Kii Peninsula 紀伊半島 14 (21/12/19) Kishiwada Castle Ruins 岸和田城跡
岸和田城 Kishiwada Castle Ruins
三の丸神社
岸和田教会
だんじり館
紀州街道
本町一里塚跡
円成寺
蛸地蔵 天性寺
岸和田自然資料館
今日は和歌山を出発し、40km先の岸和田までまず走り、到着時間次第で岸和田観光をする。岸和田まで来れば、宿の選択肢が増えて、宿の心配をしなくて良いので、今日からはリラックスして走れる。
昼前に岸和田に到着。4時間は市内観光の時間がある。まずは岸和田城から見学だ。
岸和田城 Kishiwada Castle Ruins
南北朝時代の1334年に楠木正成の城代として和田高家が、当時は岸と呼ばれていたこの地に入り、その後15世紀に和田氏がこの地を開拓したと言われている。それで、岸ノ和田と呼ばれる様になった。この時にはまだ城は築かれたという文献は見つかっていない。楠木正成が足利尊氏に敗れた後の15世紀後半に、現在の岸和田城跡から約500m南東の場所に山城の岸和田古城が築城され、この城をめぐって、細川氏と三好氏で城の争奪戦が繰り広げられた。室町時代後期の1558~73年ごろ、松浦氏が城を現在の場所に移した。その後、松浦氏は三好長慶の傘下になっていたが、織田信長の紀伊侵攻の際にその軍門に降った。16世紀初頭頃にはこの城は放棄されていたが、羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として城が再築城され、それを小出秀政が複合式望楼型5重5階の天守を築き、本格的な構えとした。関ヶ原の戦いの後、江戸時代になり、松平康重の代に天守を複合式層塔型5重5階とし、総構えと城下が整備され、その後の城主の岡部宣勝の頃、紀州藩の監視の為に、城の東側に2重、西側に1重の外堀と寺町が増築されている。江戸時代には岸和田藩の藩庁が置かれ、明治の廃藩置県まで岡部氏が藩主を務めていた。
[二の丸] まずは二の丸から見学をする。二の丸と本丸はそれぞれが水堀で区切られている。戦国時代まではこちらが本丸であったと推測されている。
[二の丸御殿跡] 二の丸には二の丸御殿があった。ここが御殿跡にあたり、現在は心技館とレストランが建っている。
[多聞櫓] 二の丸の角に櫓がある。一基は復元されている様だ。表示板には多聞櫓とある。ここで少し変だと思った。復元されているものは隅櫓で石垣の辺に沿った長屋の様な多聞櫓とは形が違う。とにかく行ってみる。謎が解けた。トイレと倉庫だった。多聞櫓の様に造っていたのだ。トイレにしては綺麗で立派。このアイデアも良いかもしれない。
[本丸] 二の丸から、名は不明だが土橋を渡り、大手櫓門を潜り本丸へ入る。
本丸には天守閣があるが、それ以外に何が建てられていたかは調べても出てこない。古地図では天守閣の前が広場なっており、現在は諸葛孔明の八陣法をモチーフとした砂紋と石組の回遊式枯山水庭園の「八陣の庭」が造られている。昔も庭園になっていたのだろうか?
本丸には天守閣の他に大手櫓門のある石垣の両隅に櫓があり、この二つの櫓も復元されている。いろいろと縄張り図や古地図などを調べたが隅櫓の名称は不明。本丸の周囲は多聞櫓がこの二つの隅櫓と小天守を繋いでいる。
本丸の石垣の水堀からの立ち上がりの部分が半分ぐらい堤になっている。犬走りなのだが、敵が水堀を泳ぎたどり着くことができ、そこそこの人数が待機できる。城の防衛上では不利なはず、なぜこの様な犬走りが造られたのか疑問。一般的には土塁とか石垣が崩れるのを防ぐ役割とかメンテナンスの通路とか言われている。犬走りが無ければその分、防備上は有利になる。更に分からないのは、この犬走りから本丸への通路がある。本丸と犬走りを行き来出来る様になっている。何の為か? 調べたがその解答は見つから無かった。これを防備の点から考えると不思議なのだが、江戸時代の太平の世でここを庭園の一部と考えると、本丸から堀端におり、茶会を催したり、堀で舟遊びをしたのかも知れない。この所は謎のまま。
復興天守ができる前の本丸石垣の様子の古写真があった。昭和29年 (1954年) のもので、左は修理される前の石垣が崩れている箇所が写っている。右が犬走りから本丸への階段が見える。その下には橋がある。古図面にはこの橋は無い。明治4年 (1871) に廃城となってから昭和29年までは大規模な改修はされていないので、やはりこの階段と橋は江戸時代のいつの時期かには造られたのでは無いだろうか?
[天守閣] コンクリートで外観が復元された天守閣は連結式望楼型3層。実際にあった天守閣は江戸幕府への届け出によると複合式層塔型5重5階であったが、落雷で焼失後、再建の申請が連結式望楼型3層になっていた。実際には再建はされなかったが、これを基に外観を復元している。
元々の五層の天守閣がどの様な物なのかは分からない。多分こうであったろうと想像された五層の天守閣と現在の三層の復興天守閣の比較がインターネットで出ていたので、拝借。
小天守から入ると、内部は資料館になっている。とは言え、展示内容はお粗末で、武具や掛け軸などの寄せ集めを展示している。武具は興味のある物なのでありがたいのだが、大体のケース、その城とは無関係な武具を展示している事が多い。城郭のジオラマもあった。城跡は石垣や堀だけしか残っていないところがほとんどなので、この様なジオラマが有れば当時の城のイメージがわかる。展示で力を入れている様に思えたのは、岸和田とキリスト教の関係についての展示で、最後の藩主の岡部長職、布教した新島襄、その協力者の山岡尹方に関する展示。詳しくはこの後、岸和田教会に行くのでその時に。ちなみに写真の甲冑の右中は山岡尹方が幕末に作らせた物だそうだ。全体の感想では、この展示内容で有料はいただけない。
天守閣最上階からの風景。
[二の曲輪] 二の曲輪は内堀の外側、一重目の外堀の内側にあり、太鼓部屋、軍科倉庫、極楽橋、向御屋敷、家老中家屋敷、新御茶屋、家老久野家屋敷、御薬園、牢屋、西大手門などがあったが、現在は残ってはおらず、新御茶屋、薬草園の跡地に明治4年の岸和田城の廃城の際に3千坪の回遊式の日本庭園がある五風荘という料亭が建てられて、現在でも営業をしている。
岸和田城の南西の三の曲輪があった場所に建てられた三の丸神社が残っている。南北朝時代の延元元年 (1336年) に楠木正成の一族である和田正儀が岸和田城 (岸和田古城) の守護のため、城中に創建したと伝わっている。三の丸には三の丸神社以外に、北口門、坂口門、御勘定所、東大手門、牛頭天王社、八幡社、神明門、神明社、南大手門などがあった。
城の北東にも三の曲輪があり、そこは岸和田市役所と高校になっている。
岸和田教会
新島襄ゆかりの教会。明治の廃藩置県の後、米国留学をしていた元岸和田藩藩主の岡部長職 (ながもと) がキリスト教徒となり、新島襄にキリスト教の布教を依頼。元岸和田藩士の山岡尹方 (やまおかこれただ) を窓口として新島襄が岸和田での布教を開始し、明治18年にこの岸和田教会を設立した。後に山岡は岸和田で最初のキリスト教徒となり同志社神学部で学んだ後、岸和田煉瓦会社を設立し、岸和田の近代化に貢献した。新島襄がについてはこの旅で生まれ故郷の安中やアメリカにわたった函館でそのゆかりの地を見たが、岸和田にも関係があったのは知らなかった。もっとも、岸和田市が岸和田教会の前に新島襄、岡部長職、山岡尹方の案内板を設置したのは大河ドラマの八重の桜の放映後だそうで、この関係を全面に押し出したのは最近の事。大河ドラマが無かったなら、岸和田市も取り上げなかったかもしれない。
だんじり館
岸和田と言えばだんじり祭り。だんじりの発祥の地だ。この旅で各地にだんじり祭りがあったのだが、それはこの岸和田から来ている。岡山の津山市を訪れた時に津山市で使っているだんじりは岸和田市の業者に発注していると言っていた。岸和田の一つの産業にもなっている。このだんじりを紹介する博物館が岸和田城の二の曲輪跡にあり、見学をした。内容は充実していた。だんじりの歴史や、その工芸技術、祭り段取りの紹介、実物展示、ワイドスクリーンで祭りの様子の放映、3Dでの迫力のあるだんじり走行、だんじり体験など楽しめる様に工夫がされてあった。館内をまわっている間、絶え間なくだんじりのお囃子の笛、太鼓鐘の音が流れ、祭りの雰囲気が味わえる趣向となっている。
だんじりの変遷を紹介している。
このだんじりの装飾は一般家庭の欄間の技術で、だんじり業社は欄間造りも商いにしているそうだ。
各町でだんじりを所有。それぞれが昔からののぼりやまといで祭りを盛り上げる。
体験コーナーに入ると子供達がお囃子をやっていた。観光に来た子供達かと思っていたが、かなりの腕前だ。太鼓も鐘もリズミカルに調子があっている。横笛を吹いている子供も相当の腕前だ。帰りの自転車置き場で親に連れられた子供が半ベソだった。聞いていると「今日は太鼓がたたけなかった」「今日は大勢順番待ちだから、次は早く来よう」と言っている。体験コーナーで演奏していたのは地元の子供で、ここが練習場所になっていると分かった。四六時中聴こえていたお囃子はその子供達が奏でていたのだ。岸和田の人にとってだんじりは生活の一部。子供達は大きくなってだんじりに上り、演奏するのが夢なのだ。日本各地の祭りは程度の差はあるが、似たような存在。祭りは地域文化の一部分を占めている。子供達が演奏している姿を思い出し、何故か気持ちが良い。
城の外側には町曲輪と呼ばれた地域があり、その真ん中に紀州街道が走っている。
紀州街道
大坂と和歌山を結ぶ街道で江戸時代は紀州藩や岸和田藩の参勤交代路であった。景観保存地区になっており、昔の街並みを残し再現している。なかなかこれほどの昔の街並みを保っている所は少ない。
本町一里塚跡
紀州街道にも、重要ルートという事で、大坂の高麗橋を起点として和歌山城下まで一里塚が設けられていた。塚はもうなくなっているのだが、この一里塚の所に天保7 (1836) 年に建てられた弁財天はいまだに健在だ。
円成寺
この紀州街道沿いにはいくつか寺があるのだが、ここは史跡の案内板があったので立ち寄った。信濃国の武人が本願寺證如上人のもと出家して天文5 (1536) 年に建立した専修念仏の寺で約500年の歴史がある。
蛸地蔵 天性寺
天性寺 (てんしょうじ) の地蔵菩薩は蛸地蔵と呼ばれている。この蛸地蔵の昔話が面白い。昔話は四部構成で、それぞれの時代に現れた地蔵の話になっている。第一部は時代もわからぬ昔の話で、寺に押し入った賊が地蔵を海に捨てる話。二部目は南北朝時代の楠木正成の城代和田和泉守が台風で城まで水浸しという時に地蔵が蛸に乗って現れ、嵐を鎮め被害が全く無かったと言う話。第三部は戦国時代の豊臣秀吉の配下の松浦肥前守が城主の時のこと、紀州の根来、雑賀が攻めてきた時に地蔵が現れ、蛸の大群を使って追い払った。地蔵は捨てられていた海から引き揚げられ寺に祀られた。
そして第四部は江戸時代に地蔵に修復の際、体の中から多くの銃弾が出てきて、人々は昔の言い伝えが本当にあったことがわかり、なお一層地蔵尊を敬うようになった。今でも、この寺にお詣りをする人の中には、一生、蛸を食べないで蛸の絵馬を奉納し願をかけるそうだ。
岸和田自然資料館
岸和田城の入館券で自然資料館も見学できると言うので立ち寄った。ここが今日の最後の訪問地になる。先程は蛸地蔵の寺に行ったが、ここにも「タコ」というのぼりが資料館の前に掲げられている。やはり、岸和田にとって蛸は特別な物らしい。タコに関する資料がいっぱいあり、珍しい蛸の展示もあった。蛸と言われなければわからない珍しい物だ。
フロアを3階使って動植物の展示や岸和田の地理などの紹介があった。凄いと感じたのは動物の剥製展示。凝った展示では無いが、展示している点数が半端で無く、見ていて面白い。更に驚いたのは、これは一個人のコレクションで岸和田に寄贈された物だ。これだけのものを収集するには相当の金と期間が必要だったはずだ。今では絶滅危惧種に指定されている動物もおり、資料館ではその表示と解説も丁寧にしてあった。
見学を終えた時点で日没となった。日が暮れた暗い道を数キロ先の堺市近くの宿に向かう。明日は今年世界遺産となった堺市に古墳群巡りの予定。