を予想できなかった学者のような気分は、恐らくは終生、私の心に痼のように残り続けるのだろう。ときに痼は溶けだし、甘い臭いを放ち、身体中の血管にオレンジ色の液体を流す。そんなとき私は美しい思いでと、事の顛末を知る身としてのやるせなさの中で微睡む事しかできないのだ。身動きも取れない、言葉も初声ない。
でも、恐らくそんな状況にいる私に貴方が出会っても、私がトリップした状態であることには気づかない筈だ。その時の私は余熱で貴方と会話をする、貴方は私に何か訊ねる、私は取り敢えず、いたさわりのない言葉を返すだろう。しかし、その言葉を喋るのは、ちゃちなブリキ造りのAIロボットなのです。そんな脱け殻の私に貴方はなにも期待できないでしょう
そう、この文章は物語の本当の始まりの序章である。
私にとってこの物語を完結させることは終始辛い作業なのだ。
しかし、完成させなければならない。
何も使命だとか任務だとか、そうではない。単に私を次のステップに行かす為の治療のようなものだ。どんな怪我や病であれ治療はとても辛いものだろう、
特に症状が重ければ重いほどに。
・トランバーイ
彼女とはトランバーイと呼ばれる、日本で言えば路面電車になるが、そんな小綺麗な乗り物では無い。社会主義時代の名残というか、ロシア人の気質が産み出した大変ラフな乗り物。大変に揺れるし、直ぐに止まる、ダイヤなんてものは存在しない。一年ほど前に私は再度、モスクワへ行ったのだけれど、新車両が納入されていた、とても近代的で資本主義的デザインだったけれどだったけれど、あの町には不釣り合いだ、その証拠に未だにブリキの路面電車は稼働している客を揺らしながら。
そう、そんなところで出会ったのだ。
出会ったという、よりは"見かけた"と言うのが本当のところだろう。回顧主義者に言わせれば
「一目惚れ」ということになるのだろうが、他の人間の事は分からないけれど、「一目惚れ」
そんな柔い言葉ではすませられない気がする。
よく分からないけれど、ピラミットの中でスターゲートを見つけたような、そんな衝撃だった。
あのときモスクワは例年通りの大雪で道は雪と捨てられた煙草の吸殻が混ざりあって、茶色く歩道をモザイク柄に彩っていた。そんなとき、ロシア人であろうがフォリナーであろうが 、皆ブーツを履いている。
そんな中、彼女は白いスニーカーを履いていたよ、全く汚れていない真っ白なスニーカー。
そしてスキニーのジーンズに黒いコートを着ていた。
そして、何故か教科書を鞄にもいれず、手で抱えていた。
肝心な顔は車道に溜まった白い雪と一旦雪を降らしきったであろう空からの朝日とが反射してトランバーイの酷くよぼれた窓越しに車内に光が降り注いでいた、そのせいで彼女の顔はよく見えなかった。それでも私は一瞬にして心を奪われたのだ、顔を見れば尚更だったのだけれど。つまり私はその瞬間に人生の啓示のようなものを見たのだ、確実に。
・空港
成田空港に到着したのは、モスクワのシェレメチボ空港への便が飛び立つ、五時間は前だった。大学の国際部がその時間を指定したのだ。
短期間の留学であるから旅行気分の学生も数人いて、それらと比較的地味なロシア語とロシアについて学んでいる学生、けして多数派だったわけではないけれど。その中に全体を纏めるグループ長がいた、彼女は大柄な女性で私より三才ほど年上であった。
私はと言えば、何とも説明しがたい理由で短期留学に参加していたから、二グループのどちらにも所属しているとは言えなかったと思う。別に旅行気分でもないし、猫背でトルストイを読むタイプでもなかった。
「貴方がOさん?」
私がスーツケースを引きずり、集団に合流すると大柄な彼女が声をかけてきた。
「いいえ、違います」
私が名を名乗ると、彼女は疑問そうな顔をした。
「ああ、そうやって読むんだね、名字、私数学部だからさ 、漢字苦手なんだよね」
「ああ、まぁよく間違えられますから」
「気が使えて、偉いね」
「気なんて、僕は空気読めないんで、ところでOさんって誰です?」
「私が顔を知らなくて、しかもロシア語の単位を一つもとってない子なんだけどね、貴方のことも私、顔を知らなかったからそうかと思ったんだけど」
「そうですか」
別に話を長引かせたくもなかった、私自身はこのグループ長を見かけたことはあったのだけれど、それについては彼女に言わなかった。
私が集団に合流してから暫くして次にKという女性が小さなスーツケースを持ってやって来た、彼女とは話したことがあったし、彼女が留学に参加することも知っていた。
「ねぇ、私一番遅い?」
グループ長との形式的会話を終えて、彼女は私に声をかけてきた。
「いや、O君というのが、まだらしいですよ」
彼女は学年は同じで私より一つ年上であった。
「O君てロシア学科の子?」
「いや、違うらしいけど」
「なるほど、同族ってわけね」
「宇宙人ではないはずですよ」
彼女は宇宙について学んでいた、私とは機械系の授業で知りあったのだ、彼女はロケットのエンジンを頭の中で想像し私はスクリューの回転を思い描いていた。
エンジン女史は私の事を気に入っていたと思う、恋愛の対象でも航空宇宙に対して語り合う中でもないが、世間話にはちょうどいいし私が喋りすぎないのも良かったのかもしれない。
暫くたっても、Oはやってこず、時間に犯されたピリツいたムードが私たちを包み始めた。
正直な話、私は未だ見ぬOに対して理解があった、つまり"すっぽかす"人間の気持ちに対して。
グループ長は責任を感じての緊張感から、デカい図体で上下に足を動かしていた。
そして、彼女の携帯電話がなり
彼女はかけてきた相手を怒鳴り上げた
「は! 羽田空港!?」
成田空港からモスクワのシェレメチボ空港へは、だいたいだいたい8時間のフライトと言ったところだ。私のとなりの席にはKが座り、長時間時間を潰すのには良いと思っていた。
Kは私に就職の話題を提供してきた、普遍的な話題だ 、北の都に行くというのに、しかしKにしてみれば大学の単位のために短期留学に参加していたのだし、ソユーズに興味があっても、ロシア語学科の人間と暗い話をするよりはましだったのだろう。そう、この短期留学は確か二単位だったと思う。
無論、少しの睡眠を含めてだが、ずいぶんと長く世間話を二人でしていた。
女性と数時間も実のない話をするのも久しぶりというか私の人生ではあまりないことだった。
「結局のところ、貴方は実なと港で女性を作りながら、生きていきたいわけだ」
「さぁー、それが悪いとは思えないけど、幸せな生き方でもないんじゃないかん」
こんな調子だった
フライトが五時間ほど経過したときに機内が騒々しくなり、キャビンアテンダントのロシア人女性が医者を探し始め、機長は聞き取りにくいロシア語訛りの英語でブツブツト、緊急着陸をすることを僕らに伝えた。 我々は最初、たいしてドギマギなどしなかった、そういうこともあるだろう、それに赤の他人だ。
しかし、グループ長が慌て出して飛行機が着陸体勢に入にはいりはじめた
、そして倒れたのはOだということが分かった。