7. 北宋時代の水墨画
北宋の興亡と士大夫の台頭
「趙匡胤(ちょうきょういん)」は五代十国の混乱をおさめ、中国を統一し、国号を「宗」と定めました。都を「汴京(べんけい)」に置き、名前を「開封(かいほう)」と改め、皇帝権力の強化に努めました。さらに「科挙(かきょ) - 官吏(かんり)登用試験」によって地方の知識人を集めて官僚組織を整理しました。
官僚たちは「士大夫(したいふ)」「読書人」と呼ばれ、唐末以来の戦乱で陥落した門閥貴族階級に代わり、以降、中国文化を支えることになります。
この時代の中国は、江南の開発による経済的な発展を見せましたが、宋は学問や芸事に浸り、文弱に流れていきました。国力が弱っている中、北方異民族の契丹(きったん)[遼]や党項(タングート)[西夏]におびやかされつづけ、ついに女真(じょしん)[金]に侵略されて国土の大半と工程を奪われました。
院体(いんたい)と三遠法(さんえんぽう)
宗は全国の画家を中央に集め、「翰林図画院(かんりんとがいん)」と呼ばれる宮廷画家の制度を確立しました。画院画家を「待詔(たいしょう)」「祗候(しこう)」「芸学(げいがく)」などの官職に任命して皇帝や国のための絵画制作にあたらせました。彼らは専門的な職業画家とされ、彼ら宮廷画家の画風を「院体(いんたい)」と呼び、伝統を重視し、花鳥や山水など、写実的で精密に描くのが特徴です。
北宋の絵画は、五代十国の山水画、花鳥画をさらに洗練させたものです。
山水画では「郭煕(かくき)」が華北山水画と江南山水画を融合させて「三遠法(さんえんぽう)」として知られる中国山水画の基本的構図法を完成させました。郭煕は画院の長として後進を指導しており、彼の作風が正統な院体の画風となりました。郭煕の絵画制作の理論は「林泉高致集(りんせんこうちしゅう)」としてまとめられ画論書となっています。
三遠法
■ 高遠(こうえん)【仰視】
ふもとから見上げるような山の高さの表現
■ 平遠(へいえん)【俯瞰視】
山上から遠方の山々を見晴らすような広さの表現【俯瞰視】
■ 深遠(しんえん)【水平視】
山々の谷間の先をのぞき見るような奥深さの表現
「風流天子」徽宗(きそう)の花鳥画
徽宗(北宋の第八代皇帝・在位1100~1125年)は「院体」の花鳥画の名手で、写生にもとづく精緻な描写を得意としていました。文芸を保護し、画院の制度を整備し、徽宗自身が画学生の試験の出題や制作指導も行っていました。「風流天子」と呼ばれるほど文芸を大切にし、また、古美術の蒐集(しゅうしゅう)にも熱心でした。
ただし、皇帝でありながら政治的な判断力に乏しく、浪費を重ねた末、女真(金)の侵入を許すこととなり、捕虜となって北の辺境で命を終えました。《靖康(せいこう)の変》
早春図 郭煕(かくき)
PR: ドイツ 古城